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おばあちゃんの家
しおりを挟む長い廊下を歩くと木の軋む音が夜の静かな空気に響いて、少し肌寒い秋の田んぼから聞こえる鈴虫の音と絡み合って、古いおばあちゃんの家がまだ、生きていることを私は知る。
おばあちゃんは94歳で死んだ。
葬式は田舎のど真ん中にある大きなセレモニーホールで行なわれた。
お父さんもお母さんも叔父さんも叔母さんも兄も甥っ子も従兄弟も、初めて見る顔の親戚も、みんなが「大往生だ」と笑って寿司を喰らった。
おばあちゃんは「天国なんてものがあるなら死ぬのはもう怖くないよ」といつか、目にシワのよった優しい笑顔で言っていたから、きっと今頃は、おじいちゃんと出くわして、天国の縁側でお茶でも飲んで、相変わらず美味しい卵焼きを作っては猫を撫でながら二人で食べているに違いない。
家は、誰も欲しがらなかった。
叔父さんも叔母さんもお父さんも、東京で住んでいたからだし、介護をして疲れたお母さんも、「もう東京に帰って、銀座で美味しいものを食べたり、映画を観たり、好きなことをして暮らしたい。こんなど田舎からなんて早く解放されたいわよ」なんて言っていた。
おばあちゃんとは、長い間、私は会ってもいなかった。
中学生の頃、一度一人でこの家に来て、夏休みを過ごした以来、会ってなかった。
なのになんでか、要らなくなってしまったこの家が無性に懐かしくて、悲しくて、鋭く切なくなったのだ。
「お父さん、あの家、私にちょうだい」
私が真面目な顔で、実家へ帰ってドアを開けてそう言うと、鼻をほじくっていたお父さんと、大口あけて、ドーナツを今まさに食べようとしていたお母さんが、私に視線を向けた。
「仕事どうするんだよ」
お父さんは鼻をほじり続け、くしゃみをひとつして、鏡を手にした。
「今だってアルバイトだもの。私はまだ若いし、田舎にだってお店の一つや二つ、ないわけじゃあないでしょ。私には、お兄ちゃんみたいに子供がいるわけでもないし、お母さんみたいに、田舎が嫌いなわけでもない。言っておくけど、自由なの、私。あの家、私が買う。お父さん、400万だと、安い? 」
貯金額を言った途端に、お父さんは目をかっぴらいて、「銀座で寿司食い放題だなあ」と間の抜けたことを言って了承してくれたのだった。
そして夜だ。
今日は、引っ越して第一日目の夜なのである。
そばには実家から連れてきていた猫のミルクがいる。
布団を敷いて、丈の合わないカーテンを閉めて、枕に頭をぶつければ、ただただ、おばあちゃんの姿のないこの家の呼吸だけが、私を夢へ連れて行ってくれるのだった。
「ルイ」
私の名前を呼ぶ声がするような朝を迎え、そしてその声はもうどこにもないことを、薄紫色の柔らかい空から吹く風を受けた石畳の玄関で、湿った鼻を舐めている猫のミルクの姿と同時に捉えた。
置き時計の針は五の数字を指して、夜明け過ぎの田舎の気配を肌で感じながら、私はミルクを呼ぶ。
ミルクは赤茶けたマダラ模様の長い毛を、妖艶な朝の光を纏い、一声、鳴く。
昨晩かけた羽毛ぶとんからようやく気だるい体を起こし、キャミソールの紐を引っ張り上げ、お皿にキャットフードと鰹節をふりかけ、待ちわびた鳴き声の主にやると、毛むくじゃらの長い尻尾をくねらせながら彼女はしゃがみこみ、それを飲み込むように喉をグングン鳴らして食べていくのだった。
「仕事、探さないと」
あくび混じりに呟いて、適当なプルオーバーをかぶり、洗面台へ向かい、背の低い鏡の位置をずらしながら蛇口をひねれば、勢いよく冷たい水が飛沫を上げて、眠たさごと皮膚に感じていく水圧が、ぬめったような薄暗い私の不安感を全部吹き飛ばしてくれた。
やってきたのは新しい朝と新しい生活への期待と、それから一つの思いつきだ。
スマートフォンを手に取り、深緑の布をかぶせた古いソファにあぐらをかけば、その思いつきは叶った。
私には古くからの親友と呼べる人間が三人いて、そのうちの一人が祖母の家の近くに住んでいた。
ナツキは、電話口で寝ぼけたような声で、それでも私の頼み事に二つ返事で答えてくれる。彼女の懐の深さに感謝すれば、安堵した腹の虫が大げさに鳴り響いた。
買ったばかりの小さな冷蔵庫はがらんどうで、開ける必要すら感じないほどに空腹だった。
すり寄ってくるミルクの背中を撫でながら時計を見やれば、まだ朝方で、道も不安定におぼろげなスーパーはきっとシャッターを下ろしているに違いないだろう。
あと数時間もこの空腹に耐えるのかとため息をつくと、目のはしに映るキャットフードのパッケージ中にいる丸い目の白い猫が小憎らしく、じわ、と部屋の隅に届かないシェードランプの灯りにさえ腹がたつ。
今日は掃除をしてシェードを買い換えよう。
そんなことを心で思い、私がひとまず、といった形で布団をたたんでいると、玄関の方で物音がする。
ミルクは足元で毛づくろいを一休みしているところだし、新聞は取っていなかったはずだ。
足音を忍ばせつつ玄関をのぞくようにすると、私よりふたまわりほど大きな人影がすりガラス越しにうつっていた。
「ひっ」
悲鳴を飲み込み、立てかけてあった竹ぼうきをつかんだ私の掌は、汗ばみ、しかし頼る者などいないこの家では、手に力を入れなおすしかなかった。
その人影が近づいて、玄関の引き戸が開いた。
一思いに振りかざした竹ぼうきは、「彼」の顔中に突き刺さり、呻き声と「雛川さん、、」私の苗字が耳に残ったのだった。
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