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大根おろしはほんのにじむほど
しおりを挟む「立川ユウヒと申します。雛川のおばあさんとは、茶のみ仲間だったんだ。亡くなったなんて、知らなかった、、」
ユウヒはひとつ涙を流して、なにやら重そうなカバンを畳の上に置いた。
おばあちゃんが死んでから、泣いて惜しむ人の姿を初めて見た。94歳という数字のインパクトは、それほど安心しきってしまうものだと、私も錯覚していたに違いない。
そうだ、おばあちゃんにはもう二度と、会えないのだ。
「ねえ、ユウヒさん。ところですごく生臭いんだけれど、、」
重そうなカバンを指差すと、おもむろにユウヒは、手を突っ込んで、生魚を引っ張り出す。
「雛川さんにいつも持ってきていたんだ」
「あら、秋刀魚」
ツヤツヤとしたそれが途端に腹の虫を暴れさせる。
あげる、と差し出された秋刀魚を、私は受け取り、庭にほっぽらかしてあった七輪を出して、腕まくりをした。
「しかし、卵焼きも、もう食べられないなんて、哀しいなあ。俺はあの卵焼きを食べながら、雛川さんとお話をするのが好きだったんだ」
「また来てください、お礼に作りますよ。おばあちゃんのようにはいかないけれど、、」
七輪の上で煙を上げる秋刀魚は食欲をそそる匂いで焼かれていった。表面が少し焦げた頃、ふと後ろを振り返れば、ユウヒがスケッチブックを持って、寝ているミルクを描いていた。
秋刀魚を適当な皿に乗せ、箸を二膳出す。
「いただきます」
「おろしがあれば、よかったんですけど」
秋刀魚に醤油をかけようと、手を伸ばした時、ユウヒがそれを制した。
「秋刀魚だけ持ってくるような俺じゃない」
「え、あるんですか?」
カバンの中から葉っぱの付いた大根が出てくるのだった。
おろした大根を秋刀魚の皿に盛ると、ユウヒは醤油をほんの少し、多すぎず少なすぎず、微妙な手首の動きで、ひと垂らしした。
つばを飲みこむような真剣な顔に、笑いそうになった私を気にもかけず、箸でほぐした湯気の舞う身におろしを乗せ、口に運んだ。
目が細まって、本当に旨そうに笑うユウヒを見ていたら、なんだか私も、真剣に醤油を垂らしてみたくなったのだ。
「大根おろしの色が全て染まってはいけない。にじむくらいでちょうどいいんだ」
ユウヒも、真剣な顔つきで私の手元を見る。
ごくん、つばをも飲み込み、ほんのひと垂らし、ほんのひと垂らしに沈黙が起こる。
身をほぐし、それを乗せたら、身のきめ細やかな部分に醤油の味が染みて、大根の爽やかさが絡み合って、ふわりふわりとした食感が、とにかく旨かった。
「絵を描くんですね」
スケッチブックの描きかけのミルクの上には、本物のミルクが気持ちよさそうにあくびをして乗っかっている。
「うん。絵が好きでね。描いている時間は、対象物しか目に入れられないから。愛しくて仕方ない人を、抱くような心地になるよ」
そんな話をしながら食べ終わると、ユウヒは、スケッチブックを手に持ち、「もう少し、猫ちゃん描いてていいかな?」と子供の頼み事する時のような瞳で言ったので、「いいですよ」私も、くすぐったい気持ちで、答えた。
洗い物をしながら、なんだか不思議と、ユウヒの背中が後ろにあることが、居心地よくて、鼻歌さえ歌ってしまいたくなった。
すると、ユウヒの声が重なって、二人でハミングしてしまう。
初めて会うのに、そんな気分になれたのは、おばあちゃんの魔法だったのかもしれない。
「また、ミルクを描きにいらしてください」
私が玄関の戸を手に言えば、ユウヒは、「今度は鮭でも持って来るよ」と笑うのだった。
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