愛すべきあいつ

七山月子

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私も人の子供だ。
だけどそれ以上にグロテスクな人間だ、そう思う。

横には知らない男がいる。
いや、知らないというのはどの範囲のことを言うのか。私の29年の生き様ではまだわからぬ。
突然、思い立って会いにきた埼玉に住むこの男とは、毎日確かにお話をしていた、お話だけをしていた仲だった。

お話、と言っても、中身のない雑談をしていた、より相手に好かれたい自分をさらけ出していたに過ぎぬ会話ばかりしていただろう、だからこいつも私と変わらぬグロテスクな人間だ、そう決めつけないとやってられない。

夜中の1時、私は彼の本名すら知らぬままに家を飛び出て、高架下に飛び出した、暗い道にはオレンジ色の街灯が灯っていて、いっそ死ぬほどに絶望の黒を望んでいた、確かに有難いその光は股のこすれたいやらしい匂いをも照らしているようだったからだ。

いっそ田舎も田舎の大きな山でもありそうな田舎で夜中に飛び出したっていうなら、まだ悲壮感があって心地が良かったろうか。
それとも私の...
今まさに、かき消されていく絶望や人間味に溢れた情をまだ思いとどまらせてそこに、そう胸に、とどまらせてくれたろうか。

私は異常にも幼く、泣きわめくだけの体力もなく、ただ知らぬ顔の男のいびきを聞いていたくもなく家を飛び出て、いっそなければいいと願いながら有難い街灯の下を延々と歩いていた。

彼は、日常生活の範囲に入れてはいけぬ存在だった。

仮にえいくん、そう呼ぶとすればえいくんはただひたすらに私の体を、いいえ、女の体を欲していた。ちょいと色をつけるように私という存在はあった、きっと。

えいくんは私を優しく撫で、そうして時折乱暴に触れ、挿れた。
私という名の女の穴を求めた獣であるえいくん。
気色の悪いグロテスクな唇で私を舐め尽くし、だけど満足のいかぬまま眠りについた、私という名の女の穴ではもの足りぬと言わんばかりにいびきをかいて眠ってしまったんだ、私という名の女の穴は、腹ただしくて家を飛び出て歩くしかない。

私は、唯一無二の友達でいたかった人がいた。
今もなお私の帰りを待っている男だ、そいつは愛すべき相手で、私も愛されるべき相手となった、結婚とはこんなに縛り付けるには最適なものか。

もうすぐ夜明けだ、駅が見えた。
電車も動き出す用意をしている時間だ、胸の奥から根こそぎ本音を吐き出したい気分も、この朝焼けに塗り替えられるのか、ピンク。

私のくだらない人生は29年前にオギャアと泣いて産まれたんだろう、母も父も兄も笑ったであろうこの私の出生を、神だけが貪欲に試練を与え続ける、なんてそんな大層なものでもない、たかが私の人生、29年の歳月、坂本龍馬の人生に比べたら、歴史の教科書に出てくる人生に比べたら、私の29年、浅はかで終わるんだろう。

旦那のことを好きでい続ける自分を演じなければならぬ。
今日あった本名さえも知らぬ男のことなど忘れて、そう忘却の彼方へ捨てるのだ、実を言えばそんなに甘くも感じていなかった、あの男の根っこはそんなに太くもなく強くもなくただ癒されるにふさわしいほどの、小さな綿ぼこりのようなものだったのだ。

私がなぜこんなに狼狽し、緻密に悩もうと努めているのかといえば、彼の姿が垣間見え、そして忘れもしない夏を思い起こさせるのだ、彼の名前は今も私を運命という渦に引き込ませるからいえない、そう、仮にカラスと名付けよう。

カラスは呻くように鳴いた、泣いていたのかもしれない、その涙に瞼を閉じて、私はただ聴いていた、否、聴いてもいない、見ていたのだ、それもカラスの奥を見ようとして、失敗をした、そうだ、自分の中にカラスを置いただけの行為だったんだ。

カラスは鳴いた、言葉という実名をもって、本音なのか本物なのか、彼の中で一番とする声を鳴いていた、日本人であるべき私たちへ、地球人である人々の私へ、相手をつかんではなさない、そう、彼は生きていた。

私がカラスを好きになるのは容易かった、カラスがそう仕向けたのかと思うくらいには容易かった、旦那の存在を上回るほどには、容易かった。

誰が浮気や不倫を否定しても、あなたが思うほどに人間の心情が単純ではないと叫びたい、彼ほどに巡り合う季節が違えばと願う日がなかった相手はいない、それが性別を超えてでも愛せた自信があるくらいには、私にとってカラスは色の違うものだった。

好きだった、愛していた、ただ一方通行の恋かと問われれば怪しい、両方向のものであってもきっと一生交わることはないのかと思えるほどには、羨んだ、望んだ、苦しかった。

甘苦しいその想いは友人であって欲しかったあいつによって憚られた、否、もとより私にカラスを射止める術はなかったのかもしれぬ、愛しているなど口が裂けても言えない間柄、燃え尽きては死んでいくべき恋、しかし今でも彼に恋をしている私は一体なんなのか、それは否定をする人間からも、肯定をする相手からも、中立にいる相手からも、そして友人であるべきであったあいつ、旦那からも、当然答えなど得られないのだ。


好きだった、好きだった、過去に戻れるならば、いつにも増して、お洒落などして気にいるようにしたのに、あなたは、振り向かぬまま、今も、今を生きている。

相変わらず、朝焼けを見ればあなたではなく、あいつ、そうだ旦那が浮かぶ。

なんのために、傷をつけたのかわからないこの心に浮かぶのは、一生涯を誓ったあいつだ、どうしてカラス、あなたではないのか、時の経つ砂のような想いだったのか、ただ、いっときの想いだったのか、とても、懐かしむように眼差しを思い出し、そして私はあいつのもとへと帰るんだ。

愛とは、何か。

誰が答えられるのか。

それは、きっとカラス、あなたではないのだ。
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