最果ての僕等

コハナ

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月光浴

1.

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視界が白く霞んで何も見えない。遠くで誰かの声が耳に届く。耳を澄ませば俺の名前を呼んでいる。意識を向けたせいか叫ぶように荒々しい声が聞こえる。俺は今は何処にいて、どんな状況か分からないが、身体はふわふわと水面に浮かぶような心地よさに包まれている。此処でふわふわと漂っていたいが、俺を呼ぶ声の方へと意識が引っ張られていく。


「伊月部長、大丈夫ですかっ!?」
「‥時‥雨?」


聞き慣れた声がはっきりと耳に届く。見慣れない白い天井と消毒の匂い。腕には管が繋がっていた。此処が自分の知る場所でないと分かった。


「痛いところはないですか?今医者を呼びます。」


時雨が枕元に置いてあるボタンを押してスピーカーに呼び掛けている様子を見て病院だと気付いた。数十秒程で医者と看護師が病室に入ってきた。


「気分はどうですか?お仕事中に倒れて運ばれてきたんですよ。」
「‥お陰で楽になりました。」


まだ回復しきっていない身体をふらつかせながらベットから起こすと、すかさず時雨が倒れないように伊月の背中を支えた。


「まだ顔色も良くないので、このまま検査入院しましょう。」
「帰れないんですかっ?!やらなきゃならない仕事が残ってまして‥。」
「今の状態で帰すのは難しいですね。帰したとしてもまた病院にトンボ返りする事になりかねませんよ。」
「‥‥。」
「今日は遅いので明日検査をしましょう。今夜はゆっくり休んで下さい。」


医者の言う事はど正論で、ぐうの音も出ず従うしかないと諦めた伊月は「はい。」と頷いた。「では、また明日。」と医者と看護師は軽く伊月と時雨に会釈をして病室から出て行った。「参ったな。」と大きなため息をついて頭を抱えた。


「この際、しっかり検査してもらって下さい。仕事の調整はやっておきますので。」
「じゃあ明日にでもPCを持ってきてくれ。此処でやれることやっておくから。」
「今は養生して下さい。無理をして長引かれる方が迷惑です。」
「うぅ‥。」


部下の時雨にも図星をつかれ、何も言い返せない。伊月は時雨にも「はい。」と諦めの返事をした。


「着替え等身の回りの必要な物は明日持ってきます。欲しいものがあれば連絡して下さい。」
「いや、澄架に頼むから。」
「奥様には先ほどから連絡を差し上げているのですが、連絡がつかないので私が支度してきます。」
「‥悪いな。」
「では明日面会時間になりましたら参ります。ちゃんと養生して下さいね!」
「分かりました。」


釘を刺すように鋭い口調で忠告されると観念するしかない。「宜しく。」と手を振りながらベッドの上で時雨を見送る。「養生ですよ!」とさらに忠告される。余程信用がないらしい。確かに今も頭の片隅では、自分が検査入院中どのように仕事を回したら効率的か。なんて考えているのだから。俺の性分を見透かしているのだろう。


時雨が帰る時に部屋の電気を消していったものだから視界は黒一色に包まれた。運ばれた病室が個室のせいか尚一層静けさが際立っている。消灯台に置かれたスマートフォンに手を伸ばし電源ボタンを押せば時刻は22時を回ったところだった。この時間はまだ会社で仕事に追われているな。なんて、また仕事の事を考えてしまう。「駄目だな。気分を変えよう」と部屋のカーテンと窓を開ける。冬真っ只中の外は夜風が肌を刺すように冷たい。しかし、消毒の匂いが染みついた部屋に新鮮な外気が流れ込んでくるのは気持ちがいい。目線を上げれば雲に少し隠れた半月が見えた。「都会も見えるんだな。」と久々に見た月を眺めている。そのうち身体がブルッと震え冷えてきたところで窓とカーテンを閉めベッドに横たわった。仕事尽くめの日々で疲れていたのか、体調がまだ不完全な為なのか分からないが、眠りにつくのに時間はかからなかった。


「伊月さん、おはようござます。」


目を覚ますと、看護師が枕元に立っていた。目を擦りながら起き上がり、スマートフォンの電源ボタンを押すと時刻は7時半だった。慣れないベッドだったが久々に良く眠れたおかげで頭がスッキリしていて身体も軽い。


「朝一で検査をしますので、検査が終わってから食事をして下さい。まずは検温お願いします。」
「はい。」


ベッドから身体を起こし体温計を受け取る。体温を測りながら今日受ける検査の説明を聞く。説明が終わると、同意書にサインを求められた。体温計を挟む腕を左腕にしなかったことを後悔しながらも何とかボールペンを握りサインした。MRIやら血液検査やら幾つもの検査をこなし、朝一から受けたはずだが終わったのは13時を回っていた。やっと病室に戻ってくるとベッドサイドテーブルの上に食事が置かれていた。昨夜も今朝も何も食べていなかったせいで食事が視界に映ると腹が鳴る。急ぎ足でベッドに登り、置かれた食事に向かい「頂きます。」と手を合わせてからスープを飲んだ。2食抜いただけあって、スープの味が舌全体に刺激する。次の味を求めて次々と口に食べ物を運んでいく。


「‥ぅんまい。」
「昨日より顔色がいいですね。」


半分程食べたところで、両手に大きな鞄を持った時雨が病室に入ってきた。


「そんなに沢山荷物が必要なのか?」
「夜は冷えるでしょう。身体を冷やすのはよくありませんから。」
「流石だな。」
「長引いたら困りますからね。」
「早く戻れるよう努力します。」


どちらが上司なのか分からないやり取りをしていてると「検査お疲れ様でした。」と昨夜診察した医者が病室を訪れていた。伊月の食べかけのお膳を見て「食欲はありそうですね。」と尋ねた。「はい。美味しいです。」と伊月が答えると「それは良かった。」と笑って答えた。


「検査は無事終わりました。結果をお話したいので、後でお時間頂けますか?」
「分かりました。」
「ご家族はいらっしゃいますか?一緒にお聞きになりますか?」
「妻が居ますが‥。私だけで聞きます。妻には後で伝えます。」
「‥そうですか。では後程お声掛けさせていただきますね。」


医者は会釈をしてから病室を出て行った。伊月はまだ食べ物を欲する胃袋に再び詰め込んでいく。時雨は持ってきた荷物を消頭台に整頓し始めた。


「結果聞いたら帰れるのか?」
「どうでしょうね。家族しか同席できないので、しっかり聞いてきて下さい。‥澄架さんに同席してもらわなくていいんですか?」
「結果が分かってからでいいだろう。」
「‥そうですか。」



食事が食べ終わる頃に、時雨も荷物の整理を終えた。それと同時に時雨のスーツの内ポケットにしまわれたスマートフォンが震える。画面をちらりと見ると会社と表示されていた。眉がピクリと動く時雨に気付くと「結果分かったら連絡するから、仕事の方を頼む。」と伊月が会社に戻るよう促した。「すいません。」と軽く頭を下げると病室を後にした。


日が傾く頃、看護師が伊月の病室を訪れた。


「先生のお話聞きに行けますか?」
「はい。」
「では、こちらにどうぞ。」


看護師に導かれるまま着いて行くとカンファレンス室と書かれた部屋の前に着いた。「こちらで先生がお待ちですので。」と伊月を案内すると看護師は自分の持ち場に戻って行った。看護師の背中を見送ってからドアをノックする。「伊月です。」と声を掛けると「どうぞ。」と返事がしてからドアを開けた。部屋は診察室より広く部屋の真ん中には4人掛けのテーブルと椅子が置かれていた。医者が向かう壁付けのデスクの上に2台のパソコンが並んでいた。伊月が椅子に座ると、医者はくるりと回って伊月を見た。


「気分はどうですか?」
「昨日より楽になりました。」
「それは良かったです。」
「いつ退院できますか?」


伊月が退院について尋ねると、医者はパソコンの方に向かいパソコンのキーボードを叩いて画像を出した。


「退院は今は難しいですね。」
「‥は?」
「単刀直入に言います。胃癌です。進行の早い癌で末期です。」
「‥‥。」
「手術は難しいです。治療としては延命処置になるでしょう。もしくは緩和ケアという選択肢もあります。」
「完治は無理ということですか?」
「全力を尽くしますが、今の医学では難しいでしょう。」
「‥余命は‥あとどのくらい‥?」
「‥何もしなければ半年でしょうか。」
「‥‥そうですか。」
「自宅療養を希望するようでしたら、希望に添える病院を紹介します。」
「‥‥。」
「答えが出るまで、とりあえず入院して様子を見させて下さい。」
「‥‥仕事もありますし。」
「病室でしたら、仕事してもらって構いませんよ。」
「‥そうですか。」
「仕事も大事ですが、ご自身と向き合ってみてください。時間は限られていますから。」
「分かりました。」


カンファレンス室から病室までどうやって戻ってきたのか記憶がない。気付けば夕食のお膳が運ばれてベッドサイドテーブルの上に置かれていた。食器に手を伸ばすが汁物はすっかり冷めて、ご飯はカピカピになっている。食べる気力はわかずベッドに寝転がるがとても眠れそうにない。1人暗い病室の中では孤独に押し潰されそうで胸の奥がザワザワする。気がおかしくなりそうで病室を出て院内を歩いて不安を紛らわした。


しばらく歩いていると白いペンキで塗られた鉄のドアに辿り着いた。それを開けると長い渡り廊下だった。向こう側にはこちら側と違い焦げ茶色のドアがある。吸い寄せられるように歩いていくと、木目調の重厚感があるドアに金色のプレートが張り付いていた。そこには【ターミナルケア病棟】と書かれていた。ドアの向こうはどうなっているのか気になり、ドアに手を掛けるが鍵がかかっていて開かない。そこへ見回りにきた看護師が伊月の肩に手を置いた。


「就寝時間は過ぎてますよ。こんな時間のお散歩は困ります。」
「すいません。寝付けなくて。」
「お部屋に戻りましょう。」


注意をされた後、看護師と一緒に病室屋に戻っていく。その道中、先程目にした【ターミナルケア病棟】について看護師に尋ねた。「‥あそこは余命宣告を受けた方が痛みを緩和しながら穏やかに最後を迎える為の場所です。」と看護師は少し間を置いてから教えてくれた。「そうですか。」と伊月が答えるとその後は沈黙のまま病室に戻って行った。病室に着くと、「起床時間までは出ないで下さいね。眠れないようでしたらお薬出しますよ。」と看護師から注意を受ける。「ご迷惑お掛けしました。大丈夫です。」と頭を下げ謝罪してから病室に戻った。ベッドに座り消灯台に置いてあったスマートフォンを手に取り電源ボタンを押すと時雨からの連絡が表示されていた。電話が何件かとメッセージが何件か入っていて、メッセージには『どうでしたか?』『連絡下さい。』と書かれていた。「これは怒られる。明日は連絡しよう。」と自分に言い聞かせスマートフォンの電源を切ると、眠れそうにないがベットに横たわった。
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