最果ての僕等

コハナ

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月光浴

2.

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眠れないまま朝を迎えると「おはようございます。」と医者が病室へ入ってくる。


「眠れましたか?」
「‥あまり。」
「昨夜はお散歩をしたようですね。」
「すいません。寝付けなくて。」
「今、時間ありますか?」
「‥はい?」
「ご案内したい場所があります。」
「‥?」


言われるがまま医者に着いて行くと、昨夜訪れた渡り廊下だった。その前で立ち止まると「こちらです。」と医者に誘導され焦げ茶色のドアの前に立つ。医者がポケットから鍵を出し鍵穴に刺して回した。横に設置されたキーパッドを指で叩くとガチャリと重たい音とともに鍵が開いた。医者がドアを開け「どうぞ。」と中へと誘う。禁断の扉に足を踏み入れてしまったような気持ちになり、唾を飲み込んでから中に入った。


ターミナルケア病棟に入ると驚いた。伊月が療養している病室は白い天井に白い壁。あからさまに『病院』という雰囲気なのだが、この病棟は全く違う。廊下には、グレーとベージュの落ち着いた色合いの幾何学模様のフロアマットが敷いてある。天井には等間隔に小さなシャンデリアがぶら下がっていて電球色の優しい灯りが廊下を照らしている。壁紙にはフロアマットと同様に落ち着いたグレーの色合いでダマスク柄が使われている。幾つか並んでいるドアは木目調の白いドアで番号が彫られた金色のプレートが付いている。ドアノブもプレートと同様の金色で高級ホテルの廊下を歩いていると勘違いする造りになっていた。


「まるでホテルですね。」
「病院を感じさせない造りになっています。何処か旅行に来ているような感覚で最後の時間を穏やかに過ごせる目的の病棟です。勿論医療面のサポートも24時間していきます。」
「‥なるほど。」
「幾つか空いている部屋がありますが見てみませんか?」
「はい。」


自分達が立っている所から一番近い空き部屋へ案内された。
ドアを空けると、数歩程歩く廊下がある。廊下の右手側にはトイレ。左手側には独立洗面台と脱衣場。その奥にはバスタブ付きの浴室まで完備されている。その廊下を抜けてドアを開けると、天井から床までの高さがある大きなはめ殺しの窓が目にはいった。その窓からは病院の外に堂々とそびえ立つ桜の木が特等席で見える。今の季節が冬なのが残念だ。
部屋の北側に壁付けされた簡易キッチンが完備されている。キッチンの南側には4人がけのダイニングテーブルもある。さらに窓際には二人掛けソファと部屋には十分過ぎる大きな壁掛けテレビまである。
「こちらにどうぞ。」と医者の声がする方を振り替えると、リビングの隣の部屋に案内された。そこはベッドルームだった。寝具が清潔感のある白で統一されたダブルベッドが一台部屋の中央に置いてある。その右脇にライトスタンドが乗ったキャビネット。リビングと同様に大きなはめ殺しの窓があり桜の木はもちろん綺麗に手入れされた中庭も良く見えた。
部屋の北側にドアがあり、そこを開ければウォークインクローゼットまで付いていた。


「本当にホテルですね。」
「ありがとうございます。」
「此処を希望する方も多いでしょう。」
「そうですね。しかし金額もそれなりなので満室になる事はそうないですね。」
「‥なるほど。どうして私を此処へ連れてきてくれたのですか?」
「幾つか選択肢があるなら、こちらで提示できる情報は全てお伝えしたいと思っています。」
「ありがとうございます。」
「‥それと‥ご家族はいらっしゃるようですが、奥様はお忙しいのでしょうか?もし自宅療養をご希望されるのであれば、奥様の協力は必要となります。それは可能ですか?」
「‥‥。」
「延命治療を希望される場合は今の入院されている場所での治療となります。セカンドオピニオンをお考えでしたら、そのように手配します。」
「お気遣いありがとうございます。」
「いえ、よく考えてみてください。分からない事があればいつでも仰ってください。」


ターミナルケア病棟を見学し終えると、医者とその場で分かれ1人で病室へ戻る。部屋へ戻ると仕事の事、これからの自分の身体の変化、澄架の事、複数の気掛かりな事が一辺に頭の中を巡り頭を抱えた。悶々としているとスマートフォンが震える。その振動で我に返り、画面を見ると時雨からの着信だった。電話に出た瞬間「何故連絡をくれないのですか?!」と第一声で怒られた。「ごめん、ごめん。」とヘラヘラと謝る伊月に呆れたように時雨が深いため息をつく。


「何か必要な物はありますか?」
「そうだな‥あの店の珈琲が飲みたい。」
「珈琲飲んでも大丈夫なんですか?」
「あぁ。頼むよ。」
「承知しました。では後ほど。」
「宜しく。」


時雨が伊月の元に訪れたのは面会時間終了ギリギリだった。「遅くなりました。」と小走りで部屋に入ってくる時雨の右手にはテイクアウト用のドリンクカップが握られていた。


「数日も飲んでないから身体が欲していたよ。」
「熱いので気を付けて下さいね。」
「ありがとうな。」
「それで結果はどうでした?退院の目処はつきましたか?」
「‥うん、その事なんだけど‥」
「?」
「退院は無理そう。胃癌らしい。しかも末期。」
「!?」


伊月の口から放たれた告白に、頭を殴られたような衝撃を受け言葉を失う。時雨はただその場に立ち尽くしている。


「医者から自宅療養か、延命治療か、緩和ケアか、と選択肢をもらったよ。自宅療養はするつもりはない。だとすれば、延命治療か緩和ケアになるって事なんだが‥」 
「ちょっと待ってくださいっ?!」


伊月があまりにも淡々と他人事のようにしゃべるせいで時雨の気持ちが追い付かない。伊月が喋っている途中だが、遮って何とか言葉を絞り出した。


「末期って‥完治する治療法は無いって事ですか?」
「何もしなきゃ半年だろうって。」
「!?」
「だからさ、時雨の顔を見たら分かっちゃったんだよね。全部ちゃんと整理しておかないといけないんだなってさ。」
「何言ってるんですかっ?!」
「俺がいなくなっても困らないようにしておかないとな。」
「‥笑えない冗談ですよ。」
「至って真面目だよ。だからお前に手伝ってほしい、時雨。」


口調は柔らかいが、伊月の目は真っ直ぐと射ぬくように時雨の目を捉えている。“こうなったら何を言っても動じない”と時雨はなかば諦め伊月の提案に頷くしかなかった。


決断してから伊月の行動は早かった。仕事と身の回りの整理に時間を費やしたいと医者と相談し、緩和ケアを選んだ。そして昨日見学したターミナルケア病棟に移ることを決めた。


「お掛けになった電話番号は現在電波の届かない所にあるか電源が入っていない為‥」 


妻の澄架に何度か電話を掛けているが繋がらなかった。通話ボタンを切るとため息が漏れる。いつから疎遠になってしまったのか?そもそも家族を築けていたのか?澄架は何を考えているのか?澄架と生活した日々を思い返すが、夫婦らしい事をした記憶がない。

澄架は上司の娘で、仕事は出来るが女っ気の無い伊月を上司が気に入り半ば強引のお見合いで結婚した。お嬢様育ちの澄架は家事はろくに出来ず実家から連れてきた使用人に家事をやらせては買い物や夜遊びを繰り返していた。仕事が忙しい伊月も澄架を構ってやれない事に負い目を感じて見て見ぬふりをしていた。今何処で何をしているのか澄架の事は全く分からない。


職場で倒れて病院に運ばれた。
そこで末期癌だと診断された。
病院で最後まで面倒見てもらうよう手続きをした。
君に迷惑を掛けるつもりはない。
心配しないでくれ。


他人行儀なメッセージを澄架に送ると伊月は荷物をまとめて早速ターミナルケア病棟に移った。幸いにも医者に見学させてもらった部屋に入院が決まった。
部屋に入ると荷物はウォークインクローゼットに放り投げるように片付けた。それからリビングに行き時雨に電話を掛け用事を頼む。面会時間が始まる時間に時雨が訪れると頼んでおいたノート型PCを受けとり早々と仕事に取りかかる。ダイニングテーブルでPCを叩く伊月を横目に簡易キッチンで珈琲の支度を始める。ミルで豆を引きペーパーフィルターに粉砕した珈琲を入れてお湯を注ぐ。部屋の中が珈琲の芳ばしい香りに包まれた。


「あれ?今日も買ってきてくれたのか?」
「はい。でも豆で買ってきました。」
「豆っ?!」
「これで買いに行く時間も節約できるでしょう。ご自分で淹れられるよう練習してみて下さいね。」


行きつけの店の珈琲の匂いのお陰か数日ぶりにキーボードを叩く指先が速さを増していく。


「無理は禁物ですよ。」
「あぁ。」
「珈琲置いておきますね。」
「あぁ。」


頭の中を仕事に支配された伊月の口からは曖昧な返事しか出ない。それを見守るように時雨も伊月の斜め向かいに座ると淹れたての珈琲を一口啜ってからから自分のPCを開いた。


コンコンと誰かがドアを叩く音が聞こえて、キーボードを叩きながら「どうぞ。」と時雨が返答する。そこへ看護師が入ってきて、「面会時間終了ですので‥」と作業している二人に言いずらそうに声を掛けた。時雨がふと窓の外を見ると日は沈み、空が濃紺色に変わっていた。右手首にはめた腕時計に目線を送ると20時を回っていた。


「部長。今日はこの辺りでキリにしましょう。」
「あぁ。」
「休憩してませんよね!?あとは私がやっておきますから。」
「あぁ。」
「部長!!伊月さん!」


没頭する伊月の指を止めるように時雨が伊月の肩を掴む。伊月につられて時雨も作業に没頭してしまった。伊月の体調を気遣ってやれなかった自分に苛立ちつい大きな声で呼び止めてしまった。


「悪いな。つい夢中になってしまった。」
「いえ。こちらこそお気遣い出来ずすいません。」
「いや、時雨のお陰ではかどったよ。明日も頼むな。」


伊月はPCを閉めると時雨をターミナルケア病棟の出入口まで見送った。自室に戻り、先程時雨の淹れてくれた珈琲を飲む。すっかり冷めてしまったが、やはり此所の店の珈琲は美味しい。一気に飲み干してからスマートフォンを見る。澄架に送ったメッセージを確認するが既読すらついていなかった。いつ連絡が取れるのか気にしながらも、おかわりの珈琲を飲もうとしたが珈琲豆しかない。インスタント珈琲しか淹れたことのない伊月には豆を引いて珈琲を淹れるなどハードルが高かった。時雨に淹れ方聞いておけばよかったと後悔しつつ自動販売機を探すため部屋を出た。
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