月に誓った、千年の恋 ―時を超えて、ただ君へ―

🌙第三章 「忘れられない人」

第十話 「気づいていたのに」

カフェスペースの角、窓際の席。
そこに座る一人の女性が、じっとさくらを見ていた。

いや——正確には、さくらと、その隣にいた副店長・湊の様子を、交互に見つめていた。

ふと視線を感じて目を向けたその瞬間、彼女はすっと目を逸らし、手元のスマートフォンをいじり始めた。

——また、来てる。

その女性のことを、さくらは何度か見かけていた。
カフェに長居をし、レジ前を不自然に往復しながら、スマートフォンを何度も手にしていた女性。

最初に気づいたのは、ほんの数週間前のことだった。
帰り支度をしているとき、背後に刺さるような視線を感じて、ふと振り返ると、彼女がいた。

あの視線。あの気配。

——お客様にしては、妙な緊張感がある。

その違和感は、日に日に増していった。
まさか、写真を撮られていたんじゃないか、なんて——
そんな疑念すら、ふと頭をよぎるほどだった。

そして、今日。
その女性がレジ横を通り抜けたその瞬間、さくらの胸に確信が走った。

——この人だ。あのとき、私たちを見ていた人。

そして今、彼女がまっすぐ向かっていくのは——湊のもとだった。

湊が棚の整理を終えてカウンターへ戻ろうとしたそのとき、綾乃が静かに声をかけた。

「……少し、いい？」

湊は一瞬、足を止めた。
そして、彼女の姿に気づいた瞬間、空気が変わった。

「……綾乃？」

その声が、わずかに硬くなる。
さくらは思わず手元のトレイを見つめたまま、耳を澄ませていた。

「偶然じゃないの。……前から、何度か来てたの。気づいてた？」

「……いや、気づかなかった。どうして、こんな——」

綾乃は小さく笑った。けれどその笑みは、どこか壊れかけていた。

「湊さん、最近ずっと浮かない顔してた。家にいても、目が合わない。触れられても、心ここにあらずって感じで……」

「そんなことは——」

「ねぇ、湊さん。あの子、何なの？」

不意に、綾乃の目が鋭くなる。
その「あの子」が誰か、湊も、さくらも、すぐに理解した。

「私、見たのよ。あの日。湊さんがあの子に傘を差し出してたところ。あの時、笑ってたでしょ…湊さん、なんで…」

湊は、言葉を失ったように沈黙した。
綾乃の声が少し震える。

「私には、もうそんな顔、見せてくれないのに。……ずるいよ、湊さん。あなたばっかり、好きになって。ずるいよ…。私は、ずっと置いてけぼり」

カウンターの内側で、さくらはそっと視線を伏せた。
見てはいけない、でも聞こえてしまう。
胸の奥がじんわりと熱くなっていく。

「綾乃……ごめん。でも、彼女は——」

「言わないで。名前なんて聞きたくない」

綾乃はかぶりを振ると、バッグを肩にかけて背を向けた。

「答えを急かすつもりはない。けど……このままじゃ、私、壊れちゃうよ」

それだけ言い残して、彼女はカフェをあとにした。
ドアベルが、静かに鳴った。

湊は、その場に立ち尽くしていた。

何かを言おうとして、言えなかった言葉たちが、空気に溶けていく。
そしてその背中を、さくらはただ黙って見送った。

——私は、気づいていた。
ずっと。
あの人が、誰なのか。

けれどそれでも、心が彼を求めてしまう。
罪の意識と、どうしようもない想いが、胸の奥でせめぎ合っていた。

心の奥に、しんしんと冷たい雨が降り始めていた。