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🌙第三章 「忘れられない人」
第九話 「重なる過去、すれ違う現在」
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咲希がカフェの厨房で皿を洗っていると、背後からふいに声がした。
「……さっきは、ごめん」
振り返ると、そこには海翔が立っていた。
咲希は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに手を動かし直す。
「もう話すことなんてないでしょ」
「それでも、言いたかった。——あのとき、何も知らなかった俺を、許してくれとは言わない。けど……ずっと、心に残ってた」
咲希は手を止めたまま、蛇口の水音を聞いていた。
声を荒げることもなく、ただ静かに、言葉を継ぐ。
「私も、あなたのせいにして生きてきたわけじゃない。でも……もし、あのときほんの少しでも、あなたが私を信じてくれていたら——」
「……咲希」
「でもね、もういいの。私は、私のやり方で、あの子を育てていく。あなたが知らなかったことも、今さら悔やんだって変わらない」
海翔は俯いたまま、何も言えなかった。
咲希はタオルで手を拭きながら、彼を見据える。
「それに、あなた……結婚してるんでしょう?」
「……ああ」
「だったら、家族を大切にして。後悔は、もう充分でしょ」
冷たいけれど、優しさを含んだ声だった。
それは、過去に囚われずに生きようとする彼女の強さそのものだった。
***
一方そのころ、湊は帰宅した自宅の玄関先で、妻・綾乃に出迎えられていた。
けれど、その瞳には笑顔はなかった。
「……遅かったね」
「すまない。雨で少し遅れて」
コートを脱ぎながら答えた湊に、綾乃は何も言わず背を向ける。
「ねぇ湊さん。最近、ずっと心ここにあらずって感じ。何か、隠してる?」
その言葉に、湊は一瞬動きを止めた。
「別に……何もないよ」
けれどその言葉が、逆に嘘くさく響いた。
綾乃はため息をつきながら、言葉を重ねる。
「……あなたの目、時々誰かを追ってる。私じゃない誰かを」
沈黙が、ふたりの間に落ちた。
その沈黙の重さが、日々のほころびを静かに突きつけてくる。
***
翌朝、書店のカフェカウンター。
「……おはようございます。昨日は、ありがとうございました」
「ううん。……濡れなかった?」
「はい。大丈夫でした」
さくらが湊にコーヒーを差し出すと、ふたりの指先がふと触れ合う。
「あ……すみません」
さくらが慌てて手を引くと、湊はやわらかく笑った。
「ありがとう。……あたたかいね」
ふと、湊の指に小さな絆創膏が貼られていることに、さくらは気づいた。
「……どうしたんですか、その指」
「昨夜、包丁でちょっと。慣れないことすると、こうなるんだよね。不器用でさ」
湊は冗談めかして笑ったけれど、さくらの胸に、ひゅっと冷たい風が吹き抜けた気がした。
昨夜、帰ってからもどこか心ここにあらずだったのかもしれない——そんな想像が、胸の奥を痛めた。
「……大丈夫ですか?」
さくらの声は、いつもより少しだけ小さくなった。
湊はその声をしっかりと受け止めるように、そっと頷いた。
「うん、大丈夫。ありがとう、さくらさん」
それでも、湊の顔は穏やかだった。
隣にいられるだけで、それでいい。そんなふうに見えた。
「……今日は、晴れそうですね」
「うん。久しぶりに、空が明るい」
交わした言葉は少しだけ。
でもその間に流れる空気が、どこかやさしくて、どこか切なかった。
ふたりの距離が近づいたかといえば、まだ遠い。
けれど、確かに何かが動き出している——そんな朝だった。
***
その日の夕暮れ、咲希は保育園に息子を迎えに行き、手を繋いで歩いていた。
その小さな手のぬくもりが、すべての答えだった。
「ママ、お空晴れてるね」
「そうだね。……明日も晴れるといいね」
その空の下で、いくつもの想いが交差していた。
語られなかった過去も、まだ語れない未来も、
すべてを胸に抱いて——今日を生きていく。
「……さっきは、ごめん」
振り返ると、そこには海翔が立っていた。
咲希は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに手を動かし直す。
「もう話すことなんてないでしょ」
「それでも、言いたかった。——あのとき、何も知らなかった俺を、許してくれとは言わない。けど……ずっと、心に残ってた」
咲希は手を止めたまま、蛇口の水音を聞いていた。
声を荒げることもなく、ただ静かに、言葉を継ぐ。
「私も、あなたのせいにして生きてきたわけじゃない。でも……もし、あのときほんの少しでも、あなたが私を信じてくれていたら——」
「……咲希」
「でもね、もういいの。私は、私のやり方で、あの子を育てていく。あなたが知らなかったことも、今さら悔やんだって変わらない」
海翔は俯いたまま、何も言えなかった。
咲希はタオルで手を拭きながら、彼を見据える。
「それに、あなた……結婚してるんでしょう?」
「……ああ」
「だったら、家族を大切にして。後悔は、もう充分でしょ」
冷たいけれど、優しさを含んだ声だった。
それは、過去に囚われずに生きようとする彼女の強さそのものだった。
***
一方そのころ、湊は帰宅した自宅の玄関先で、妻・綾乃に出迎えられていた。
けれど、その瞳には笑顔はなかった。
「……遅かったね」
「すまない。雨で少し遅れて」
コートを脱ぎながら答えた湊に、綾乃は何も言わず背を向ける。
「ねぇ湊さん。最近、ずっと心ここにあらずって感じ。何か、隠してる?」
その言葉に、湊は一瞬動きを止めた。
「別に……何もないよ」
けれどその言葉が、逆に嘘くさく響いた。
綾乃はため息をつきながら、言葉を重ねる。
「……あなたの目、時々誰かを追ってる。私じゃない誰かを」
沈黙が、ふたりの間に落ちた。
その沈黙の重さが、日々のほころびを静かに突きつけてくる。
***
翌朝、書店のカフェカウンター。
「……おはようございます。昨日は、ありがとうございました」
「ううん。……濡れなかった?」
「はい。大丈夫でした」
さくらが湊にコーヒーを差し出すと、ふたりの指先がふと触れ合う。
「あ……すみません」
さくらが慌てて手を引くと、湊はやわらかく笑った。
「ありがとう。……あたたかいね」
ふと、湊の指に小さな絆創膏が貼られていることに、さくらは気づいた。
「……どうしたんですか、その指」
「昨夜、包丁でちょっと。慣れないことすると、こうなるんだよね。不器用でさ」
湊は冗談めかして笑ったけれど、さくらの胸に、ひゅっと冷たい風が吹き抜けた気がした。
昨夜、帰ってからもどこか心ここにあらずだったのかもしれない——そんな想像が、胸の奥を痛めた。
「……大丈夫ですか?」
さくらの声は、いつもより少しだけ小さくなった。
湊はその声をしっかりと受け止めるように、そっと頷いた。
「うん、大丈夫。ありがとう、さくらさん」
それでも、湊の顔は穏やかだった。
隣にいられるだけで、それでいい。そんなふうに見えた。
「……今日は、晴れそうですね」
「うん。久しぶりに、空が明るい」
交わした言葉は少しだけ。
でもその間に流れる空気が、どこかやさしくて、どこか切なかった。
ふたりの距離が近づいたかといえば、まだ遠い。
けれど、確かに何かが動き出している——そんな朝だった。
***
その日の夕暮れ、咲希は保育園に息子を迎えに行き、手を繋いで歩いていた。
その小さな手のぬくもりが、すべての答えだった。
「ママ、お空晴れてるね」
「そうだね。……明日も晴れるといいね」
その空の下で、いくつもの想いが交差していた。
語られなかった過去も、まだ語れない未来も、
すべてを胸に抱いて——今日を生きていく。
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