戦国に転生した薬屋あかね、戦国の謎を診る

キジ

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田舎薬屋あかね、最後の夜

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夕暮れの山あいの町に、雨上がりの土とアスファルトが混じった匂いが漂っていた。
 商店街のはずれにぽつんと残る一軒の古い店――木の看板には、かすれた文字で「秋根薬局」とある。
 引き戸をがらりと開けて入ってくる人影が、今日も途切れなかった。
 血圧の薬、高脂血症の薬、湿布、サプリ、季節の風邪薬。
 あかねは白衣にカーディガンといういつもの格好で、笑顔を浮かべながら手を止めない。
「秋根さん、いつもの血圧のね」
「はい、いつものお薬三十日分ですね。今日はむくみはどうですか」
「まあまあかなあ。ほら、若い薬剤師さんみたいにパソコンばっかり見ないで、ちゃんとこっち見て話してくれるから好きよ、ここの店」
 あかねは苦笑しながら、錠剤のシートを数え、薬袋に丁寧に入れていく。
 厳密には、彼女は国家資格を持ついわゆる大病院の薬剤師ではなく、先代から続く町の薬屋の娘だ。
 調剤は近くのクリニック任せで、自分は主に市販薬と健康相談を受け持つ。
 それでも、長年通ってくれる客はみんな、彼女を「先生」と呼んだ。
「秋根の娘さんは、よう見てくれるけえのう」
「この前も、あんたに言われて病院行ったら、ほんまに肺炎だったんよ」
 そんな言葉を聞くたびに、胸の奥が温かくなる。
 戦争も政治もニュースも、正直よく分からない。
 けれど、目の前で困っている人の顔と、その人の生活に支障が出そうな症状なら、いくらでも想像できた。
 閉店時間を過ぎ、シャッターを半分ほど下ろした頃。
 入口のベルが、ちりんと短く鳴った。
「すみません、まだやってますか」
 ふらつく男の声。
 あかねが顔を上げると、作業着姿の若い男性が立っていた。
 顔色がひどく悪い。額に汗、唇は乾いてひび割れている。
「どうぞ、まだ大丈夫ですよ。どうされました」
「さっきから、急に寒気がして……熱も、あるみたいで……」
 男はカウンターにつかまり、そのままずるりと膝をついた。
 あかねはあわてて傍に寄り、額に手を当てる。
「熱、高いですね。三十九度はありそう。最近、どこか遠くに行かれましたか。海外とか、大きなイベントとか」
「いや……仕事で、古い倉庫の片付けをしてて……埃を吸い過ぎたのかと思ったんですけど……」
 息が荒く、胸が激しく上下している。
 咳き込むたびに、胸の奥がひゅうひゅうと鳴った。
(インフルエンザにしては急だし、この咳……肺炎か、もっと厄介なものかもしれない)
 あかねはほんの一瞬だけ迷い、すぐに決める。
「ここでは、市販薬しか出せません。今すぐ救急外来に行きましょう。タクシー呼びますね」
「仕事、休めなくて……市販薬で、なんとか……」
 こんな状態で仕事どころではない。
 だが、そう言い切れない事情がこの町にはいくらでもあることを、彼女は知っていた。
 それでも、できることはある。
 水分を取らせ、解熱鎮痛薬の候補を頭の中でいくつか並べる。
 彼女は冷蔵庫から経口補水液を取り出し、コップに注いだ。
「とりあえず、これをゆっくり飲んでください。それから……」
 言いかけたときだった。
 男の胸のあたりで、どくん、と嫌な音がしたような気がした。
 次の瞬間、大きな咳とともに、口元から赤いものが飛び散る。
 鮮やかな血の色だった。
「っ……!」
 あかねの心臓が、ぎゅっと掴まれたように縮む。
 血たん。高熱。呼吸困難。倉庫の埃。
 いくつもの単語が一気に頭の中を駆け抜ける。
「救急車、呼びます。少し我慢してください」
 震える指で番号を押しながらも、声だけは落ち着いていた。
 救急隊員に状況を説明し、到着を待つ間も脈や呼吸の状態を確認し続ける。
 やがて、遠くからサイレンの音が近づいてきた。
 男はストレッチャーに乗せられ、運ばれていく。
 救急隊員から何度か質問され、あかねは正確に答えた。
 救急車の赤い光が道の向こうに消えていく。
 店内には、さっきまでの緊迫感が嘘のように静けさが戻った。
「ふう……」
 あかねはカウンターの中に戻り、乱れた呼吸を整えた。
 床に落ちた血痕を、消毒液で丁寧に拭き取る。
(あれは……結核?それとも、もっと別の……)
 ニュースでしか聞かないような病気が、この田舎町にも紛れ込んでいるかもしれない。
 そう思うと、背筋が少しだけ冷たくなった。
 それでも、最後に彼女の頭に浮かんだのは、さっきの男の不安そうな横顔だった。
(どうか、助かりますように)
 そう願ってから、閉店作業に戻る。
 レジを締め、棚の薬を揃え、シャッターを下ろす。
 店の奥、細い廊下の先には、小さな台所と、両親の写真が飾られた仏壇があった。
「ただいま。今日も、忙しかったよ」
 線香に火をつけ、ろうそくの炎を見つめる。
 突然の事故で亡くなった両親を思い出しながら、あかねはいつものように手を合わせた。
「お父さん、お母さん。あたし、ちゃんとやれてるかな」
 答えは返ってこない。
 代わりに、窓の外で虫の声が、じりじりと鳴いていた。
 その夜。
 布団に入ってからもしばらく、あかねの頭の中には今日の患者の顔が浮かんでいた。
 もし、もっと早く病院に行ってくれていたら。
 もし、自分にもっと判断材料があったら。
(もっと、勉強しなきゃ)
 資格のことでも、ガイドラインでもない。
 目の前の人を、ひとりでも多く助けるために。
 その当たり前の願いだけが、胸の中で静かに燃えていた。
 やがて、身体のだるさに気づく。
 喉が、少し痛い。
 胸の奥が、重いような気がする。
「……風邪かな」
 そうつぶやいて目を閉じた。


***
 目を覚ましたとき、あかねは、自分の寝ていた布団が変わっていることに気づいた。
 ふわふわの布団ではなく、少しごわごわした藁の感触。
 鼻をくすぐるのは洗剤の匂いではなく、干し草と土と、炭の混じったような匂い。
(あれ……?)
 ゆっくりとまぶたを開ける。
 天井は、見慣れた白いクロスではない。
 太い梁と、黒ずんだ板。隙間からうっすらと外の光が漏れている。
 耳を澄ますと、遠くから牛の鳴き声や、どこかで水を汲む音が聞こえた。
 車のエンジン音も、テレビの声も、スマホの着信音もない。
 上半身を起こそうとした瞬間、脇腹に鈍い痛みが走る。
 自分の手を見る。
 白衣ではなく、粗い木綿の着物の袖がかかっていた。
「……え」
 声が、かすれている。
 そこへ、引き戸ががらりと開いた。
「あかね、目ぇ覚めたんか」
 年配の女の声だった。
 あかねが顔を向けると、手ぬぐいで髪をまとめた女が、桶を持って立っていた。
 着物。前掛け。日焼けした肌。皺の刻まれた目尻。
 どこかで見たような雰囲気――けれど、記憶にはない顔。
(あかね……?)
 自分の名前を、当たり前のように呼ぶ声。
 胸の奥で、何かがざわりと揺れた。
「熱は、どうじゃ。昨日はひどい顔しとったけえ、もう駄目かと思うたが」
 女はそう言って、あかねの額に手を当てる。
 その手は、土と水で荒れた、ごつごつとした掌だった。
 窓の外には、見たこともない景色が広がっていた。
 瓦屋根は少なく、ほとんどが藁ぶき。
 遠くには、石垣と木の塀らしきものが見える。
 電柱も、信号機も、看板もない。
 心臓が、どくんと大きく跳ねた。
 さっきまで、自分はどこにいたのか。
 夜の店。救急車。仏壇。布団。喉の痛み。
 記憶は確かにある。
 なのに、目の前の世界は、あまりにも違っていた。
「あんたは、村一番の薬屋の娘なんじゃけえ、早よ元気になってもらわんと困るよ」
 女の言葉が、まるで別世界の宣告のように、あかねの耳に落ちた。
 薬屋。娘。村一番。
 胸の中で、ゆっくりと言葉が形を成す。
(ここは……どこ)
 問いは声にならず、喉の奥で消えた。
 ただひとつだけ、はっきりしている。
 これは、秋根薬局のある田舎町ではない。
 あかねが知っている、あの令和の世界でもない。
 藁の匂いと、遠くから聞こえる太鼓の音が、静かに告げていた。
 彼女は今、別の時代にいるのだと。
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