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椎名

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神のいない山

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 誰ともすれ違うことなく進んだ先、清海野旅館には、いつから待っていたのか清海野の女将が不安そうな顔で所在なさげにしていた。
 女将は、僕らの姿を発見すると、少し窶れた顔で駆け寄ってきた。


「あ、あの、美岬館の女将より聞きました。お二方は探偵でいらっしゃると……」

「ええ。まあこっちは助手ですけど」

「そ、そうですか。あの、そちらがもしや犯人の……?」


 そう言って目を向けたのは、時政に背負われている千代瀬の姿。

 確かに、事情は複雑だが犯人には違いない。
 時政は一体、この件をどう説明するつもりなのか。


「いえ、こちらは上手く情報が回っていなかったようで、避難しそびれていた若女将さんです」

「え、ちよちゃん!?」


 サッと顔色を変えて千代瀬の顔を覗き込む女将。

 時政さん……?


「ど、どうして……。大丈夫なんですか!?」

「ええ。気絶してるだけです。ちょっと記憶が混濁してるかもしれませんが、すぐに目覚めますよ」

「そう、良かった……。でも、どうして……まさか犯人が!?」

「いえ、一切彼女に危害は加えられていません」

「じゃ、じゃあ不審者は捕まったんですね……!」


「――いえ、逃がしました」


 時政さん……!?


 大幅に曲げて伝えられる事実に、思わず口を出そうと時政を見遣ると、いつの間にか直されていた前髪の奥から、ツイ、と瞳が牽制するようにすぼめられた。


「ああ、でも、しっかりと釘を刺しておいたのでもう二度と現れないと思いますよ」


 朗らかに笑いながら千代瀬を縁側へ寝かせる時政。
 僕はそんな時政の様子や、全てを有耶無耶にされた現実に、途方もない悔しさを感じていた。


「すみません。詳細は皆さんが起きられてからでも良いですか? 我々もそろそろ休みたいので……」

「あ、気が回らず申し訳ありませんでした……!」


 千代瀬を必死に介抱していた女将が、慌てて頭を下げる。
 それに会釈で返した時政は、そのまま一階の角部屋の襖を明け、一歩踏み込んだ所で、

 倒れた。


「ぅえええええっ!? と、ととと時政さぁぁん!?」

「シィッ! 騒ぐな! 周りの客が起きる!」

「で、ででででもっ」

「大丈夫だ。ちっと血が足りねぇだけだ。ただの貧血だよ」


 血色悪く額を押さえながら、苦しそうに息を吐く時政。

 そ、そうだった……! 時政さん、怪我してるんだった……僕のせいで。
 なんでそんな大事な事忘れてたんだよ! 最低だ……!

 状態を確認しようと見た傷口は、既に血が固まり出血は止まっていたが、周囲の衣服部分には夥しい真紅が広がっていた。
 思わず唇を噛み締める。

 こんなに血が……そりゃ貧血にもなるよ。

 本当に大丈夫なの……?


「と、時政さん。やっぱり治療してもら……」

「…………ぐう」

「――って! 寝ないでくださいよおおお!!」


 目を閉じきってしまっている時政の頭をバシバシ叩く。

 ああっ、貧血の人叩いちゃだめかっ!
 でもこのまま化膿なんかしたりしたら……!


「お休みの所失礼致します。お部屋に不備などは……」

「ハッ! 女将さん! 血! 点滴……! 救急車ーー!!」

「へっ!? は、はいっ!!」


 結局。

 時政を蹴り起こし治療を無理矢理受けさせた後、互いに就寝に就いた頃には陽はすっかり昇り切ってしまっていた。
 けれども、その暖かな光は、漸く混乱と恐怖の渦巻く夜から脱出出来た事を実感として与えてくれたのだった。



 嗚呼、やっと終わった……――――――
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