僕らが吐いた息がいつか世界の風になるように

綾瀬雲母

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ただ君のそばにいたい

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薄くかかる朝靄のような不確かな記憶でしか昔のことは思い出せない。
いつしか僕は此処にいた。
それが一年前なのか十年前なのかはもう僕には思い出せないがもう随分長いこと僕は此処にいる。
だから僕の住んでいるこの家のことはたいてい知っているつもりでたまに思い出せないこともあるけれど不確かな記憶という物はそんなに悪い物じゃないことを僕は知ってる。
多分僕がこの家に来て間もない頃、この家にはキミとキミがお母さんと呼ぶ人とお父さんと呼ぶ人、それから、のんと呼ぶ人がいて、キミたちは四人家族だったんだ。
その中に僕も混ざりたいと思うようになった時のこと少しだけ大事に覚えている。
その頃のキミは今より少し小さくて幼くて我儘だったね。黄色いシャツに半ズボン姿でキミはよく僕を構ってくれた。
僕は毎日お父さんと散歩に行って、たまにキミやのんがついて来たりした。
家まで戻ってきて水を飲んでいるとお母さんが帰ってくる。
僕は鎖に繋がれていたけれどそれでもお母さんに飛びついてお帰りを言うくらいには十分な自由が僕にはある。
この鎖を外せたらいいと思うこともあるし、たまに散歩に連れ出してくれない日なんかは強く感じてしまうけれど、この鎖のおかげで少しだけキミたちに近づけると思える時が僕にはあるんだ。
それから飛ぶように時間が経った。
春になるとくしゃみが出て夏になると矢鱈と空がうるさかった。
だから秋が好きな僕のことをキミは知ってるだろうか。君ものんちゃんも少しずつ大きくなっていった。
これが成長っていうものなんだと思う。
僕も少しずつ大きくなっていった。
僕とキミは同じ季節を同じように成長しながら生きてきた。
そんなことが僕には嬉しいんだ。
キミに伝わるだろうか。
いつしか家族が一人増えていた。みんなはバァちゃんって呼ぶその人はお母さんより、お父さんより、年老いていてでも優しい人だ。
僕の家族は完璧じゃないのだけれどみんな優しいんだ。
幸せな日々だ。
そんな日々の連なりだ。
時には家族は喧嘩をする、でもいいんだ。
キミが頭を白い布で巻かれて帰ってきたときは驚いたし、のんちゃんが暫く帰ってこなかったときは心配もした。
だけど今はそんな毎日を緩やかに思い返している。
幸せなときは、ご飯の時と部屋に入れてもらえる時、キミたちが触ってくれたり話しかけてくれるだけでも僕は随分幸せになれる。
お父さんが柿をくれるお母さんがパンをくれる。
のんちゃんはミカンをくれてばあちゃんはご飯をくれる。キミからはキミが食べていたウインナーを貰ったよ。
僕は君たちから沢山の味も教えてもらった。
キミが座った足元でキミの足を枕にして眠るのが好きだった。
安心して眠ることができた。
最近キミに会うことが少なくなったね。
キミは季節が2つ動くくらいに帰ってくる。
一人暮らしというのは僕にはよくわからないけど、キミが寂しい思いをしていなければいいと思う。
だから今キミはこの家にはいない。
寂しいけれどキミも大人になったんだと思うと少しだけ嬉しいんだ。
キミと僕は同じだから。
同じ季節を同じように成長しながら生きてきたから、いつからか僕の方がキミより年老いてしまったけれど、花と石の寿命が違うように僕たちにはそれぞれ決められた命があるんだから。
それはしかたないんだ。
ただいつか僕はキミより先に旅立つだろうな。
そのときキミたちは悲しんでくれるだろうか。
ちゃんと僕だけのためにあの綺麗なしょっぱい涙を流してくれるだろうか。
優しいキミはいつも僕を抱き締める。強く。優しく。
それが幸せだから僕はその手を振り解けない。多分それが愛なんだと思う。
キミたちからは本当に沢山のものをもらった。
いつからか足が痛くなった。
いつからかご飯にあまり興味がわかなくなった。
気付くと毛並みが昔より貧相になって見える。
こんな僕をキミたちは愛してくれるだろうか。
そんな風に愛情に敏感になった。
きっと、もうすぐ僕も旅立つときが来る。
僕はもう随分と生きたのだ。
キミという少年はキミという大人の男になった。僕はそれが嬉しいのだ。僕は何も残さずに死ぬ。けれどキミという存在は僕とともに生きたことを証明してくれるだろうから。キミたちのもとを離れるのは悲しいことだ。苦しいことだ。だからせめて僕のこと僕という家族のことをどうかできるだけ長く覚えていて欲しいんだ。それが僕の心からの願いなんだ。
そして愛するキミたちの幸せを僕はこの空に祈るのだ。



いつしか愛を知り、愛からは不安と幸せが生まれた、それからキミを好きになりキミたちを好きになった。
僕の世界は色を変え形を変え僕自身を変えていった。
僕は幸せだったよ。
いつだってそうだ。
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