公証長サーシャの通過点―巻き戻った今度は自分に負けずに生きる

蜂須賀漆

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第17話(2)

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しゃくり上げからあっという間に号泣に変わった様子を目の当たりに、今までの忍耐にひびが入り、苛立ちが噴き出す。
突然ピョートルの名前が出て来たことに動揺しているところに、彼の支援を受け何がどうなって今回の不祥事が起こったのか、説明が始まらないことに焦れる。
苛立ちはリーディアだけではなく、自分にも矛先を向けた。
巻き戻る前の出頭にピョートルが同行してきたのは、昇格前は彼女と一緒に働いていたからではないか、でしゃばりではなく、面倒見の良さの延長だっただけなのか、と早合点の可能性に気づいて頭を抱えたくなった。
いや嘆いている場合ではない、今は後悔に身を浸していい状況にはない。
今ここで叱責に声を荒らげてしまえば、巻き戻る前と同じ、全てが台無しになる。
とにかく事情を聴取するのが先だ、と堪えて堪えて、アレクサンドラはリーディヤの隣に移動して、肩に手を置いてみた。
家族の機嫌が悪い時に、よく母がする動作だったが、リーディアは上体を跳ねさせて、ハンカチからぐしゃぐしゃになった目元だけを出した。

「落ち着いて。ゆっくりでいいから、何があったか教えて。分かる範囲で構わないから」

落ち着くのはむしろ自分だけれど、と心の中で自分を強烈に叱り付けながら、アレクサンドラは最上位の努力により最大限に優しい懇願を絞り出した。
幸いにもそれは功を奏し、職員とはいえ下々の、取るに足らない自分が、類い稀なる美貌の人に乞われるという初めての経験に、別な意味で赤面したリーディアは、絶望を置き去りに、「は、はい!」と語る勢いだけを取り戻した。
リーディアが語った出来事を順番に並べるとこうだった。

リーディアは訓練として独りでの応対を始め、これで数十回目になっていた。
最初と比べてぎこちなさは取れて来たが、受け付けるべき申請が2本以上あったりすると、狼狽えてそこからうまく対応ができなくなったりした。
あの日もそのパターンで、客は頼まれて来た、と告げながら、それぞれ別な人物の印章の証明を、3件要求した。
同じ人物のものが3件なら大したことはないが、別人が3件では申請が3本、作業も3倍になる。
慌てて誰かに手伝ってもらおうと思ったが、皆対応中で手が空いていない。
こういう場合はまずできることを、と教わっていたため、リーディアは1本ずつ処理しようと思い、客にも伝えた。
しかし客は不機嫌そうに、急いでくれ、と机を指で叩いた。
数があるのだから急げないのだが、この手の不穏をまだ躱せないリーディアは竦み上がってしまった。
客が持参した書類を手に、どうしよう、と慌てて台帳庫、印章の正本を綴っている冊子が収めてある部屋に急ぐ。
手順は、台帳を見つけ、閲覧場所の大机に持って来て、綴られている印やサインと同じものかどうか複数の目で確認をする。
そのため、リーディアはとりあえず台帳を用意しておこうと思ったのだが、冊子の数が膨大で、姓または組織名順に並んでいるとはいえ、焦っているとなかなか該当のものが見つからない。
しかも、1冊が男性でも両腕で抱える厚さであり、開いて確認するのにも、女の力ではその場でページを捲るなどとても無理で、一度大机に持っていかないとならない。
ますます慌てていたところに、自分の対応が終わったらしいピョートルが様子を見に来てくれたという。
半泣きのリーディアから状況を聞いたピョートルは、彼女が応対している客は不運なことに相当に導火線が短いこと、ゆえにできるだけ手早く処理すべきだと言った。
それから、1冊ずつ作業するという彼の指示に従い、リーディアはまず指示された台帳を探しに行った。
それは帝都の商人の印章に関するものだったが、同姓者が非常に多い者であり発見に大分苦労を強いられた。
"1冊目"を見つけ、よたよたと抱えて戻って来ると、ピョートルは既に"2冊目"の台帳を広げて、真正の確認を行っていた。
戻って来たリーディアを認めると、「これは確認した。僕は3冊目を探して来る」と言い置いて書棚に急いで行った。
早い、さすがはピョートルさんだと感動しながら、リーディアは持って来た台帳から該当ページを探した。
見つけた印章と書類とを何度も何度も見比べたが、書類の方には特におかしいところはなく、"2冊目"も、と既に開いてあるページを覗く。
そこへピョートルが小走りで戻って来て、3冊目を手早く開き、早くも確認をしているようだった。
慌ててリーディアが1冊目を凝視し始めたところで、「よし、問題ない」とピョートルがきびきびと作業終了を宣言した。
複数の目で確認しなければならないのでは、とリーディアが躊躇っていると、ピョートルは、

「特急だよ。2冊目は2人の目を通ったし、1冊目は君が、3冊目は僕が確認したから大丈夫だろう」

と早く客のもとに戻るよう促した。
確かに急いでいるし、先輩がそう言うならと、台帳は片づけておくからという言葉に甘え、リーディアは客のもとに戻り、認証を発行した、ということだった。

「書類の方?」

特定に引っかかりを感じたアレクサンドラが尋ねると、リーディアは躊躇いながら「ええと、台帳の方なのですが」と口を開いた。
印章の台帳は、その印章の持ち主名、住まいの場所、台帳に最初に登録した際に手続をした職員とその確認者計2人の署名がある、という形式を取っている。

「署名のところが、その何となく、少しだけ汚れていた気がしまして……署名のところが……」
「ちなみに、今回その、認証を誤ってしまったのは、何冊目のものなの」

リーディアは怯えた眼差しで、

「1冊目、でございます」

と答えた。
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