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第1話:四月の秒針
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第1話:四月の秒針
四月の桜は、合格した奴らのためにしか咲かないのだと思っていた。
駅前の並木道を通り抜ける風はまだ冷たく、歩道に散り積もった花びらは、行き交う人々の靴の下で無残に踏みつぶされている。それはまるで、二ヶ月前の入試会場で砕け散った僕の自尊心の成れの果てのようだった。
予備校の重い鉄扉を押し開けると、そこには特有の「敗者の匂い」が充満していた。
古びたチョークの粉、乾燥した空気、そして、誰かが吐き出した焦燥の混じった、湿った体温。
掲示板に張り出されたクラス名簿を指でなぞり、自分の名前を見つける。B教室。窓際から三番目の席。
僕は、ダイスケ。今日から「浪人生」という、社会のどこにも居場所のない肩書きを背負って生きる男だ。
教室に入り、冷たいパイプ椅子の感触を尻に感じながら座る。机の隅には、前の住人が刻んだらしい「死にたい」という小さな、けれど鋭い傷跡があった。
十八歳。
SNSを開けば、真新しいスーツに身を包んだ同級生たちが、入学式の看板の前で眩しいほどの笑顔を浮かべている。昨日まで同じ目線で笑っていたはずの彼らは、今日からキャンパスライフという眩い世界へ旅立ち、僕は一人、この灰色の四角い箱の中で、一年という時間を殺すのだ。
絶望は、音もなく僕の足元から這い上がってきた。
隣の席の男が、苛立ったように貧乏ゆすりをしている。カリカリと、誰かがシャーペンの芯を折る音が、静まり返った教室に呪詛のように響いていた。僕はただ、教科書の真っ白な目次を眺め、自分の人生が白紙に戻ってしまったような感覚に陥っていた。
その時だった。
ガラリ、と音を立てて前方のドアが開いた。
入ってきたのは、僕が想像していた「予備校講師」のイメージ――威圧的で、理詰めで、どこか冷徹な大人――とは、かけ離れた存在だった。
「おはようございます! 今日から皆さんの担任を任されることになりました、ユキです」
――その瞬間、止まっていた僕の時間が、猛烈な速さで脈打ち始めた。
鼓膜を跳ねたのは、鈴を転がすような、あまりに甘く通る声だった。
顔を上げると、そこには不釣り合いなほど小さな女性が立っていた。
ぱっちりとした瞳。柔らかそうな曲線の、少し幼さの残る丸顔。
彼女は黒板に自分の名前を「ユキ」と大きく書き込み、くるりとこちらを向いて「にへっ」と子供のように、それでいて春の陽だまりのような暖かさで笑った。
(なんだ、この人……)
心臓の奥が、ドクンと嫌な音を立てる。
教壇に立つ彼女は、僕ら受講生とそれほど歳が変わらないようにも見えた。
彼女が教科書を置くために腕を伸ばしたとき、白いブラウスの袖口から、華奢な手首が覗いた。そこには、小さな銀色の腕時計が巻かれている。その秒針が、教室の静寂を切り裂くように、僕の耳元で刻々と時を刻んでいるような錯覚に陥った。
「浪人は、暗い時間じゃありません。新しい自分を見つけるための、とびきり贅沢な八ヶ月にしましょうね。私は、皆さんの味方ですから」
彼女が話すたび、空気がわずかに甘く震える。
文学的に言えば、それは「救い」のような光景だったのかもしれない。
けれど、僕が感じたのは、もっと泥臭くて剥き出しの衝撃だった。
彼女が放つ眩しさが、僕の醜い敗北感をじりじりと焼き尽くしていく。
勉強なんて、将来なんて、どうでもよくなった。
灰色の霧に包まれていた僕の視界が、彼女の存在一点にだけ、異常なまでの解像度でピントが合う。
ホームルームが続く中、僕は彼女の「声」の虜になっていた。
マイクを通したカサついた音ではなく、彼女の喉から直接零れ落ちる、湿度を帯びた生の声。語尾がわずかに跳ねるような、無自覚な愛嬌。
周囲の連中は、まだどんよりとした空気を纏っていたが、僕だけは違った。隣の男の貧乏ゆすりも、折れるシャーペン芯の音も、今は遠い世界の雑音にしか聞こえない。
彼女がプリントを配るために通路を歩き出す。
一歩、また一歩と彼女が近づくにつれ、僕の肺は酸素を拒絶した。
彼女が僕の机の横を通り過ぎた瞬間、ふわりと、石鹸のような、それでいてもっと官能的な、花の香りが鼻腔をくすぐった。
机の上に置かれたプリント。その端に、彼女の白くて細い指先が一瞬だけ触れる。
それだけのことが、雷に打たれたような衝撃となって僕の全身を駆け抜けた。
「……よろしくね、ダイスケくん」
僕の机に貼られた名札を見たのだろう。彼女は僕にしか聞こえないような小さな声で、名前を呼んだ。
顔を上げることができなかった。もし今、彼女のぱっちりとした瞳と正面からぶつかってしまったら、僕の心臓は文字通り破裂してしまうと思ったからだ。
ホームルームが終わり、彼女が教壇で荷物をまとめ始めた。
他の生徒たちが、重い足取りで教室を去っていく中、僕は金縛りにあったように動けずにいた。
彼女がドアに向かって歩き出す。このまま行かせてはいけない。何故か、今ここで何かを繋ぎ止めなければ、この一年が本当に灰色のまま終わってしまうという予感があった。
「あの、ユキ先生!」
自分でも驚くほど、掠れた大きな声が出た。
彼女が足を止め、不思議そうに振り返る。
逆光になった彼女のシルエットが、夕刻の教室に長く伸びた。
「どうしたの? 何か分からないことあった?」
彼女が小首を傾げる。その拍子に、耳元の小さなイヤリングがキラリと揺れた。
僕は立ち上がり、彼女の元へ歩み寄る。近寄れば近寄るほど、彼女の小柄さが際立った。僕の胸のあたりまでしかない身長。その丸顔が、不安そうに僕を見上げている。
「いえ……その。……これから、よろしくお願いします」
情けないほど平凡な言葉しか出てこなかった。
けれどユキさんは、僕の強張った表情を読み取ったのか、またあの「にへっ」とした笑みを浮かべた。
「うん、よろしくね。ダイスケくん」
僕の名前を呼ぶその声。蜂蜜のように甘く、それでいてどこか切ない響き。
彼女はそう言って、左手首の銀色の腕時計をチラリと見た。
「あ、もうこんな時間。私、事務局に戻らなきゃ。ダイスケくん、あんまり根詰めすぎないようにね。……また明日」
ひらひらと小さな手を振って、彼女は廊下へと消えていった。
静まり返った教室に、僕一人だけが取り残される。
自分の手首を見る。そこには、中学のお祝いに買ってもらった、安っぽいラバー製のデジタル時計が巻かれている。
カチ、カチ、カチ。
彼女の銀色の秒針と、僕の黒い秒針。
交わるはずのない二つの時間が、今、この閉ざされた予備校という場所で重なり合った。
――この人の時計と、僕の八ヶ月。
それが、僕の人生で最も甘く、最も残酷な季節の始まりだった。
四月の桜は、合格した奴らのためにしか咲かないのだと思っていた。
駅前の並木道を通り抜ける風はまだ冷たく、歩道に散り積もった花びらは、行き交う人々の靴の下で無残に踏みつぶされている。それはまるで、二ヶ月前の入試会場で砕け散った僕の自尊心の成れの果てのようだった。
予備校の重い鉄扉を押し開けると、そこには特有の「敗者の匂い」が充満していた。
古びたチョークの粉、乾燥した空気、そして、誰かが吐き出した焦燥の混じった、湿った体温。
掲示板に張り出されたクラス名簿を指でなぞり、自分の名前を見つける。B教室。窓際から三番目の席。
僕は、ダイスケ。今日から「浪人生」という、社会のどこにも居場所のない肩書きを背負って生きる男だ。
教室に入り、冷たいパイプ椅子の感触を尻に感じながら座る。机の隅には、前の住人が刻んだらしい「死にたい」という小さな、けれど鋭い傷跡があった。
十八歳。
SNSを開けば、真新しいスーツに身を包んだ同級生たちが、入学式の看板の前で眩しいほどの笑顔を浮かべている。昨日まで同じ目線で笑っていたはずの彼らは、今日からキャンパスライフという眩い世界へ旅立ち、僕は一人、この灰色の四角い箱の中で、一年という時間を殺すのだ。
絶望は、音もなく僕の足元から這い上がってきた。
隣の席の男が、苛立ったように貧乏ゆすりをしている。カリカリと、誰かがシャーペンの芯を折る音が、静まり返った教室に呪詛のように響いていた。僕はただ、教科書の真っ白な目次を眺め、自分の人生が白紙に戻ってしまったような感覚に陥っていた。
その時だった。
ガラリ、と音を立てて前方のドアが開いた。
入ってきたのは、僕が想像していた「予備校講師」のイメージ――威圧的で、理詰めで、どこか冷徹な大人――とは、かけ離れた存在だった。
「おはようございます! 今日から皆さんの担任を任されることになりました、ユキです」
――その瞬間、止まっていた僕の時間が、猛烈な速さで脈打ち始めた。
鼓膜を跳ねたのは、鈴を転がすような、あまりに甘く通る声だった。
顔を上げると、そこには不釣り合いなほど小さな女性が立っていた。
ぱっちりとした瞳。柔らかそうな曲線の、少し幼さの残る丸顔。
彼女は黒板に自分の名前を「ユキ」と大きく書き込み、くるりとこちらを向いて「にへっ」と子供のように、それでいて春の陽だまりのような暖かさで笑った。
(なんだ、この人……)
心臓の奥が、ドクンと嫌な音を立てる。
教壇に立つ彼女は、僕ら受講生とそれほど歳が変わらないようにも見えた。
彼女が教科書を置くために腕を伸ばしたとき、白いブラウスの袖口から、華奢な手首が覗いた。そこには、小さな銀色の腕時計が巻かれている。その秒針が、教室の静寂を切り裂くように、僕の耳元で刻々と時を刻んでいるような錯覚に陥った。
「浪人は、暗い時間じゃありません。新しい自分を見つけるための、とびきり贅沢な八ヶ月にしましょうね。私は、皆さんの味方ですから」
彼女が話すたび、空気がわずかに甘く震える。
文学的に言えば、それは「救い」のような光景だったのかもしれない。
けれど、僕が感じたのは、もっと泥臭くて剥き出しの衝撃だった。
彼女が放つ眩しさが、僕の醜い敗北感をじりじりと焼き尽くしていく。
勉強なんて、将来なんて、どうでもよくなった。
灰色の霧に包まれていた僕の視界が、彼女の存在一点にだけ、異常なまでの解像度でピントが合う。
ホームルームが続く中、僕は彼女の「声」の虜になっていた。
マイクを通したカサついた音ではなく、彼女の喉から直接零れ落ちる、湿度を帯びた生の声。語尾がわずかに跳ねるような、無自覚な愛嬌。
周囲の連中は、まだどんよりとした空気を纏っていたが、僕だけは違った。隣の男の貧乏ゆすりも、折れるシャーペン芯の音も、今は遠い世界の雑音にしか聞こえない。
彼女がプリントを配るために通路を歩き出す。
一歩、また一歩と彼女が近づくにつれ、僕の肺は酸素を拒絶した。
彼女が僕の机の横を通り過ぎた瞬間、ふわりと、石鹸のような、それでいてもっと官能的な、花の香りが鼻腔をくすぐった。
机の上に置かれたプリント。その端に、彼女の白くて細い指先が一瞬だけ触れる。
それだけのことが、雷に打たれたような衝撃となって僕の全身を駆け抜けた。
「……よろしくね、ダイスケくん」
僕の机に貼られた名札を見たのだろう。彼女は僕にしか聞こえないような小さな声で、名前を呼んだ。
顔を上げることができなかった。もし今、彼女のぱっちりとした瞳と正面からぶつかってしまったら、僕の心臓は文字通り破裂してしまうと思ったからだ。
ホームルームが終わり、彼女が教壇で荷物をまとめ始めた。
他の生徒たちが、重い足取りで教室を去っていく中、僕は金縛りにあったように動けずにいた。
彼女がドアに向かって歩き出す。このまま行かせてはいけない。何故か、今ここで何かを繋ぎ止めなければ、この一年が本当に灰色のまま終わってしまうという予感があった。
「あの、ユキ先生!」
自分でも驚くほど、掠れた大きな声が出た。
彼女が足を止め、不思議そうに振り返る。
逆光になった彼女のシルエットが、夕刻の教室に長く伸びた。
「どうしたの? 何か分からないことあった?」
彼女が小首を傾げる。その拍子に、耳元の小さなイヤリングがキラリと揺れた。
僕は立ち上がり、彼女の元へ歩み寄る。近寄れば近寄るほど、彼女の小柄さが際立った。僕の胸のあたりまでしかない身長。その丸顔が、不安そうに僕を見上げている。
「いえ……その。……これから、よろしくお願いします」
情けないほど平凡な言葉しか出てこなかった。
けれどユキさんは、僕の強張った表情を読み取ったのか、またあの「にへっ」とした笑みを浮かべた。
「うん、よろしくね。ダイスケくん」
僕の名前を呼ぶその声。蜂蜜のように甘く、それでいてどこか切ない響き。
彼女はそう言って、左手首の銀色の腕時計をチラリと見た。
「あ、もうこんな時間。私、事務局に戻らなきゃ。ダイスケくん、あんまり根詰めすぎないようにね。……また明日」
ひらひらと小さな手を振って、彼女は廊下へと消えていった。
静まり返った教室に、僕一人だけが取り残される。
自分の手首を見る。そこには、中学のお祝いに買ってもらった、安っぽいラバー製のデジタル時計が巻かれている。
カチ、カチ、カチ。
彼女の銀色の秒針と、僕の黒い秒針。
交わるはずのない二つの時間が、今、この閉ざされた予備校という場所で重なり合った。
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