​『【実録】浪人生の僕と26歳の担任。~腕時計を交換したあの日から、僕たちは終わるために恋をした~』

まさき

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第2話:狂った羅針盤

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第2話:狂った羅針盤

 予備校という場所は、感情を去勢された人間が集まる場所だ。
 鉛筆が紙を削る音と、空調の低い唸り。それ以外の音を立てることは、ここでは重罪に近い。
 一週間前に始まった授業は、驚くほど無機質に進んでいた。講師たちは合格実績という名の数字を追い求め、僕たち生徒はそのための駒として、ひたすら公式や英単語を脳に流し込む。
 そんな灰色の日常の中で、唯一の「光」が、ホームルームに現れるユキさんだった。
「みんな、今日は初めてのマーク模試だね。緊張してる?」
 朝の教室、教壇に立つユキさんの声が響く。
 その日は、僕たち浪人生にとって最初の関門、全国統一模試の日だった。
 周囲の連中は、まるで死刑執行を待つ囚人のような顔で、最後の最後まで参考書を読み耽っている。けれど僕は、彼女の口から零れる言葉の一つひとつを、ただただ五感で受け止めていた。
「練習だと思って、気楽にね。あ、でも科目選択のマークだけは、本当に、本当に気をつけて!」
 ユキさんが僕の方を見て、いたずらっぽく笑った。
 目が合った。ほんの一瞬のことなのに、僕の脳裏には昨夜何度も再生した彼女の笑顔が、スローモーションのように焼き付いた。
 心臓が、模試前の緊張とは違う、もっと激しいリズムを刻み始める。
 試験開始のチャイムが鳴った。
 一斉に問題冊子がめくられる音が、まるで鳥の羽ばたきのように教室を支配する。
 僕は集中力を振り絞った。ユキさんにいいところを見せたいという不純な動機だったとしても、この時の僕は間違いなく真剣だった。
 数学、英語、国語……。順調に解答を埋めていく。
 そして最後の理科。僕は迷わず得意の化学を選択した。
 計算に没頭している間も、視界の端には教壇で試験監督を務めるユキさんの姿があった。
 彼女が少し姿勢を変えるたび、耳元のイヤリングが小さく揺れる。その光が僕のノートの上をかすめるたび、不思議と解法が頭に浮かぶような気がした。
 
 コツ、コツ、と小さな足音が近づいてくる。
 石鹸のような、あの清潔な香りがふわりと漂ってきた。
 僕の机の横を通り過ぎる瞬間、彼女のブラウスの裾が、僕の肩に触れたような気がした。
 
 全身に電流が走る。
 僕は思わず息を止め、一瞬だけ彼女の後ろ姿を目で追った。
 白いブラウスの下に透ける、華奢な肩甲骨のライン。
 細い手首に巻かれた、あの銀色の腕時計。
 
 その時計の秒針が、僕の思考を心地よく急かしていた。
 あと十分。僕は最後の問題を解き終え、満足感とともに全てのマークシートを塗りつぶした。
 
「……よし」
 
 自分でも驚くほどの手応えだった。最後に、解答用紙の上部にある科目選択欄に目をやる。そこを塗らなければ採点されない。僕は迷いなく、シャーペンの先を動かした。
 
 その時、ユキさんとふと目が合った。
 彼女は僕の真剣な顔を見て、小さく頷き、ふわりと微笑んでくれた。
 
 舞い上がった。指先に込めた力が一瞬だけ浮ついた。
 僕は確かに「化学」を塗りつぶしたつもりだった。
 これなら、彼女に「頑張ったね」と言ってもらえる。そんな淡い期待を胸に、僕は終了のチャイムを聞いた。
 ――地獄を見たのは、それから一週間後のことだ。
 返却された模試の結果を、僕は自分の席で凝視していた。
 そこには、到底信じられない数字が並んでいた。
「理科……〇点……?」
 心臓が冷たく凍りつく。
 手元に残った自己採点用の問題冊子と照らし合わせる。完璧だ。八割以上は取れているはずだ。それなのに、成績表の判定は無慈悲な『E』を突きつけていた。
 
 震える指先で、成績詳細の欄を追う。
 そこに記されていたエラーコードを見て、僕はめまいに襲われた。
 
『選択科目:地学』
 
 頭の中が真っ白になった。
 共通の解答欄に、僕は一生懸命に化学の答えを刻んだ。一問目から最後の一問まで、整然と、丁寧に。
 しかし、一番上の、たった一箇所。
 「化学」の隣にある「地学」の円を、僕は真っ黒に塗りつぶしていたのだ。
 
 あの時だ。ユキさんの笑顔に、あの腕時計の秒針に、意識を奪われたあの瞬間に、僕の指先はわずか数ミリ、横にずれたのだ。
 
 その数ミリが、僕の九十分間の努力を、地学の知識が皆無な人間がデタラメに塗っただけの、無意味な黒い点の羅列に変えてしまった。
 
 教室の空気が、急に重苦しく感じられる。
 周囲の奴らが僕の無様な点数を覗き見ているような気がして、僕は成績表を乱暴に鞄に突っ込んだ。
 その時、教卓の方からあの「甘い声」が僕の名前を呼んだ。
「……ダイスケくん。ちょっと、後で面談室まで来てくれる?」
 顔を上げると、ユキさんが悲しそうに、けれどどこか心配そうに僕を見つめていた。
 いつも明るい彼女の表情が曇っている。
 担任としての義務感か、それとも――。
 予備校の長い廊下を、僕は重い足取りで歩く。
 窓から差し込む夕日は、一週間前と同じようにオレンジ色で、けれど今の僕には、それが自分を処刑台へと導く光のように見えた。
 
 面談室のドアの前で、僕は自分の手首の安っぽい時計を見た。
 不規則に刻まれる僕の鼓動に合わせるように、秒針はただ冷酷に時を進めていた。
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