『愛されぬ身代わり妻ですが、真実はもう、あの小箱の中に置いてきました』

まさき

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秋になれば、また波が来る

秋になれば、また波が来る
 
 秋が来た。
 
 一年前のちょうど今頃、イリスは夜明け前に屋敷の門をくぐっていた。
 
 そのことを、特別に意識したのは、港の朝市で北方産の薬草を見かけたときだ。細い葉の、あの草だ。去年の秋にも、仕事中に見かけて手が止まった。今年は止まらなかった。ただ、ああ、一年経ったのだと思った。
 
 それだけだった。
 
 波は来た。けれど小さかった。
 

 
 番頭になって三ヶ月が経った。
 
 仕事は順調だった。近隣の医師との取引が二件増え、薬草の仕入れ量も増えた。記録の仕組みも整えた。ドラン老人が「お前さんが来てから、店が変わった」と言った。
 
 ナーシャは相変わらずだった。
 
 朝は大声で起こしに来て、昼は中庭で昼食をとり、夜は「今日あったこと」を矢継ぎ早に話した。イリスはそれを聞きながら、時々相槌を打ち、時々笑った。笑うことが、今はもう自然だった。
 
 ある夜、ナーシャが珍しく静かな顔で言った。
 
「イリス、王都に行く話が来てる」
 
「王都に?」
 
「薬師の学会みたいなものがあって、うちの店も呼ばれた。イリスに行ってほしい」
 
 イリスは少し驚いた。
 
「私が、でいいのですか」
 
「イリスの方が向いてる。人の話を聞いて、整理して、必要なことだけ持ち帰る。それがうまいから」
 
 買い被りだ、とは思わなかった。ナーシャはいつも、根拠のないことは言わない。
 
「……わかりました。行きます」
 
「王都、怖い?」
 
 イリスは少し考えた。
 
「少し」
 
「正直だね」
 
「以前住んでいた場所に近いので」
 
「ああ」とナーシャは言った。「それなら怖いか」
 
「でも、行きます。怖いままでいるより、一度行った方がいいと思うので」
 
 ナーシャは黙って頷いた。
 

 
 王都への旅は、三泊四日だった。
 
 馬車の窓から見える景色が、北方に向かう街道に似てきたとき、胸が少し重くなった。波が来た。
 
 イリスはそれを、じっと感じた。
 
 押し殺さなかった。やり過ごそうとしなかった。ただ、感じた。重さを、冷たさを、一年前の夜明け前の空気を。
 
 そして波が引くのを、待った。
 
 引いた。
 
 それだけだった。
 
 王都に着くと、見慣れた街並みがあった。華やかで、人が多く、北方とは全く違う空気だ。イリスはその中を、一人で歩いた。
 
 誰もイリスを知らなかった。辺境大公家の妻だった女を、知っている人間はここにいない。ただの、港町から来た薬草問屋の番頭だ。
 
 その匿名性が、今は心地よかった。
 

 
 学会は二日間だった。
 
 薬師や医師が集まり、新しい薬草の効能や調合の知識を発表し合う場だった。イリスは隅の席に座り、丁寧に記録をとった。
 
 休憩の時間に、隣に座っていた老齢の薬師が話しかけてきた。
 
「お嬢さん、どちらから?」
 
「南の港町から参りました」
 
「一人で来たのかね」
 
「はい」
 
「記録、丁寧だね。字がきれいだ」
 
「ありがとうございます」
 
 老薬師はイリスの手元の帳面を覗き込み、うんうんと頷いた。
 
「北方の薬草に詳しいね。珍しい」
 
「北方に住んでいたことがありますので」
 
「ほう。今は港町か。いい場所だ、海は」
 
「はい」とイリスは言った。「海は、何でも流していってくれます」
 
 老薬師はくっくっと笑った。
 
「そうだそうだ。儂もそう思う」
 
 その笑い声が、中庭のドラン老人と少し似ていた。
 

 
 帰りの馬車の中で、イリスは窓の外を見た。
 
 王都が遠ざかっていく。
 
 行けた、と思った。
 
 怖かった場所へ、一人で行けた。波が来て、引いた。誰かに会うわけでも、何かが変わるわけでもなかった。ただ、行って、仕事をして、帰ってくる。それだけのことができた。
 
 秋の街道を、馬車が進む。
 
 木々が少しずつ色づき始めていた。赤、黄、橙。北方の秋とは違う、明るい色だ。
 
 イリスはその色を、目に焼き付けた。
 
 綺麗だと思った。
 
 ただそれだけを思った。
 
 港町が近づいてくる。潮の匂いが、馬車の中まで流れ込んできた。
 
 ああ、帰ってきた、とイリスは思った。
 
 帰ってきた、という言葉が、自然に浮かんだ。
 
 あの港町が、自分の帰る場所になっていた。
 
―― 次話「冬の朝、手紙が一通届いた」
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