「三年間、誕生日のたびに記録していたら、彼氏より先に幸せになれました」 ──全部、メモしてたんで。

まさき

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第十七話「最後の夜会」

第十七話「最後の夜会」

 三月の最終週。
 最終出社日の前日、木曜日だった。
 
 
 その日の朝、凛はいつもより少し早く出社した。
 
 
 デスクに座って、引き継ぎ資料の最終確認をした。さくらへの引き継ぎは、ほぼ完了していた。取引先への挨拶メールも、昨日までに送り終えていた。
 
 
 やるべきことは、全部やった。
 
 
 凛はデスクの引き出しを開けた。
 三年間使ってきた引き出しだ。文房具、メモ帳、常備薬、ハンドクリーム。少しずつ私物を持ち帰っていたので、今日はほとんど空っぽだった。
 
 
 残っていたのは、小さなポストイットの束と、使いかけのボールペンだけだった。
 
 
 ポストイットをバッグに入れた。ボールペンは、引き出しに残した。
 
 
 それだけだった。
 
 
 午前中、颯が凛のデスクに来た。
 
 
「最終確認、お願いできますか」
 
 
「はい」
 
 
 颯と並んで、引き継ぎ資料を最後から最後まで確認した。
 
 
 問題はなかった。
 
 
「完璧です」
 
 
 颯が言った。
 
 
「ありがとうございます」
 
 
「さくらさんへの引き継ぎも、問題ないと思います」
 
 
「朝倉さんが見てくれているなら、大丈夫です」
 
 
 颯は少し間を置いた。
 
 
「瀬川さん」
 
 
「はい」
 
 
「今日、仕事終わりに少し時間はありますか」
 
 
 凛は少し驚いた。
 
 
「あります。どうかしましたか」
 
 
「最後に、一杯だけ付き合ってもらえますか。二人で」
 
 
 凛はしばらく、颯を見た。
 
 
 颯が、二人で飲もうと言っている。
 
 
 颯らしくない、とは思わなかった。ただ、珍しいと思った。
 
 
「……はい、ぜひ」
 
 
「では、十八時に一階のロビーで」
 
 
「わかりました」
 
 
 颯は自分のデスクに戻った。
 
 
 凛はしばらく、颯の背中を見た。
 
 
 二人で、一杯。
 
 
 胸の中に、温かいものがあった。送別会の夜と同じ、あの感覚だった。
 
 
 昼休み、さくらが来た。
 
 
「凛さん、明日が最終日ですね」
 
 
「そうだね」
 
 
「なんか実感がなくて。明日凛さんがいなくなるって、信じられないです」
 
 
「さくらちゃんなら本当に大丈夫だよ」
 
 
「凛さんがいなくなったら、誰に相談すればいいんですか」
 
 
「朝倉さんに相談すればいい。怖くないから、大丈夫」
 
 
「……朝倉さんに、凛さんみたいに話しかけられる気がしないんですけど」
 
 
「最初は誰でもそうだよ。私だって最初は話しかけにくかった」
 
 
「凛さんでも?」
 
 
「うん。でも、ちゃんと見てくれる人だってわかってから、話しやすくなった」
 
 
 さくらは少し考えてから、頷いた。
 
 
「……わかりました。頑張ります」
 
 
「うん。頑張れ」
 
 
 さくらはまた目を拭いた。
 
 
 凛は苦笑した。
 
 
「泣かないで。まだ明日もあるから」
 
 
「明日はもっと泣きます」
 
 
「それは仕方ない」
 
 
 二人で少し笑った。
 
 
 定時になった。
 
 
 凛はデスクを片付けて、一階のロビーに降りた。
 颯はすでに来ていた。コートを着て、静かに立っていた。
 
 
「お待たせしました」
 
 
「いえ」
 
 
 二人で会社を出た。
 
 
 颯が「近くに静かな店があります」と言って、歩き始めた。凛は隣を歩いた。
 
 
 三月の夜風が、少し冷たかった。でも、もう春の匂いがしていた。
 
 
 店は、会社から徒歩五分ほどの場所にあった。カウンター席が中心の、小さなバーだった。照明が落ち着いていて、静かな音楽が流れていた。
 
 
 二人でカウンターに座った。
 
 
「何にしますか」
 
 
「白ワインを」
 
 
「では同じものを」
 
 
 颯が注文した。グラスが運ばれてきた。
 
 
 颯がグラスを持ち上げた。
 
 
「お疲れ様でした」
 
 
「ありがとうございます。お疲れ様でした」
 
 
 グラスが、静かに重なった。
 
 
 白ワインを一口飲んだ。
 冷たくて、澄んでいて、悪くない味だった。
 
 
 しばらく、二人とも黙っていた。
 
 
 沈黙が、不思議と苦じゃなかった。颯との沈黙は、いつもそうだった。
 
 
「朝倉さんは、なぜ転職してきたんですか」
 
 
 凛が先に聞いた。
 
 
 颯は少し間を置いた。
 
 
「本社でのやり方に、限界を感じていたからです」
 
 
「限界、ですか」
 
 
「大きな組織は、動きが遅い。変えたいことがあっても、通るまでに時間がかかる。もう少し小回りの利く場所で、やってみたかった」
 
 
「それで、ここに」
 
 
「城島が来るなら、と思って」
 
 
 凛は少し驚いた。
 
 
「城島部長のために、異動したんですか」
 
 
「城島のやり方を、近くで見たかった。それだけです」
 
 
 颯はグラスを一口飲んだ。
 
 
「城島は、人を見る目がある。あの人が評価する人間は、たいてい、本当に仕事ができる」
 
 
「それで、私のことも」
 
 
「城島が最初の日に、瀬川さんの名前を出した。それで、気になりました」
 
 
 凛はワインを一口飲んだ。
 
 
 気になりました。
 
 
 颯が「気になった」という言葉を使うのは、珍しかった。いつも事実だけを言う人が。
 
 
 二杯目のワインが運ばれてきた。
 
 
 凛はグラスを受け取って、少し考えてから言った。
 
 
「朝倉さん、一つお願いがあるんですが」
 
 
「はい」
 
 
「颯さん、と呼んでいいですか。最後くらい」
 
 
 颯はしばらく、凛を見た。
 
 
「……どうぞ」
 
 
 凛は少し笑った。
 
 
「ありがとうございます、颯さん」
 
 
 颯はグラスを一口飲んだ。
 耳が、少し赤かった気がした。
 
 
「それで——颯さんは、昼休みのメモに、いつ気づいたんですか」
 
 
 颯は少し間を置いた。
 
 
「最初から、ではないです。ただ、あなたが何かを静かに積み上げているのは、早い段階でわかりました」
 
 
「それは、仕事のことですか」
 
 
「仕事のことだけじゃない、とは思っていました」
 
 
 凛は颯を見た。
 
 
 颯は正面を向いたまま、少し続けた。
 
 
「詮索するつもりはなかったです。ただ、何かを抱えながらも、ちゃんと立っている人だと思っていたので」
 
 
「丁寧で、感情的じゃなくて、でもちゃんと熱がある——そう言っていましたね」
 
 
「ええ。それが、瀬川さんの仕事とメモ、両方に共通していた」
 
 
 凛はしばらく、颯の横顔を見た。
 
 
 三年間のメモを、誰よりも正確に言い表していた。
 
 
「……颯さんって、すごいですね」
 
 
「何がですか」
 
 
「ちゃんと見てる」
 
 
「見ていないと、正しい判断ができないので」
 
 
 颯はそれだけ言って、グラスを一口飲んだ。
 
 
 凛も、グラスを一口飲んだ。
 
 
 音楽が静かに流れていた。
 カウンターの向こうで、バーテンダーがグラスを磨いていた。
 
 
「颯さん」
 
 
「はい」
 
 
「私がいなくなっても、さくらちゃんのこと、見ていてもらえますか」
 
 
「もちろんです」
 
 
「それから——颯さんも、ちゃんと自分のことを記録してください」
 
 
 颯は少し、凛を見た。
 
 
「記録、ですか」
 
 
「颯さんは、いつも人を見てる。でも、自分のことを見てるかどうか、わからないので」
 
 
 颯はしばらく黙った。
 
 
「……考えたことがなかったです」
 
 
「考えてみてください」
 
 
「わかりました」
 
 
 颯はそう言って、また少し黙った。
 
 
 それから、静かに言った。
 
 
「瀬川さん、一つ聞いてもいいですか」
 
 
「はい」
 
 
「新しい職場で落ち着いたら、連絡してもらえますか」
 
 
 凛は少し驚いた。
 
 
 颯が、連絡してほしいと言っている。
 
 
「……はい」
 
 
「仕事の相談でも、ただの報告でも、どちらでも」
 
 
「わかりました」
 
 
 颯は小さく頷いた。
 
 
 それだけだった。
 
 
 でも、その「それだけ」が、いつもより少し、重かった。
 
 
 二杯のワインを飲み終えて、店を出た。
 
 
 駅に向かいながら、二人で並んで歩いた。
 
 
 信号が赤になった。二人で立ち止まった。
 
 
 颯が、前を向いたまま言った。
 
 
「瀬川さん、幸せになってください」
 
 
 凛は少し、颯を見た。
 
 
 颯は信号を見ていた。横顔が、夜の街の灯りに照らされていた。
 
 
「なります」
 
 
 即答だった。
 
 
 颯は少し、口角が上がった気がした。
 
 
 信号が青になった。
 
 
 二人で歩き始めた。
 
 
 駅で別れた。
 
 
「おやすみなさい」
 
 
「おやすみなさい。明日も、よろしくお願いします」
 
 
「こちらこそ」
 
 
 颯は改札を抜けた。
 
 
 凛はしばらく、その場に立っていた。
 
 
 三月の夜風が、頬に触れた。
 
 
 冷たかった。でも、悪くなかった。
 
 
 電車に乗って、家に帰った。
 
 
 コートを脱いで、ソファに座った。
 
 
 メモアプリを開いた。
 
 
 2025.3.27 颯と二人で飲んだ。「丁寧で、感情的じゃなくて、でもちゃんと熱がある」——三年分のメモを、一番正確に言い表してくれた人だった。
 
 
 一行、付け加えた。
 
 
 「幸せになってください」——なります。
 
 
 保存して、画面を閉じた。
 
 
 なります。
 
 
 悠樹にも、同じ言葉を言われた。でも今夜の「なります」は、少し違う重さがあった。
 
 
 自分でも、本当にそう思っているから。
 
 
 明日で、この会社は終わりだ。
 
 
 でも終わりは、始まりでもある。
 
 
 凛は布団に入った。
 目を閉じた。
 
 
 最終出社日まで、あと一日。
 
 
 記録は今日も、静かに積み重なっていく。
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