「三年間、誕生日のたびに記録していたら、彼氏より先に幸せになれました」 ──全部、メモしてたんで。

まさき

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第十九話「転職初日」

第十九話「転職初日」

 四月一日。
 新しい職場の、初日だった。
 
 
 朝、目が覚めたのは五時五十分だった。
 アラームより十分早かった。
 
 
 昨夜はなかなか眠れなかった。眠れないまま布団の中でスマートフォンを見て、気づいたら日付が変わっていた。それでも、朝はちゃんと起きられた。
 
 
 シャワーを浴びながら、凛は新しい職場のことを考えた。
 
 
 面接で会った人事担当の女性と、営業部長の顔を思い出した。田中取締役の「面白い人ですね」という言葉を思い出した。
 
 
 大丈夫だ。
 
 
 根拠はなかったけれど、そう思えた。
 
 
 コーヒーを淹れた。
 トーストを焼いた。
 
 
 いつもの朝と、同じだった。
 
 
 ただ、今日降りる駅が、違う。
 
 
 凛はクローゼットを開けた。
 今日は何を着ようか、少し考えた。
 
 
 白いブラウスと、グレーのタイトスカート。
 
 
 前の職場ではネイビーが多かったけれど、今日は少し変えた。
 新しい場所には、少し新しい自分で行きたかった。
 
 
 鏡の前で、髪を整えた。
 
 
 微笑んでみた。
 自然に笑えた。
 
 
 よし。
 
 
 バッグを持って、部屋を出た。
 
 
 駅に向かいながら、凛はスマートフォンを取り出した。
 メモアプリを開いた。「これから」のノートを開いた。
 
 
 2025.4.1 転職初日。怖いか? 少し。でも準備はできている。
 
 
 保存して、スマートフォンをしまった。
 
 
 電車に乗った。
 新しい路線だった。乗り換えが一回ある。前の職場より少し遠い。
 
 
 でも、悪くない路線だった。
 窓から見える景色が、少し違った。前の職場への道では見えなかった川が、途中で見えた。
 
 
 春の川は、穏やかだった。
 
 
 新しい職場に着いた。
 
 
 受付で名前を告げると、人事担当の女性が迎えに来てくれた。
 
 
「瀬川さん、お待ちしていました。今日からよろしくお願いします」
 
 
「よろしくお願いします」
 
 
 案内されたフロアは、明るくて、広かった。
 前の職場とは少し雰囲気が違った。デスクの配置も、照明の色も、少し違う。
 
 
 でも、仕事の空気は、同じだった。
 
 
 人が動いていて、電話が鳴っていて、キーボードを叩く音がしていた。
 
 
 それだけで、少し安心した。
 
 
 午前中は、オリエンテーションだった。
 会社のルール、システムの使い方、部署の紹介。凛は一つひとつ、メモを取った。
 
 
 仕事のメモだった。
 プライベートのメモじゃない、純粋な仕事のメモ。
 
 
 それが、なんだか新鮮だった。
 
 
 昼休み、一人で近くのカフェに行った。
 
 
 ホットコーヒーを頼んで、窓際の席に座った。
 
 
 スマートフォンを取り出した。
 
 
 颯からメッセージが来ていた。
 
 
 今日が初日ですね。うまくいっていますか。——朝倉
 
 
 凛は少し笑った。
 
 
 颯らしかった。余計な言葉はない。ただ、気にかけてくれている。
 
 
 おかげさまで、問題なくスタートできています。ありがとうございます。——瀬川
 
 
 返信した。
 
 
 すぐに返信が来た。
 
 
 よかったです。落ち着いたら、また。——朝倉
 
 
 また。
 
 
 凛はその一言を、しばらく見た。
 
 
 また、か。
 
 
 颯が「また」と言っている。いつも事実だけを言う人が、「また」という言葉を使った。
 
 
 それが、思ったより、嬉しかった。
 
 
 コーヒーを一口飲んだ。
 温かくて、少し苦くて、いい味だった。
 
 
 メモアプリを開いた。「これから」のノートに、一行足した。
 
 
 颯から「うまくいっていますか」とメッセージが来た。——ありがたい。
 
 
 保存して、スマートフォンをしまった。
 
 
 午後、本格的な業務が始まった。
 
 
 最初の仕事は、営業資料のフォーマット確認だった。
 
 
 凛は資料を開いて、最初から最後まで読んだ。
 
 
 読みながら、気づいたことがあった。
 
 
 フォーマットが、統一されていない。
 
 
 部署によって、資料の形式が少しずつ違う。フォントが違う、色が違う、構成が違う。統一されていれば、もっと効率がいいはずだった。
 
 
 凛はメモ帳に、気づいた点を書き留めた。
 
 
 まだ初日だ。提案するのは、もう少し後でいい。
 まずは、観察する。記録する。それから動く。
 
 
 それが、凛のやり方だった。
 
 
 定時になった。
 
 
 凛はデスクを片付けて、バッグを持って立ち上がった。
 
 
 隣のデスクの同僚が声をかけてくれた。三十代くらいの、明るい雰囲気の女性だった。
 
 
「瀬川さん、今日はお疲れ様でした。慣れないことばかりで大変だったと思いますけど、わからないことがあればなんでも聞いてください」
 
 
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 
 
「私、林って言います。よろしくね」
 
 
「瀬川凛です。よろしくお願いします」
 
 
 林さんは明るく笑って、自分のデスクに戻った。
 
 
 凛はその背中を見て、少し思った。
 
 
 さくらに似た雰囲気がある。
 
 
 明るくて、素直で、人懐っこい。
 
 
 悪くない職場だ、と思った。
 
 
 エレベーターに乗って、一階に降りた。
 
 
 ロビーを歩いて、自動ドアを抜けた。
 
 
 外の空気が、柔らかかった。
 
 
 四月一日の夕方の空気は、春そのものだった。
 前の職場を出た三月三十一日とは、たった一日違いなのに、空気の色が違った。
 
 
 凛はしばらく、空を見上げた。
 
 
 薄いオレンジ色の空に、白い雲が流れていた。
 
 
 電車に乗って、家に帰った。
 
 
 コートを脱いで、バッグを置いて、ソファに座った。
 
 
 少し、疲れていた。
 
 
 でも、悪い疲れじゃなかった。
 新しいものをたくさん受け取った日の、充実した疲れだった。
 
 
 メモアプリを開いた。「これから」のノートを開いた。
 
 
 2025.4.1 転職初日、終了。フォーマットの統一が必要。まずは観察する。隣のデスクの林さん、明るい人。悪くない職場だった。
 
 
 保存して、画面を閉じた。
 
 
 悪くない職場だった。
 
 
 凛はソファに深く座って、目を閉じた。
 
 
 「記録」のノートには、今日は何も書かなかった。
 三年間、何かあるたびに開いてきたノートだ。でも今日は、開く必要がなかった。
 
 
 誰かに傷つけられたわけじゃない。記録しなければならないことが、何も起きなかった。
 
 
 それが、今日一番の収穫だった。
 
 
 記録は今日も、静かに積み重なっていく。
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