「あなたのことは、もう忘れました」

まさき

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第2話「裏切りの朝」 

第2話「裏切りの朝」 

 目が覚めたのは、夜明け前だった。
 
 窓の外はまだ暗い。
 試験は昼からだというのに、興奮で眠れなかったらしい。
 
 私らしくない、と思いながら起き上がった。
 
 ベッドの端に腰を下ろして、しばらくそのままでいた。
 暗い天井を見上げながら、今日のことを頭の中で整理する。
 
 試験は昼の鐘と同時に始まる。
 会場は王立魔法師協会の大ホール。
 受験者は今年で百二十三名。
 合格者は上位十名のみ。
 
 数字だけを並べれば、簡単なことだ。
 上位十名に入ればいい。
 それだけのことだ。
 
 でも、それだけのことに、私は十年を費やした。
 
 せっかく早く目が覚めたのだから、もう一度ノートを見直そう。
 
 そう思って机に手を伸ばした。
 
 ——指先が、何もない木の表面に触れた。
 
 おかしい。
 
 昨夜寝る前まで、確かにここにあった。
 三十七冊、きちんと積み上げて置いておいた。
 
 部屋の中を見回す。
 棚にも、床にも、椅子の上にも——ない。
 
 窓際にも。
 扉の近くにも。
 ベッドの下にも。
 
 どこにもない。
 
 頭が追いつかなかった。
 
 夢でも見ているのだろうか、と思った。
 でも、足の裏に感じる床の冷たさは、確かに現実のものだった。
 
 まさか、と思いながら机の上をもう一度確認する。
 そのとき初めて、一枚の紙が置かれているのに気づいた。
 
 見覚えのある字だった。
 
 丸くて、少し右に傾いた、セシルの字だった。
 
 ——リアナへ
 
 ごめんね。
 ノート、借りていくね。
 ヴァルター侯爵家に頼まれたの。
 断れなかった。
 あなたなら、また書けるから。
 私には、これしか方法がなかったの。
 
 ——セシル
 
 何度読んでも、意味が理解できなかった。
 
 借りる。
 ヴァルター侯爵家。
 断れなかった。
 また書けるから。
 これしか方法がなかった。
 
 一行ずつ、頭の中で繰り返した。
 
 ——借りる。
 
 盗む、ではなく、借りる。
 
 その言葉を選んだことが、セシルという人間の全てを表している気がした。
 自分のしたことを、自分の中で許せる言葉に置き換えなければ、やっていられなかったのだろう。
 
 そういう子だった。
 昔から。
 
 やがて、全てが繋がった。
 
 ヴァルター侯爵家といえば、王都でも有数の魔法師の家系だ。
 今年の試験の採点委員に、侯爵家の当主が名を連ねていると聞いていた。
 貴族社会では知らない者がいないほどの権力を持つ家。
 
 そして、セシルの家——アーノルド家は、五年前から没落の一途を辿っていた。
 父親が事業に失敗し、屋敷を売り、使用人を手放し、それでも借金は増え続けていると噂で聞いていた。
 
 ちょうど私の父が死んだ頃のことだ。
 あの冬、私は自分のことで精一杯で、セシルの家の事情に気づく余裕がなかった。
 
 セシル自身は、そのことを一度も私に話さなかった。
 いつも明るく笑っていて、家のことなど何もないように振る舞っていた。
 
 つまり——セシルは。
 
 私の十年を、その家に売った。
 
 自分の合格のために。
 自分の家の再興のために。
 
 いつからだろう、と思った。
 
 いつから彼女はこれを考えていたのだろう。
 昨日、隣に座って笑っていたとき、すでに決めていたのだろうか。
 「明日、絶対に合格しようね」と言ったとき、もうノートを盗む気でいたのだろうか。
 
 それとも、もっと前から?
 図書室で一緒に勉強していたとき?
 父の葬儀の夜、隣に座っていたとき?
 
 わからなかった。
 わかりたくも、なかった。
 
 胸の中に何かが広がっていくのを感じた。
 熱くも冷たくもない、奇妙な感覚だった。
 怒りとも悲しみとも違う、もっと静かな何かだった。
 
 後になって思えば、あれは諦めだったのかもしれない。
 人というものへの、静かな諦め。
 
 膝から力が抜けそうになった。
 でも、座り込まなかった。
 
 なぜかわからない。
 ただ、泣いてはいけないと思った。
 怒鳴り込んでもいけないと思った。
 
 セシルの部屋に乗り込んで、紙を突きつけて、説明を求めることもできた。
 でも、何を言われても、もう意味がないと思った。
 
 どんな言葉も、今は聞きたくなかった。
 
 ごめんね、と書いてあった。
 断れなかった、と書いてあった。
 
 その言葉が、嘘だとは思わなかった。
 本当にそう思っているのだろう、と感じた。
 
 でも、だからといって、許せるとも思わなかった。
 
 ごめんね、という言葉は、許してほしいという願いだ。
 でも私は、許す気にも、許さない気にも、なれなかった。
 
 ただ、もうどうでもよかった。
 
 私はゆっくりと紙を机の上に戻した。
 
 それから窓の外を見た。
 空がゆっくりと白み始めていた。
 雲のない、澄んだ夜明けだった。
 
 父の言葉が浮かんだ。
 
 ——魔法とは人の意志の結晶だ。お前の意志が強ければ、どんな魔法陣も必ず応えてくれる。
 
 ノートは消えた。
 でも、ノートに書いたことは全て、私の頭の中にある。
 
 父の言葉も。
 自分で積み上げた理論も。
 セシルと議論した夜も。
 
 全部、ここにある。
 
 誰にも盗めない。
 
 私はクローゼットを開けて、旅用の鞄を取り出した。
 
 着替えを数枚。
 手持ちの金貨を全部——財布を確認すると、金貨が十二枚と銀貨が数枚あった。しばらくは何とかなるだろう。
 父の形見の羽根ペン一本。
 インク瓶を一つ。
 白紙の羊皮紙を束にして。
 
 それだけ詰めて、部屋を出た。
 
 廊下は静かだった。
 まだ使用人たちも起き出していない時間だ。
 
 足音を立てないように歩いた。
 別に、誰かに見られても構わなかった。
 でも、誰にも会いたくなかった。
 
 引き止められたくなかった。
 説明したくなかった。
 泣き顔を見せたくなかった——もっとも、泣く気にもなれなかったけれど。
 
 屋敷の正門を出るとき、一度だけ振り返った。
 
 二年間暮らした屋敷。
 毎朝セシルが迎えに来た門。
 二人で並んで歩いた石畳。
 放課後、二人で座って空を見上げた庭の石段。
 
 全部、ここに置いていく。
 
 不思議と、惜しいとは思わなかった。
 もうここには、私の居場所がないと、どこかで知っていたのかもしれない。
 
 試験会場とは反対の方向へ、足を向けた。
 
 王都の外へ続く大通り。
 まだ人影もまばらな石畳の道を、私はただ歩いた。
 
 馬車を雇う金はあった。
 でも、歩きたかった。
 
 足の裏で石畳の感触を確かめながら、一歩一歩踏みしめながら、この街を後にしたかった。
 
 王都の外れまで歩くと、振り返らなかった。
 
 泣かなかった。
 怒らなかった。
 
 ただ歩いた。
 
 辺境へ続く街道は、朝の光の中で静かに伸びていた。
 どこまでも真っ直ぐで、人気がなくて、果てが見えなかった。
 
 ちょうど今の私みたいだ、と思った。
 
 ——あなたのことは、もう忘れました。
 
 声には出さなかった。
 でも心の中で、はっきりとそう言った。
 
 風が吹いて、髪が揺れた。
 
 それが、私と王都の別れだった。 

話タイトル:裏切りの朝 

次回:第3話「辺境への道」
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