「あなたのことは、もう忘れました」

まさき

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第23話 あなたのことは、もう忘れました

第23話 あなたのことは、もう忘れました
 
 セシルと会った翌日も、その次の日も、リアナはいつも通り工房へ向かった。
 
 広場を通るとき、井戸のそばを確認する癖がついていた。いない。宿屋の前を通るとき、扉に目をやる。閉まっている。それだけ確認して、工房の扉を開ける。それだけのことだった。
 
 「ヴェイル、昨日の石板、焼き上がったぞ」
 
 クレイが奥から声をかけてくる。リアナは道具を置いて確認しに行った。石板の表面を指先でなぞり、魔力の流れを確かめる。均一だった。補助線の効果が出ている。
 
 「問題ありません。次の工程に入れます」
 「だな。お前の修正、毎回当たるな」
 「理論通りにやっているだけです」
 
 クレイは短く笑って、作業に戻った。リアナも自分の机に向かう。
 
 昼前、トーマスが外から駆け込んできた。
 
 「ヴェイル、ちょっといいか」
 
 いつもの人懐っこい声ではなかった。リアナは筆を置いた。
 
 「どうしましたか」
 「広場で、女の人がお前のことを聞き回ってる。赤い巻き髪の。工房の場所とか、何時に来るかとか」
 
 リアナは少し考えてから、「わかりました」と言った。
 
 「知り合いか?」
 「……以前の、知り合いです」
 「揉めてる感じ?」
 「揉めてはいません」
 
 トーマスは何か言いたそうだったが、リアナの顔を見て黙った。余計なことを聞かない、というのがこの工房の気風だった。出自を問わない街の気風が、工房にも染み込んでいる。
 
 リアナは午後の作業を続けた。
 
 セシルが工房まで来るかもしれない、と思った。来たら、また話すことになる。それでもいい。言うことは決まっていた。
 
 ただ、来なかった。
 
 夕方、片付けを終えて工房を出ると、路地の角にセシルが立っていた。
 
 工房の場所を調べたなら、ここで待つのは自然だった。リアナは足を止めずに歩いた。セシルが並びかけてくる。
 
 「少しだけ、話せない?」
 
 リアナは答えなかった。歩き続けた。セシルがついてくる。石畳の上で、二人分の足音が響いた。
 
 「昨日、言えなかったことがあって」
 「……どうぞ」
 「リアナのこと、ずっと心配してた。王都を出てから、どこにいるかもわからなくて、生きてるかどうかも——」
 「生きています」
 
 短く言った。セシルが息を詰めた。
 
 「見ればわかります。心配は不要でした」
 「そういうことじゃなくて」
 「では、どういうことですか」
 
 セシルが黙った。路地を曲がる。また曲がる。館への道はもう染み込んでいて、考えなくても足が動く。
 
 「……私、ヴァルター侯爵家を出ようと思ってる」
 
 唐突な言葉だった。リアナは歩調を変えなかった。
 
 「あそこにいても、何もできないし。お金を借りて、どこかで働いて、ちゃんと自分で立てるようになったら——ノートの件も、何か形で返せるかもしれないと思って」
 
 リアナはしばらく黙って歩いた。
 
 セシルの言葉は、おそらく本心だった。嘘をついているようには聞こえなかった。ヴァルター侯爵家を出たいというのも、返したいというのも、今この瞬間は本当のことだろう。
 
 だから、何だというのか。
 
 「セシルさん」
 
 立ち止まった。セシルも止まった。夕暮れの路地で、二人が向き合う。
 
 「これから何をするかは、あなたの自由です。ヴァルター侯爵家を出ることも、働くことも、誰かに謝ることも。止める理由がありません」
 「リアナ……」
 「ただ」
 
 リアナは続けた。声は平坦なままだった。
 
 「それを私に話す必要はありません。これからあなたがどう生きるかは、私には関係のないことです」
 
 セシルの顔が歪んだ。
 
 「関係ない、って——私たち、十年——」
 「十年、一緒にいました」
 
 リアナは静かに言った。
 
 「それは本当のことです。楽しかったことも、覚えています。あなたに助けてもらったことも、一緒に笑ったことも、全部覚えています」
 
 セシルが泣きそうな顔で聞いていた。
 
 「でも、それと同じくらい本当のことがあります」
 
 リアナは一度、息をついた。
 
 「あなたは、私の十年を盗みました。父が遺したものを、ヴァルター侯爵家に売りました。試験の前夜に、笑顔で。それも、本当のことです」
 
 「……わかってる。わかってるから——」
 「だから」
 
 遮った。セシルが口を閉じた。
 
 「あなたのことは、もう忘れました」
 
 夕暮れの風が、路地を通り抜けた。
 
 セシルが何も言えなくなっていた。泣いているのか、息ができないのか、ただ立ち尽くしていた。
 
 リアナはその顔を見た。見て、何も感じないわけではなかった。かつて好きだった顔だ。十年、隣にいた人間だ。今も、完全に何もないわけではない。
 
 ただ、それでも。
 
 もう終わったことだった。
 
 「お体に気をつけて」
 
 それだけ言って、リアナは歩き出した。
 
 振り返らなかった。
 
 背後でセシルが泣き崩れる音がした。石畳に膝をつく音、嗚咽、リアナの名前を呼ぶ声。全部、聞こえていた。
 
 それでも、足は止まらなかった。
 
 館への道を歩きながら、リアナは空を見上げた。夕暮れの色が、西の空に広がっていた。赤と橙と、少しだけ紫。アーシェルの夕暮れは、王都より色が濃い気がした。
 
 忘れました、と言った。
 
 嘘ではなかった。忘れようとしているのでもなかった。ただ、もうあの人のために心を使わない、ということだった。覚えていても、引きずらない。それがリアナの言う「忘れた」だった。
 
 館の門をくぐると、ルシアンが中庭にいた。珍しいことだった。いつもこの時間は書庫にいる。
 
 「……顔色が悪い」
 
 開口一番、そう言われた。リアナは少し考えてから答えた。
 
 「そうですか」
 「何かあったか」
 「いいえ」
 
 ルシアンは何も言わなかった。追及しなかった。ただ、リアナの隣に並んで、しばらく一緒に夕空を見ていた。
 
 何も言わなくていい人間が、そこにいた。
 
 それだけで、少しだけ、息がしやすくなった。
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