「あなたのことは、もう忘れました」

まさき

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第34話 「最初はそれだけだった」

 第34話 「最初はそれだけだった」
 
 王都を発つ前日の夜、ルシアンが声をかけてきた。
 
 「少し、いいか」
 
 夕食のあとだった。リアナは荷物の整理をしていたが、手を止めて頷いた。ルシアンが部屋に入ってきた。椅子に座るでもなく、窓の近くに立った。
 
 「話がある」
 「……はい」
 
 ルシアンが少し、間を置いた。珍しいことだった。この人が言葉を探す姿を、リアナはあまり見たことがなかった。
 
 「以前、言ったことを覚えているか。父の遺言で、お前のことを気にかけていた、と」
 「覚えています」
 「あれは、本当のことだ」
 「……はい」
 「ただ」
 
 ルシアンが窓の外を見た。王都の夜景が、灯りで滲んでいた。
 
 「最初はそれだけだった」
 
 リアナは動かなかった。
 
 「父の遺言だから、気にかけた。ランドル・ヴェイルの娘だから、工房を紹介した。最初は、それだけだった」
 
 ルシアンが窓から視線を戻した。リアナを見た。銀灰色の瞳が、蝋燭の光を受けていた。
 
 「今は、違う」
 
 静かな言葉だった。声が大きいわけでも、感情が溢れているわけでもなかった。ただ、真っ直ぐだった。
 
 「お前が自分の力で立つのを見ていた。お前が泣かずに、怒らずに、それでも前を向き続けるのを見ていた。お前が父の研究を完成させたとき、お前が演台に立ったとき、お前が初めて泣いたとき——全部、見ていた」
 
 リアナは何も言えなかった。
 
 「遺言は関係ない。お前のことが、気になっている。それだけだ」
 
 ルシアンが少し目を逸らした。珍しかった。この人が目を逸らすのを見たのは、初めてだった。
 
 「……答えは、今すぐでなくていい。アーシェルに戻ってから、考えてくれ」
 
 リアナはしばらく、黙っていた。
 
 心の中に、何かが静かに広がっていた。驚きではなかった。気づいていなかったわけでもなかった。ただ、こんなに真っ直ぐ言われると、思っていなかった。
 
 「……一つ、聞いてもいいですか」
 「何だ」
 「最初はそれだけだった、と言いましたね。それが変わったのは、いつですか」
 
 ルシアンが少し考えた。
 
 「書庫で、石の話をしたとき」
 「……書庫で」
 「お前が石を持ってきて、父の手紙の話をした。あのとき、お前の目が変わった。感情を出さない人間が、あの瞬間だけ、全部出ていた」
 
 リアナは書庫のことを思い出した。石を持って、父の研究の話をした。確かに、あの日は珍しく多くを話した。
 
 「……気づいていませんでした」
 「気づかなくていい」
 
 ルシアンが短く言った。
 
 「お前は、自分が思っているより、ずっと多くを顔に出す。ただ、誰も読めないだけだ」
 
 リアナは少し、驚いた。そんなことを言われたのは、初めてだった。感情を表に出さないと、ずっと思っていた。そう言われ続けてきた。
 
 「……ルシアン様には、読めるのですか」
 「お前のだけは」
 
 それだけ言って、ルシアンは部屋を出た。
 
 扉が閉まった。
 
 リアナは立ち尽くしていた。しばらく、動けなかった。
 
 心の中がざわついていた。静かなざわつきだった。嵐ではなく、凪いだ水面に小石が落ちたときのような、そういうざわつき。
 
 ルシアンのことを、考えた。
 
 冷然としていた。口数が少なかった。でも、ずっと見ていた。急かさなかった。追及しなかった。隣に立っていた。何も言わなくてもいい人間として、そこにいた。
 
 最初はそれだけだった。遺言だから、気にかけた。
 
 でも今は、違う。
 
 リアナも、同じだった。
 
 最初は、ただ工房を紹介してくれた人だった。館に置いてくれた人だった。書庫を使わせてくれた人だった。それだけだった。
 
 今は、違う。
 
 いつから違ったのか、考えた。答えは出なかった。気づいたときには、すでにそうなっていた。
 
 窓を開けた。王都の夜風が入ってきた。明日、アーシェルへ帰る。帰ってから、答えを出す。
 
 急がなくていい、とルシアンは言った。
 
 でも、リアナの中では、もう答えに近いものがあった。ただ、それをまだ言葉にする準備ができていなかった。
 
 言葉にできたとき、伝えればいい。
 
 夜風が、髪を揺らした。
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