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第7話:蝕まれる日常、女王の知らない空白
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第7話:蝕まれる日常、女王の知らない空白
翌朝、僕が職場のデスクでパソコンを立ち上げると、ポケットの中のスマートフォンが短く震えた。
送り主を確認するまでもない。
『おはようございます。朝練、なんとか終わりました。おじさんの「おやすみ」があったから、少しだけ眠れた気がします』
健気な一文に、僕は冷ややかな愉悦を覚える。
彼女はもう、僕の一言なしには一日を始めることすら難しくなっている。
『おはよう。よく頑張ったね。無理は禁物だよ。お母さんには、ちゃんと挨拶できたかい?』
『はい。でも、やっぱり怖くて顔は見られませんでした……。おじさん、私、いつまでこうしてなきゃいけないのかな』
僕は画面を指でなぞり、ゆっくりと返信を打つ。
『焦らなくていいんだよ。今は、君が壊れてしまわないことが一番大切だ。また時間ができたら、あのカフェで話をしよう。君の好きなココアを飲みながらね』
メッセージを送り終え、僕は背もたれに深く体を預けた。
今頃、あの女は必死になって娘を追い込んでいることだろう。タイムが伸びない原因が、まさか娘の心が「かつて自分が使い捨てた男」に救いを求めているせいだとは、夢にも思わずに。
十八年前、彼女は僕の「嘘」を完璧に信じ込んだ。
僕が差し出した、何の価値もない、ただ健康なだけの凡庸な種。それを彼女は、自分をさらなる高みへと連れて行く「最高のパーツ」だと確信して、悦に浸りながら僕を切り捨てたのだ。
滑稽だった。
自分の傲慢さが招いた結果だというのに、彼女は今もなお、自分の「選別眼」が間違っていた可能性を一度も疑っていない。
「……ふふっ」
思わず漏れた小さな笑い声に、隣の席の同僚が「何かあったんですか?」と顔を向けてくる。
「いや、少し良いニュースがあってね」
僕は穏やかな笑顔で返し、仕事に戻るフリをした。
夕方。定時を少し過ぎた頃、また彼女から連絡が入る。
『お母さんに、明日の記録会でタイムが出なかったら、もう陸上をやめろって言われました。……やめられるなら、その方が楽かもしれない。でも、お母さんのあんな顔、見るのが怖いです』
追い詰められている。
だが、ここで彼女を救い出してはいけない。
極限まで追い詰め、絶望のどん底で、最後の一線を越えさせる。
母親を裏切り、僕という「禁断の果実」を自ら選ばせる。
その時、十八年前の僕の計画は、本当の意味で完成するのだ。
『明日は僕も、遠くから見守っているよ。結果がどうあれ、僕は君の味方だ。終わったら、また連絡しておくれ』
僕はスマートフォンの電源を切り、カバンに仕舞った。
自宅に帰れば、妻が美味しい夕飯を用意して待っている。
温かい家庭の灯りと、冷徹な復讐の炎。
その二つを使い分ける背徳感が、僕の全身を心地よい痺れで包み込んでいた。
第8話へ続く
翌朝、僕が職場のデスクでパソコンを立ち上げると、ポケットの中のスマートフォンが短く震えた。
送り主を確認するまでもない。
『おはようございます。朝練、なんとか終わりました。おじさんの「おやすみ」があったから、少しだけ眠れた気がします』
健気な一文に、僕は冷ややかな愉悦を覚える。
彼女はもう、僕の一言なしには一日を始めることすら難しくなっている。
『おはよう。よく頑張ったね。無理は禁物だよ。お母さんには、ちゃんと挨拶できたかい?』
『はい。でも、やっぱり怖くて顔は見られませんでした……。おじさん、私、いつまでこうしてなきゃいけないのかな』
僕は画面を指でなぞり、ゆっくりと返信を打つ。
『焦らなくていいんだよ。今は、君が壊れてしまわないことが一番大切だ。また時間ができたら、あのカフェで話をしよう。君の好きなココアを飲みながらね』
メッセージを送り終え、僕は背もたれに深く体を預けた。
今頃、あの女は必死になって娘を追い込んでいることだろう。タイムが伸びない原因が、まさか娘の心が「かつて自分が使い捨てた男」に救いを求めているせいだとは、夢にも思わずに。
十八年前、彼女は僕の「嘘」を完璧に信じ込んだ。
僕が差し出した、何の価値もない、ただ健康なだけの凡庸な種。それを彼女は、自分をさらなる高みへと連れて行く「最高のパーツ」だと確信して、悦に浸りながら僕を切り捨てたのだ。
滑稽だった。
自分の傲慢さが招いた結果だというのに、彼女は今もなお、自分の「選別眼」が間違っていた可能性を一度も疑っていない。
「……ふふっ」
思わず漏れた小さな笑い声に、隣の席の同僚が「何かあったんですか?」と顔を向けてくる。
「いや、少し良いニュースがあってね」
僕は穏やかな笑顔で返し、仕事に戻るフリをした。
夕方。定時を少し過ぎた頃、また彼女から連絡が入る。
『お母さんに、明日の記録会でタイムが出なかったら、もう陸上をやめろって言われました。……やめられるなら、その方が楽かもしれない。でも、お母さんのあんな顔、見るのが怖いです』
追い詰められている。
だが、ここで彼女を救い出してはいけない。
極限まで追い詰め、絶望のどん底で、最後の一線を越えさせる。
母親を裏切り、僕という「禁断の果実」を自ら選ばせる。
その時、十八年前の僕の計画は、本当の意味で完成するのだ。
『明日は僕も、遠くから見守っているよ。結果がどうあれ、僕は君の味方だ。終わったら、また連絡しておくれ』
僕はスマートフォンの電源を切り、カバンに仕舞った。
自宅に帰れば、妻が美味しい夕飯を用意して待っている。
温かい家庭の灯りと、冷徹な復讐の炎。
その二つを使い分ける背徳感が、僕の全身を心地よい痺れで包み込んでいた。
第8話へ続く
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