『愛人を連れて帰ってきた翌朝、名前すら呼ばれなかった私は離縁状を置いて旅に出ます。これからは幸せになります――そう思っていました。』

まさき

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第16話「削られていくもの」

第16話「削られていくもの」

 朝が来る前に、目が覚めた。
 眠った感覚は、ほとんどない。
 ただ、意識が浮かび上がっただけ。
 水面の下から、無理やり引き上げられたみたいに。
 体が重い。
 関節がきしむ。
 呼吸が浅い。
 そして――背中が、熱い。
「……っ」
 息を吸うだけで、じわりと広がる。
 痛みではない。
 でも、確かに“そこにある”と分かる熱。
 消えない。
 夜の間に、進んだ。
 何もしていないはずなのに。
 ただ、眠っていただけなのに。
 それでも。
 夢を見た。
 あの声。
 あの表情。
 思い出した瞬間、胸の奥がわずかに揺れる。
 ――だめ。
 思考を止める。
 それ以上は危険だと、体が覚えている。
 でも。
 完全には止まらない。
 余韻が残る。
 消えない熱のように、じわじわと。
 私はゆっくりと体を起こす。
 背中が木から離れる。
 その瞬間、ひりつくような感覚。
 触れなくても分かる。
 広がっている。
 確実に。
 少しずつ。
 終わりに近づいている。
 立ち上がる。
 足元がふらつく。
 一瞬、視界が揺れる。
 地面が遠く感じる。
 慌てて木に手をつく。
 冷たい感触。
 それでようやく、現実に戻る。
「……は……」
 息を整える。
 大丈夫。
 まだ動ける。
 まだ、歩ける。
 そう確認するように、足を一歩前に出す。
 重い。
 昨日よりも、明らかに。
 体が言うことをきかない。
 遅れる。
 ほんの少しのズレ。
 でも、それが分かる。
 確実に、何かが削られている。
 力なのか。
 時間なのか。
 それとも――
 もっと別のものか。
 私は考えないようにする。
 考えれば、そこに意味が生まれる。
 意味が生まれれば、感情が動く。
 それだけで、危険だった。
 歩く。
 一歩ずつ。
 崩れないように。
 呼吸を整えながら。
 一定のリズムを保つ。
 それに集中する。
 それ以外は、すべて削る。
 空は、薄く明るくなっていく。
 朝が近い。
 本来なら、少しだけ安心する時間。
 でも、今は違う。
 光は、危険だ。
 美しいと思ってしまうかもしれない。
 暖かいと感じてしまうかもしれない。
 だから、見ない。
 視線を落とす。
 地面だけを見る。
 それでも。
 ふとした瞬間。
 意識が逸れる。
 何もないはずの思考の隙間に、何かが入り込む。
 理由は分からない。
 きっかけもない。
 それでも。
 ――あの時。
 不意に、浮かぶ。
 食堂の光景。
 何気ない朝。
 名前を呼ばれなかった日々。
 静かな時間。
 何もなかったはずの場所。
 それなのに。
 なぜか。
 ほんの少しだけ。
 懐かしいと、思ってしまう。
「……っ!」
 背中に、反応。
 小さな熱。
 でも、確実なもの。
 私は足を止める。
 息を止める。
 今のは、何だ。
 何もしていない。
 ただ、思い出しただけ。
 それだけで。
 反応した。
「……どうして……」
 声が震える。
 分かっているはずなのに。
 理解しているはずなのに。
 それでも、納得できない。
 思い出すことすら、許されない。
 それが現実だった。
 私は目を閉じる。
 何も考えるな。
 何も思い出すな。
 空にする。
 空っぽにする。
 それだけに集中する。
 数を数える。
 呼吸に合わせて。
 一、二、三。
 それ以外を消す。
 しばらくして、熱は引く。
 でも。
 完全には消えない。
 奥に残る。
 積み重なっていく。
 私はゆっくりと目を開ける。
 そして、再び歩き出す。
 何も感じないために。
 何も考えないために。
 ただ、体を動かす。
 それだけを続ける。
 昼が近づくにつれて、違和感は増していった。
 手の感覚が鈍い。
 指先に力が入らない。
 物を掴む動作が、少し遅れる。
 足も同じだ。
 踏み出すタイミングが、わずかにずれる。
 ほんの少し。
 でも、それが重なる。
 歩きにくい。
 体が、自分のものじゃないみたいだった。
 私は道の脇に座り込む。
 呼吸が乱れる。
 胸が苦しい。
 それを“苦しい”と思わないようにする。
 ただの状態。
 ただの現象。
 意味を持たせない。
 それでも。
 体は正直だった。
 震えが止まらない。
 その時。
 ふと。
 何の前触れもなく。
 浮かぶ。
 ――もしも。
 ほんの小さな想像。
 意図していない。
 ただ、勝手に。
 もしも、あの人が。
 もう一度。
 名前を呼んでくれたら。
「……っ!!」
 強い痛みが走る。
 背中が、焼けるように。
 私は思わず前に倒れる。
 地面に手をつく。
 息ができない。
 今のは。
 ただの想像。
 ただの願い。
 それだけで。
 ここまで。
「……やめて……」
 声が漏れる。
 自分の思考に対して。
 止めたい。
 でも、止まらない。
 勝手に浮かぶ。
 勝手に広がる。
 消せない。
 消えない。
 人間である限り。
 感情を持つ限り。
 それは避けられない。
 私はその場に崩れ落ちる。
 体に力が入らない。
 指先が震える。
 地面の感触だけが、やけに鮮明だった。
 冷たい。
 硬い。
 それだけが、まだ安全だと思えた。
 外もだめ。
 内もだめ。
 思考もだめ。
 すべてが、危険になる。
 何もできない。
 何も考えられない。
 それでも。
 勝手に、生まれる。
 思い出す。
 願ってしまう。
 止められない。
 それが、人間だから。
「……は……」
 呼吸が乱れる。
 視界が歪む。
 涙が滲む。
 それすらも、危険だと分かっているのに。
 止められない。
 私はゆっくりと顔を上げる。
 空は明るい。
 でも、その光は遠い。
 届かない。
 感じてはいけないもの。
 そう思うだけで。
 ほんのわずかに、寂しくなる。
 ――だめ。
 すぐに思考を切る。
 押し潰す。
 それでも。
 残る。
 わずかに。
 確実に。
 それがまた、進行を呼ぶ。
 私はゆっくりと立ち上がる。
 足が震える。
 それでも、進む。
 止まれば、終わる気がした。
 何もしなくても削られるなら。
 せめて。
 最後まで、歩いていたい。
 理由はない。
 意味もない。
 ただ。
 終わるその時まで。
 少しでも。
 自分でいられるように。
 私は歩く。
 崩れながら。
 削られながら。
 それでも。
 止まらずに。
 もう。
 戻れないと、分かりながら。
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