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第3話「金縛り」
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第3話「金縛り」
三月になっても、桐島の生活は何も変わらなかった。
廃工場、廃校、廃ホテル、廃墟マンション。月に三本から四本のペースで動画をアップして、コメントを返して、次の場所をリサーチして、また撮りに行く。その繰り返しだ。
登録者数は三十三万を超えた。
廃病院の動画は今でも定期的に再生されていて、累計再生数は八十万に届きそうだった。あの三階の廊下に映った一フレームのシルエットが、動画の評判を押し上げた。「心霊映像か」「演出か」という議論がコメント欄で続いて、それがアルゴリズムに乗った。
桐島にとってはありがたい誤算だった。
あのシルエットが何だったかについては、今でも光の加減かノイズだと思っている。涼は何も言わなくなった。話題にしなければ、それでいい。
奇妙なコメントを残したアカウントのことも、もう考えていなかった。
忘れた、というより、忘れるほどのことでもなかった。ああいうコメントは来るものだ。気にしていたら身が持たない。
桐島の日常は、順調だった。
そのはずだった。
金縛りにあったのは、三月の終わりの、水曜日の深夜だった。
その日は特に何もない一日だった。
午前中にリサーチをして、昼過ぎに近所のコンビニで昼飯を買って帰って、夕方から次の動画の台本を軽くまとめて、夜は涼とオンラインで通話しながら編集の確認をした。特別なことは何もなかった。疲れてもいなかったし、酒も飲んでいなかった。
風呂に入って、ベッドに入ったのが深夜の一時ごろ。
眠りに落ちるのは早かった。最近はそうだ。横になればすぐ眠れる。それが桐島の数少ない自慢の一つだった。
だから、目が覚めた時も、最初は何が起きているのかわからなかった。
天井が見えた。
真っ暗な天井。桐島の部屋はカーテンが厚いから、夜はほとんど光が入らない。それでもわずかな外の明かりが滲んで、天井の輪郭だけはかろうじてわかる。
いつもと同じ天井だ。
引っ越してきて三年、毎日見ている天井。染みが一つあって、照明の引っかけが少し右に寄っている。なんとなく覚えてしまった天井。
桐島はその天井を見ながら、自分の体が動かないことに気づいた。
動かない。
腕が。足が。首が。指の一本すら、言うことを聞かない。
体全体が、ベッドに縫い付けられているような感覚だった。重い、というより、完全に切り離されているような——頭の中では「動け」と命令しているのに、その命令が体に届いていないような。
呼吸だけは、かろうじてできた。
浅い呼吸。胸が少しだけ上下している感覚。それだけが、今の桐島に許されている動きだった。
なるほど、これが金縛りか。
桐島はわりと冷静にそう思った。
金縛りは実際には睡眠麻痺と呼ばれる生理現象で、レム睡眠中に意識だけが先に目覚めてしまった時に起きる。体は眠っている状態なので筋肉が弛緩していて動かない、ただそれだけのことだ。幽霊とも霊的な現象とも無関係で、ストレスや睡眠不足が引き金になることが多い。
知識としては知っていた。
これがそれだ。
落ち着け。数分もすれば解ける。そういうものだ。
桐島はひたすら天井を見つめながら、体が動くのを待った。
一分が経ったか、三分が経ったか、よくわからなかった。
時間の感覚が狂う。これも睡眠麻痺の特徴だ。桐島は知識を反芻して、落ち着こうとした。
落ち着いていた。
怖くは、なかった。
ただ——。
部屋の空気が、変わった気がした。
「変わった」というのも正確ではない。何かが変わったという感覚があった、というだけで、実際に何が変わったのか説明できない。温度でもない。匂いでもない。音でもない。
それでも何かが——何かが、変わった。
そして。
気配があった。
ドアのほうに。
桐島の部屋は六畳で、ベッドは窓際に置いてある。ドアはベッドから見て左側、三メートルほど先にある。閉まっているはずだ。風呂から上がった後、いつも閉める。
そのドアのあたりに、何かがある気がした。
気配、という言葉しか出てこない。見えているわけではない。暗くて何も見えない。音がするわけでもない。ただ、そこに——そこに何かがいる、という感覚が、肌の表面から染み込んでくるように、確かにあった。
桐島は天井から目を逸らしたかった。
でも、首が動かない。
目だけは動いた。視線だけは動かせた。でも暗くて、ドアのあたりを目の端で捉えても、何も見えない。
ただ、気配だけが——じわじわと、近づいてくる気がした。
ゆっくり。
本当に、ゆっくりと。
桐島は息を止めた。止めようとしたわけではなかった。勝手に止まった。
近づいてくる。
ドアのあたりから、ベッドに向かって。ゆっくりと。確実に。近づいてくる。
見えない。音もしない。それでも確かに、近づいてくる。
桐島は動けないまま、ただ天井を見つめていた。
冷静でいようとした。
これは睡眠麻痺だ。気配というのも、脳が作り出した感覚だ。暗い部屋で体が動かない状態にある時、脳は「危険」を感知してありありとした幻覚に近い感覚を生み出すことがある。そういうメカニズムだ。幽霊ではない。何もいない。
わかっている。
わかって——。
ベッドのすぐ横に、来た。
気配が、ベッドの縁のあたりで止まった。
桐島は天井を見つめたまま、動けなかった。
何も見えない。何も聞こえない。
でも、いる。
何かが、ベッドの横に立っている。
桐島は生まれて初めて、「怖い」と「信じたくない」が同時に存在する感覚を経験した。頭は「これは現象だ」と言っている。でも体の——体の内側の、もっと原始的な何かが、「逃げろ」と言っていた。
声を出そうとした。
出なかった。
動こうとした。
動けなかった。
どれくらいの時間が経ったのか。
ふと、体が動いた。
すっと、糸が切れるように。縫い付けられていた感覚が消えて、普通に体が動くようになった。
桐島は跳ね起きた。
ベッドの横。誰もいない。
ドア。閉まっている。
部屋の中。何もない。
スマホを掴んで、部屋の電気をつけた。眩しい光の中で、桐島は乱れた呼吸を整えながら、部屋を見渡した。
何も、ない。
誰も、いない。
いつもと同じ、六畳の部屋だ。
桐島はしばらくベッドの端に座ったまま、動かなかった。
心臓が速く打っていた。それだけが、さっきまで何かが起きていたことの証拠だった。
でも、何もない。
部屋には何もない。
桐島は深呼吸を三回して、電気を消してベッドに横になった。
眠れなかった。
一時間ほど天井を見つめて、それからようやく浅い眠りに落ちた。
朝になると、昨夜のことが少し遠い感じがした。夢の記憶が朝になると薄れるのと似た感覚。輪郭がぼやけて、細部が消えていく。
金縛りだ、と桐島は思った。
初めての経験だったが、仕組みは知っている。睡眠麻痺。それだけのことだ。ベッドの横に何かがいた気がしたのも、脳が作り出した感覚だ。暗い部屋で体が動かない状態にある時に起きる、典型的な体験談と一致している。何もおかしくない。
疲れていたんだろう。
最近、少し無理をしていた。撮影の頻度が上がっていたし、別の案件でデスクワークも増えていた。体が悲鳴を上げているだけだ。
コーヒーを淹れて、リサーチの続きをした。
涼には言わなかった。
言っても心配させるだけだし、何も起きていないのだから、言うことは何もない。
その日は普通に仕事をして、普通に眠った。
翌日も、普通だった。
その次の日も。
一週間が経って、金縛りのことはほとんど頭の中から消えていた。
あれは疲れのせいだ。
睡眠麻痺だ。
一度きりのことだ。
桐島はそう思っていた。
十日後の夜、また目が覚めた。
体が、動かなかった。
そして。
気配が——また、ドアのほうから、近づいてきた。
(第3話 了)
次話予告——金縛りは、一度では終わらなかった。週に一度、二度と頻度が増していく。それでも桐島は「疲れのせいだ」と言い聞かせ続けた。しかしある夜——天井に、見てはいけないものを見た。
三月になっても、桐島の生活は何も変わらなかった。
廃工場、廃校、廃ホテル、廃墟マンション。月に三本から四本のペースで動画をアップして、コメントを返して、次の場所をリサーチして、また撮りに行く。その繰り返しだ。
登録者数は三十三万を超えた。
廃病院の動画は今でも定期的に再生されていて、累計再生数は八十万に届きそうだった。あの三階の廊下に映った一フレームのシルエットが、動画の評判を押し上げた。「心霊映像か」「演出か」という議論がコメント欄で続いて、それがアルゴリズムに乗った。
桐島にとってはありがたい誤算だった。
あのシルエットが何だったかについては、今でも光の加減かノイズだと思っている。涼は何も言わなくなった。話題にしなければ、それでいい。
奇妙なコメントを残したアカウントのことも、もう考えていなかった。
忘れた、というより、忘れるほどのことでもなかった。ああいうコメントは来るものだ。気にしていたら身が持たない。
桐島の日常は、順調だった。
そのはずだった。
金縛りにあったのは、三月の終わりの、水曜日の深夜だった。
その日は特に何もない一日だった。
午前中にリサーチをして、昼過ぎに近所のコンビニで昼飯を買って帰って、夕方から次の動画の台本を軽くまとめて、夜は涼とオンラインで通話しながら編集の確認をした。特別なことは何もなかった。疲れてもいなかったし、酒も飲んでいなかった。
風呂に入って、ベッドに入ったのが深夜の一時ごろ。
眠りに落ちるのは早かった。最近はそうだ。横になればすぐ眠れる。それが桐島の数少ない自慢の一つだった。
だから、目が覚めた時も、最初は何が起きているのかわからなかった。
天井が見えた。
真っ暗な天井。桐島の部屋はカーテンが厚いから、夜はほとんど光が入らない。それでもわずかな外の明かりが滲んで、天井の輪郭だけはかろうじてわかる。
いつもと同じ天井だ。
引っ越してきて三年、毎日見ている天井。染みが一つあって、照明の引っかけが少し右に寄っている。なんとなく覚えてしまった天井。
桐島はその天井を見ながら、自分の体が動かないことに気づいた。
動かない。
腕が。足が。首が。指の一本すら、言うことを聞かない。
体全体が、ベッドに縫い付けられているような感覚だった。重い、というより、完全に切り離されているような——頭の中では「動け」と命令しているのに、その命令が体に届いていないような。
呼吸だけは、かろうじてできた。
浅い呼吸。胸が少しだけ上下している感覚。それだけが、今の桐島に許されている動きだった。
なるほど、これが金縛りか。
桐島はわりと冷静にそう思った。
金縛りは実際には睡眠麻痺と呼ばれる生理現象で、レム睡眠中に意識だけが先に目覚めてしまった時に起きる。体は眠っている状態なので筋肉が弛緩していて動かない、ただそれだけのことだ。幽霊とも霊的な現象とも無関係で、ストレスや睡眠不足が引き金になることが多い。
知識としては知っていた。
これがそれだ。
落ち着け。数分もすれば解ける。そういうものだ。
桐島はひたすら天井を見つめながら、体が動くのを待った。
一分が経ったか、三分が経ったか、よくわからなかった。
時間の感覚が狂う。これも睡眠麻痺の特徴だ。桐島は知識を反芻して、落ち着こうとした。
落ち着いていた。
怖くは、なかった。
ただ——。
部屋の空気が、変わった気がした。
「変わった」というのも正確ではない。何かが変わったという感覚があった、というだけで、実際に何が変わったのか説明できない。温度でもない。匂いでもない。音でもない。
それでも何かが——何かが、変わった。
そして。
気配があった。
ドアのほうに。
桐島の部屋は六畳で、ベッドは窓際に置いてある。ドアはベッドから見て左側、三メートルほど先にある。閉まっているはずだ。風呂から上がった後、いつも閉める。
そのドアのあたりに、何かがある気がした。
気配、という言葉しか出てこない。見えているわけではない。暗くて何も見えない。音がするわけでもない。ただ、そこに——そこに何かがいる、という感覚が、肌の表面から染み込んでくるように、確かにあった。
桐島は天井から目を逸らしたかった。
でも、首が動かない。
目だけは動いた。視線だけは動かせた。でも暗くて、ドアのあたりを目の端で捉えても、何も見えない。
ただ、気配だけが——じわじわと、近づいてくる気がした。
ゆっくり。
本当に、ゆっくりと。
桐島は息を止めた。止めようとしたわけではなかった。勝手に止まった。
近づいてくる。
ドアのあたりから、ベッドに向かって。ゆっくりと。確実に。近づいてくる。
見えない。音もしない。それでも確かに、近づいてくる。
桐島は動けないまま、ただ天井を見つめていた。
冷静でいようとした。
これは睡眠麻痺だ。気配というのも、脳が作り出した感覚だ。暗い部屋で体が動かない状態にある時、脳は「危険」を感知してありありとした幻覚に近い感覚を生み出すことがある。そういうメカニズムだ。幽霊ではない。何もいない。
わかっている。
わかって——。
ベッドのすぐ横に、来た。
気配が、ベッドの縁のあたりで止まった。
桐島は天井を見つめたまま、動けなかった。
何も見えない。何も聞こえない。
でも、いる。
何かが、ベッドの横に立っている。
桐島は生まれて初めて、「怖い」と「信じたくない」が同時に存在する感覚を経験した。頭は「これは現象だ」と言っている。でも体の——体の内側の、もっと原始的な何かが、「逃げろ」と言っていた。
声を出そうとした。
出なかった。
動こうとした。
動けなかった。
どれくらいの時間が経ったのか。
ふと、体が動いた。
すっと、糸が切れるように。縫い付けられていた感覚が消えて、普通に体が動くようになった。
桐島は跳ね起きた。
ベッドの横。誰もいない。
ドア。閉まっている。
部屋の中。何もない。
スマホを掴んで、部屋の電気をつけた。眩しい光の中で、桐島は乱れた呼吸を整えながら、部屋を見渡した。
何も、ない。
誰も、いない。
いつもと同じ、六畳の部屋だ。
桐島はしばらくベッドの端に座ったまま、動かなかった。
心臓が速く打っていた。それだけが、さっきまで何かが起きていたことの証拠だった。
でも、何もない。
部屋には何もない。
桐島は深呼吸を三回して、電気を消してベッドに横になった。
眠れなかった。
一時間ほど天井を見つめて、それからようやく浅い眠りに落ちた。
朝になると、昨夜のことが少し遠い感じがした。夢の記憶が朝になると薄れるのと似た感覚。輪郭がぼやけて、細部が消えていく。
金縛りだ、と桐島は思った。
初めての経験だったが、仕組みは知っている。睡眠麻痺。それだけのことだ。ベッドの横に何かがいた気がしたのも、脳が作り出した感覚だ。暗い部屋で体が動かない状態にある時に起きる、典型的な体験談と一致している。何もおかしくない。
疲れていたんだろう。
最近、少し無理をしていた。撮影の頻度が上がっていたし、別の案件でデスクワークも増えていた。体が悲鳴を上げているだけだ。
コーヒーを淹れて、リサーチの続きをした。
涼には言わなかった。
言っても心配させるだけだし、何も起きていないのだから、言うことは何もない。
その日は普通に仕事をして、普通に眠った。
翌日も、普通だった。
その次の日も。
一週間が経って、金縛りのことはほとんど頭の中から消えていた。
あれは疲れのせいだ。
睡眠麻痺だ。
一度きりのことだ。
桐島はそう思っていた。
十日後の夜、また目が覚めた。
体が、動かなかった。
そして。
気配が——また、ドアのほうから、近づいてきた。
(第3話 了)
次話予告——金縛りは、一度では終わらなかった。週に一度、二度と頻度が増していく。それでも桐島は「疲れのせいだ」と言い聞かせ続けた。しかしある夜——天井に、見てはいけないものを見た。
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