「お前のカメラ、ずっと映ってるよ」〜ホラースポット配信者が気づいた時には、もう遅かった〜

まさき

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第一章「違和感」

第4話「天井の染み」

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第4話「天井の染み」

 金縛りは、癖になるように繰り返した。
 最初は十日に一度だった。
 それが一週間に一度になり、四月の中頃には週に二度になった。
 毎回、同じだった。
 深夜に目が覚める。体が動かない。呼吸だけができる。そして——ドアのほうから、気配が近づいてくる。ベッドの横まで来て、止まる。どれくらいの時間そこにいるのか、毎回よくわからない。気配が消えると、体が動くようになる。
 そのたびに桐島は跳ね起きて、電気をつけて、部屋を確認した。
 毎回、何もなかった。
 パターンが同じだと、逆に慣れてくる。
 桐島は三回目の金縛りのあたりから、跳ね起きるのをやめた。体が動くようになったら、ゆっくり起き上がって電気をつける。部屋を確認する。何もない。電気を消してまた横になる。そういう手順が確立されてきた。
 慣れるというのは、人間の適応能力の高さだと思った。
 どんな状況にも、人間は慣れる。
 慣れてしまえば、怖くない。怖くなければ、日常だ。
 桐島は金縛りを、「深夜に一度起こされる」程度のこととして処理するようになっていた。睡眠の質は下がっているかもしれないが、仕事には支障がない。昼間に眠くなることもない。撮影も編集も通常通りこなせている。
 問題ない。
 ——そう思っていた。
 四月の末、涼と久しぶりに直接会った。
 打ち合わせを兼ねて、駅近くのカフェで昼飯を食った。涼はパスタを頼んで、桐島はサンドイッチを頼んだ。窓際の席で、外を走る車を眺めながら、次の撮影の話をした。
「廃工場の案件、来月に押さえたいんだよな」
「あそこ許可取れたの?」
「取れた。管理会社が意外と話が早くて」
「へえ」涼はパスタをフォークで巻きながら言った。「じゃあ屋内も全部撮れる?」
「撮れる。ただ、二階より上は床が抜けてる箇所があるから、そこは入れないって条件がついたけど」
「まあ安全第一で」
 涼はそう言って、パスタを口に入れた。
 しばらく食事の音だけがした。
 涼がふと、桐島の顔を見た。
「なんか、顔色悪くないか」
「そうか」
「目の下、クマすごいけど」
「最近、眠りが浅い」
 桐島はサンドイッチを一口食べてから、続けた。
「金縛りにあう」
 涼の手が止まった。
「金縛り」
「うん。最近ちょくちょく。睡眠麻痺だと思う。ストレスか疲れか、そういう類のやつ」
「……いつ頃から」
「三月の終わりくらいから」
 涼はフォークを置いた。テーブルの上で手を組んで、桐島を見た。
「三月の終わり」
「うん」
「廃病院の撮影が十一月だったよな」
「そうだけど」
 桐島は涼の言いたいことがわかって、先に言った。
「関係ないから。五ヶ月近く空いてる。そんなに遅れて影響が出るとか、そういうロジックは成立しない」
「霊的なことにロジックは通じないと思うけど」
「だから、霊的なことじゃないから」
 涼は何か言いたそうな顔をしたが、結局黙った。
 桐島はコーヒーを一口飲んで、話を戻した。
「廃工場、五月の二週目あたりで行きたいんだけど、スケジュール空いてる?」
「空いてる」涼は静かに言った。「でも桐島、本当に大丈夫か」
「大丈夫」
「眠れてんの」
「眠れてる。途中で起きるだけ」
「それ、全然大丈夫じゃないだろ」
「慣れた」
 涼は桐島を見て、少し困ったような顔をした。この顔は知っている。涼が何かを言いたいけど言えない時にする顔だ。
「何か言いたいことがあるなら言えよ」
「……廃病院の動画、最近また再生数伸びてるじゃないか」
「うん。アルゴリズムに乗った」
「コメント欄、たまに変なのついてるよな」
「ホラー系は多い。気にしてない」
「変なコメントが来てた時期と、金縛りが始まった時期って——」
「涼」
 桐島は静かに遮った。
「俺は信じてないから」
 涼は、黙った。
 桐島はそれ以上何も言わなかった。涼も、それ以上何も言わなかった。
 打ち合わせは三十分ほどで終わった。
 別れ際、涼が「体に気をつけろよ」と言った。
「うん」と桐島は言った。
 言いながら、少し思った。
 涼はなぜ、廃病院の話を持ち出したのだろう。
 持ち出すきっかけが、どこかにあったはずだ。コメント欄の話をしたのも、何か理由があったはずだ。
 でも、聞かなかった。
 聞いても仕方がない話だと思ったから。
 五月になった。
 金縛りの頻度は、週に三度になっていた。
 桐島はもうそれに慣れていた。深夜に体が動かなくなって、気配が近づいてきて、ベッドの横で止まる。しばらくして体が動くようになる。起きて電気をつける。何もない。また眠る。
 ルーティンだ。
 ただ——五月の初め、少し違うことがあった。
 その夜の金縛りも、いつも通りに始まった。
 深夜の二時過ぎに目が覚めて、体が動かない。天井を見つめる。気配がドアのほうから近づいてくる。ベッドの横まで来て、止まる。
 桐島はいつものように、体が動くのを待っていた。
 待ちながら、天井を見ていた。
 桐島の部屋の天井には、染みが一つある。
 入居した時からあった染みで、大家に言ったら「前の住人が水をこぼした跡らしい」と言っていた。修繕してもらおうと思っていたが、三年経っても言いそびれたままだ。
 形は不規則で、だいたい手のひらほどの大きさ。いつもそこにある、見慣れた染みだ。
 桐島はその染みを、ぼんやりと見ていた。
 見ていて——。
 何かが、おかしかった。
 染みが、いつもと違う気がした。
 いつもより、少し——大きいような。
 桐島は自分がそう感じていることに気づいて、頭の中で否定した。染みが大きくなるわけがない。同じ染みだ。暗い中で体が動かない状態で見ているから、感覚が狂っているだけだ。
 でも——。
 目を凝らした。
 暗い。よく見えない。
 でも、何か——何かが、おかしい。
 染みが、形を変えていた。
 変えていた、というより——形が違った。いつもの不規則な形ではなく、もっと——もっと、何かに似た形に見えた。
 人の、顔に。
 目があって、鼻があって、口がある。
 はっきりとした輪郭ではない。ぼんやりとした、染みの集まりが偶然そういう形に見えるだけかもしれない。
 でも。
 口が、開いているように見えた。
 桐島は動けなかった。動けないのはいつものことだった。でも今は、動けることへの焦りが、いつもより強かった。
 見たくなかった。
 その顔から、目を逸らしたかった。
 でも、首が動かない。視線を逸らそうとしても、なぜか目がそこから離れない。
 引き付けられているような感覚。磁石に鉄が引き寄せられるような。
 顔の形をした染みが、天井で桐島を見ていた。
 口が。
 動いた、気がした。
 何かを言っている。声はしない。でも口が、確かに動いている。何を言っているのか、読み取れない。ただ、何度も何度も、同じ形を繰り返している。
 同じ言葉を、繰り返している。
 桐島は読み取ろうとして——やめた。
 読み取りたくなかった。
 その瞬間、体が動いた。
 桐島は起き上がって、電気をつけた。
 天井を見た。
 染みは、そこにあった。
 いつもの染みだ。手のひらほどの大きさの、不規則な形の、ただの水染み。
 顔には、見えない。
 口も、ない。
 何も、ない。
 桐島は電気をつけたまま、ベッドに座っていた。
 心臓が速かった。
 呼吸を整えながら、自分が今感じていることを整理しようとした。
 暗い中で体が動かない状態が続いて、脳が過敏になっていた。それだけだ。染みが顔に見えたのは、パレイドリアと呼ばれる現象で、人間の脳は模様や形の中に顔を見出そうとする傾向がある。月の模様が顔に見えるのと同じことだ。
 口が動いたように見えたのも、動いていない。暗い中で視線を固定して見続けていたから、残像か錯覚が起きただけだ。
 何もない。
 桐島はそう自分に言い聞かせた。
 言い聞かせながら、電気を消せなかった。
 明け方まで、電気をつけたまま眠れずにいた。
 朝になって、また天井の染みを見た。
 ただの染みだった。
 顔には、見えない。
 桐島はそれを確認してから、ようやく少し眠った。
 二時間後に目が覚めて、コーヒーを淹れた。
 仕事をした。
 いつも通りにした。
 ただ——その日以来、桐島は天井をあまり見ないようにするようになった。
 ベッドに横になる時、視線を横に向けて眠るようになった。
 自分でも気づかないうちに、そうするようになっていた。
  五月の中頃。
 撮影から帰った夜のことだった。
 桐島はいつものように機材を片付けて、風呂に入って、ベッドに入った。
 目を閉じようとして——ふと、天井を見た。
 染みが、消えていた。
 桐島は起き上がった。電気をつけた。
 天井を見た。
 染みが、ない。
 三年間、ずっとそこにあった染みが、跡形もなく消えていた。
 大家が勝手に修繕したのか。
 でも、部屋の中に入った形跡はない。
 桐島はしばらく天井を見上げていた。
 それから、電気を消した。
 暗い天井を、また見た。
 染みが、あった。
 暗い中では、見えた。
 電気をつけると消える。暗くすると現れる。
 桐島はその染みを見つめながら、今夜も体が動かなくなる時間が来ることを、なぜか確信していた。
 そしてその時、天井の染みは——また、あの顔の形になるのだろうと。
 桐島は天井から目を逸らして、横を向いて目を閉じた。
 眠れなかった。
                   (第4話 了)
次話予告——桐島は涼に、天井の染みのことを話した。涼の顔色が変わった。「俺、編集中に気づいてたことがある」——涼がずっと言えなかったことが、ついて口から出た夜。
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