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第一話:五年目の朝、初めての「さようなら」
第一話:五年目の朝、初めての「さようなら」
「サインはもう、いただきました。あとは私がこの王都を出るだけです」
朝日が差し込む執務室。
私は、重厚なデスクの端に、一枚の書類を静かに置いた。
五年。
私が「カイル公爵夫人」という仮面を被り続けた、あまりに長く、虚しい時間だ。
デスクの向こう側で、カイル様は書類に目を落としたまま、冷ややかな声を出す。
「……そうか。ようやく、自分がロザリーの代わりにはなれないと理解したようだな」
その言葉に、胸の奥がチクリと痛む。
けれど、もう血は流れない。
五年間、毎日、毎時間、この人は私の中に亡き姉・ロザリーの影を探し続けてきた。
愛していたのは、五年前に病で急逝した私の姉。
そして私に求められたのは、姉と瓜二つの顔で、姉と同じように振る舞い、姉が愛した男の隣で微笑み続けること。
「ええ。仰る通りです。私は、どこまでいってもお姉様ではありませんもの」
私は微笑んだ。
それは、彼が一度も見たことのない、憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔だった。
「……何がおかしい。不気味な笑い方をするな。ロザリーなら、そんな顔はしない」
カイル様がようやく顔を上げ、不審そうに私を睨む。
その瞳に映っているのは、姉に似せて整えた私の銀髪と、姉が好んだ鮮やかな深紅のドレス。
でも、その皮を剥げば、中身は空っぽだ。
私……エルゼという女の心は、もうここにはない。
思い返せば、この五年間、彼は一度も私のことを「エルゼ」と呼んでくれなかった。
甘い睦言を囁くときも、厳しく叱責するときも、彼は私を「公爵夫人」か「君」としか呼ばない。
名前を呼んでしまえば、目の前にいるのがロザリーではないという現実に直面してしまうからだろう。
「いいえ。ただ、清々しい気持ちなだけです。カイル様、五年間、お世話になりました。……さようなら」
私は深々と頭を下げ、部屋を後にした。
扉の向こう側では、侍女たちが冷ややかな視線で私を待ち構えていた。
「奥様、お出かけですか? まさか、またお姉様の墓参りという名の自分磨きではございませんよね」
侍女長のマーサが、隠そうともしない嘲笑を浮かべて言う。
この屋敷の使用人たちは皆、カイル様が誰を愛しているかを知っている。
だからこそ、偽物の主人である私を敬う必要などないと、誰もが思っていた。
「いいえ。もう帰らないから、その必要もないわ。……マーサ、あなたが欲しがっていた私の指輪、鏡台の上に置いてきたから、好きにすればいいわ」
「えっ……? 何を仰って……」
絶句する彼女たちを置いて、私は自室へと戻った。
部屋には、カイル様が「ロザリーに似合うから」と買い与えた、私の肌の色には合わない宝石や、重苦しいドレスが溢れている。
それらをすべて脱ぎ捨て、私はクローゼットの奥に隠していた、質素な旅装に着替えた。
髪を解き、姉が好んだ結い方をやめ、ただのエルゼに戻る。
鏡の中にいたのは、どこにでもいる、けれど自由な一人の娘だった。
私が持っていくのは、古びた小さなトランク一つだけ。
服も、金貨も、この屋敷にあるものはすべてカイル様のもの。
だから、私が持てるのは、この屋敷に来る前から持っていた、自分自身のわずかな思い出だけだ。
最後に、私はずっと大切にしていた小箱を手に取った。
中には、十五年前の雪の日、私が別荘の近くで倒れていた少年から預かった「片方のカフスボタン」が眠っている。
あの日、私は名前も告げず、ただ凍える彼の手を握りしめ、朝まで歌を歌って励まし続けた。
けれど、目が覚めた彼が「命の恩人」だと思い込んだのは、後からやってきた美しい姉だった。
姉は否定しなかった。
私は……ただ、彼が生きていてくれればそれでよかったから、黙っていた。
それから十五年。彼はその「勘違い」を抱えたまま私を蔑み、姉を聖女のように崇め続けてきたのだ。
「……やっと、返せるわね。こんなもの、もう私には必要ないから」
私は独り言をつぶやき、カフスボタンを入れた小さな小箱を、あえて目立つ棚の隅に置いた。
私が去った後、彼がこのガラクタを見てどう思おうと、もう知ったことではない。
公爵邸の重い門をくぐり、一歩、外の世界へ踏み出す。
背後を振り返るつもりはない。
五年間の忍耐。十五年間の片思い。
そのすべてが、冷たい冬の風に溶けて消えていくような気がした。
空はどこまでも高く、青い。
偽りの「身代わり」だった私は、今日、死んだ。
そして今日、ただの「エルゼ」として、私は新しく生まれ変わるのだ。
知らない街へ行こう。誰も私を「ロザリーの妹」と呼ばない場所へ。
そこで私は、初めて自分の名前を、自分で好きになるのだ。
「サインはもう、いただきました。あとは私がこの王都を出るだけです」
朝日が差し込む執務室。
私は、重厚なデスクの端に、一枚の書類を静かに置いた。
五年。
私が「カイル公爵夫人」という仮面を被り続けた、あまりに長く、虚しい時間だ。
デスクの向こう側で、カイル様は書類に目を落としたまま、冷ややかな声を出す。
「……そうか。ようやく、自分がロザリーの代わりにはなれないと理解したようだな」
その言葉に、胸の奥がチクリと痛む。
けれど、もう血は流れない。
五年間、毎日、毎時間、この人は私の中に亡き姉・ロザリーの影を探し続けてきた。
愛していたのは、五年前に病で急逝した私の姉。
そして私に求められたのは、姉と瓜二つの顔で、姉と同じように振る舞い、姉が愛した男の隣で微笑み続けること。
「ええ。仰る通りです。私は、どこまでいってもお姉様ではありませんもの」
私は微笑んだ。
それは、彼が一度も見たことのない、憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔だった。
「……何がおかしい。不気味な笑い方をするな。ロザリーなら、そんな顔はしない」
カイル様がようやく顔を上げ、不審そうに私を睨む。
その瞳に映っているのは、姉に似せて整えた私の銀髪と、姉が好んだ鮮やかな深紅のドレス。
でも、その皮を剥げば、中身は空っぽだ。
私……エルゼという女の心は、もうここにはない。
思い返せば、この五年間、彼は一度も私のことを「エルゼ」と呼んでくれなかった。
甘い睦言を囁くときも、厳しく叱責するときも、彼は私を「公爵夫人」か「君」としか呼ばない。
名前を呼んでしまえば、目の前にいるのがロザリーではないという現実に直面してしまうからだろう。
「いいえ。ただ、清々しい気持ちなだけです。カイル様、五年間、お世話になりました。……さようなら」
私は深々と頭を下げ、部屋を後にした。
扉の向こう側では、侍女たちが冷ややかな視線で私を待ち構えていた。
「奥様、お出かけですか? まさか、またお姉様の墓参りという名の自分磨きではございませんよね」
侍女長のマーサが、隠そうともしない嘲笑を浮かべて言う。
この屋敷の使用人たちは皆、カイル様が誰を愛しているかを知っている。
だからこそ、偽物の主人である私を敬う必要などないと、誰もが思っていた。
「いいえ。もう帰らないから、その必要もないわ。……マーサ、あなたが欲しがっていた私の指輪、鏡台の上に置いてきたから、好きにすればいいわ」
「えっ……? 何を仰って……」
絶句する彼女たちを置いて、私は自室へと戻った。
部屋には、カイル様が「ロザリーに似合うから」と買い与えた、私の肌の色には合わない宝石や、重苦しいドレスが溢れている。
それらをすべて脱ぎ捨て、私はクローゼットの奥に隠していた、質素な旅装に着替えた。
髪を解き、姉が好んだ結い方をやめ、ただのエルゼに戻る。
鏡の中にいたのは、どこにでもいる、けれど自由な一人の娘だった。
私が持っていくのは、古びた小さなトランク一つだけ。
服も、金貨も、この屋敷にあるものはすべてカイル様のもの。
だから、私が持てるのは、この屋敷に来る前から持っていた、自分自身のわずかな思い出だけだ。
最後に、私はずっと大切にしていた小箱を手に取った。
中には、十五年前の雪の日、私が別荘の近くで倒れていた少年から預かった「片方のカフスボタン」が眠っている。
あの日、私は名前も告げず、ただ凍える彼の手を握りしめ、朝まで歌を歌って励まし続けた。
けれど、目が覚めた彼が「命の恩人」だと思い込んだのは、後からやってきた美しい姉だった。
姉は否定しなかった。
私は……ただ、彼が生きていてくれればそれでよかったから、黙っていた。
それから十五年。彼はその「勘違い」を抱えたまま私を蔑み、姉を聖女のように崇め続けてきたのだ。
「……やっと、返せるわね。こんなもの、もう私には必要ないから」
私は独り言をつぶやき、カフスボタンを入れた小さな小箱を、あえて目立つ棚の隅に置いた。
私が去った後、彼がこのガラクタを見てどう思おうと、もう知ったことではない。
公爵邸の重い門をくぐり、一歩、外の世界へ踏み出す。
背後を振り返るつもりはない。
五年間の忍耐。十五年間の片思い。
そのすべてが、冷たい冬の風に溶けて消えていくような気がした。
空はどこまでも高く、青い。
偽りの「身代わり」だった私は、今日、死んだ。
そして今日、ただの「エルゼ」として、私は新しく生まれ変わるのだ。
知らない街へ行こう。誰も私を「ロザリーの妹」と呼ばない場所へ。
そこで私は、初めて自分の名前を、自分で好きになるのだ。
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