亡き姉の身代わりとして嫁いだ私ですが、離縁状を置いた翌朝、夫が私の「真実」に気づいたようです』

まさき

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第七話:名前を呼ばれた日

第七話:名前を呼ばれた日
 
 三月になった。
 雪はすっかり溶け、リューエンの街に本物の春が来た。
 市場に色とりどりの花が並び始め、食堂の窓から見える木々に、小さな緑の芽が吹き出した。
 あの封筒のことは、もう考えないようにしていた。
 ほとんど、成功していた。
 春になると、食堂は忙しくなった。
 行商人や旅人が増え、昼時には席が埋まることも珍しくなくなった。
 私は走り回りながら、それでも不思議と苦ではなかった。
 身体が疲れている時、余計なことを考えずに済む。
 それが、今の私にはちょうどよかった。
 その日の昼過ぎ、込み合う食堂で注文を取っていると、入口の扉が開いた。
 「いらっしゃいませ、何名様――」
 顔を上げて、言葉が途切れた。
 扉の前に立っていたのは、二人の男性だった。
 一人は三十代の半ばほど。穏やかな顔立ちで、旅装をしている。王都の上流階級によく見る、仕立ての良い外套を着ていた。
 そして、その隣。
 喉の奥で、何かが固まった。
 カイル様だった。
 目が合った。
 一瞬だった。
 でも、確かに合った。
 私は視線を外し、手元の注文帳に目を落とした。
 胸の奥で何かが小さく軋んだが、顔には出さなかった。
 「……二名様ですね。こちらへどうぞ」
 声は、思ったより落ち着いていた。
 五年間の仮面が、今日もまだ私を守っていた。
 窓から離れた、目立たない席へ案内した。
 カイル様は何も言わなかった。
 私も何も言わなかった。
 隣の男性が、少し困ったような顔で私とカイル様を交互に見た。
 「えっと……スープとパンを二つ、お願いできますか」
 「かしこまりました」
 私はそれだけ答えて、厨房へ向かった。
 扉の陰に入った瞬間、膝から力が抜けそうになった。
 壁に手をついて、ゆっくりと息を吸う。
 来た。
 また、来た。
 先月いったん去ったはずなのに、それでもまだ、この街に戻ってきたのだ。
 ……どうすればいい。
 どうもしなくていい。
 ここは私の職場だ。私はただの給仕だ。
 それだけだ。
 スープを運ぶ時、私はなるべくカイル様の顔を見ないようにした。
 皿を置き、踵を返そうとした、その時だった。
 「エルゼ」
 低い、静かな声だった。
 五年間、一度も呼ばれなかった名前だった。
 私の足が、止まった。
 「……お客様、何かご用でしょうか」
 振り返らずに答えた。
 「……話を、させてくれ」
 以前のカイル様なら、こんな言い方はしなかった。
 命じるか、黙って視線を向けるか、それだけだった。
 その不器用な頼み方が、かえって胸に引っかかった。
 「申し訳ありませんが、今は仕事中ですので」
 「仕事が終わってからでいい」
 隣の男性が、小声で「カイル」と短く制している。
 私はしばらく、その場で動かなかった。
 逃げることは簡単だった。
 でも、ふと思った。
 逃げ続ける限り、この重さはずっと私の中に残り続けるのかもしれない、と。
 言うべきことを、言葉にして渡してしまえば。
 それでようやく、本当に終われるのかもしれない、と。
 「……夕方には上がります。それまでお待ちになるなら、ご自由に」
 私はそれだけ言って、厨房へ戻った。
 ノラが心配そうに寄ってきた。
 「エルゼさん、顔色が悪いです」
 「大丈夫」
 「大丈夫じゃなさそうです」
 私は少し笑った。
 「……少し、外の風に当たってくる。五分だけ」
 裏口から外に出ると、春の冷たい風が頬を撫でた。
 路地の石畳は、午後の陽射しを受けてぼんやりと温かい。
 私はそこにしゃがみ込んで、膝に額を当てた。
 エルゼ、と呼ばれた声が、耳の奥でまだ響いていた。
 石畳の冷たさが、じわりと足の裏から伝わってくる。
 風が一度、強く吹いた。
 髪が顔にかかって、視界が暗くなった。
 それをそのままにして、私はしばらく、ただそこにいた。
 夕方、仕事を終えた私は、食堂の隅の席に腰を下ろした。
 カイル様はまだいた。
 隣の男性はいなかった。
 向かいに座ったカイル様は、五年前より少し痩せていた。
 目の下に、うっすらと疲れの色がある。
 私はそれを、ただ静かに見た。
 「……また来たんですね」
 「ああ」
 「先月も」
 「……ああ」
 しばらく、沈黙が続いた。
 カイル様が、テーブルの上に小箱を置いた。
 私の置いていった、あの小箱だった。
 「これを、返しに来た」
 「受け取れません。差し上げたものです」
 「俺には、受け取る資格がない」
 「……」
 「エルゼ。俺は」
 「カイル様」
 私は静かに遮った。
 「話してくださるのは、ありがたいです。でも、聞く前に一つだけ言わせてください」
 カイル様が口を閉じた。
 私は両手をテーブルの上に置いて、まっすぐに彼を見た。
 「私は今、とても元気です。仕事があって、居場所があって、名前を呼んでくれる人がいる。それだけで、今は十分なんです」
 「……」
 「謝っていただかなくていい。説明も、要りません。ただ、それだけを知っていただきたかった」
 カイル様は、唇を引き結んだ。
 その目に、何かが揺れていた。
 私はそれを最後まで見届けてから、静かに立ち上がった。
 「……お気をつけてお帰りください」
 それだけ言って、私は席を離れた。
 部屋に戻って、窓を開けた。
 春の夜風が、静かに流れ込んでくる。
 ラベンダーの石鹸を手に取ると、今日は柔らかく匂いが広がった。
 エルゼ、と呼ばれた。
 遅すぎた名前だった。
 でも、確かに呼ばれた。
 泣かなかった。
 それだけは、わかった。
 私は窓を閉めて、布団に横になった。
 春の夜は、冬よりずっと静かだった。
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