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第3話:オーナーの娘と、深夜の廃棄弁当
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第3話:オーナーの娘と、深夜の廃棄弁当
午前四時。
この時間は、夜が最も深く、そして朝が最も残酷に近づく境界線だ。
店内の蛍光灯が、わずかにチカチカと瞬く。俺はレジの引き出しを閉め、バックヤードのさらに奥、あの「事務所」へと向かった。
手には、さっき棚から下げてきたばかりの「幕の内弁当」と「おにぎり」の袋。
バーコードが読み取れなくなった瞬間に、これらは「商品」という価値を失い、ただの「廃棄」という記号に変わる。
事務所のドアをノックすると、中から「入って」と少し眠そうな声がした。
ドアを開けると、換気扇の唸る音と共に、事務所特有の重たい空気が押し寄せてくる。
彼女はパイプ椅子を窓の方へ向け、机の上に投げ出した長い足をぶらぶらとさせていた。170センチの彼女がそうしていると、事務所という空間自体が、まるでサイズの合わない箱のように見えてくる。
「……お疲れ様です。持ってきました」
「ありがと。お腹空いたね。ダイ……じゃなかった、君もお腹空いたでしょ」
彼女は俺の名前を呼びかけて、すぐに止めた。その「君」という呼び方が、かえって二人の間の距離を奇妙に生々しくさせる。
彼女は俺が持ってきた袋を受け取ると、狭い事務机の上の書類――オーナーである彼女の父親が記したであろう売上表や仕入れ伝票を、雑に脇へ追いやった。
俺たちは並んでパイプ椅子に座った。
狭い事務所だ。176センチの俺と、170センチの彼女。大柄な人間が二人並ぶと、肩が触れ合わないように座るだけで一苦労だった。
俺が幕の内弁当の蓋を開けると、冷え切ったおかずの匂いが鼻をつく。彼女は手慣れた手つきで電子レンジに弁当を放り込み、一分間の沈黙が流れた。
「ねえ。オーナーの娘って、どういうイメージ?」
レンジが回る音に紛れて、彼女が唐突に訊いてきた。
「……どうって。まあ、店を継ぐんだろうなとか。食いっぱぐれないんだろうなとか。そんな感じですけど」
「だよね。みんなそう思う。でもさ、これを見てよ」
彼女は机の端に置かれた、色褪せた古い写真立てを指差した。
そこには、まだ幼い頃の彼女と、今よりもずっと若く、覇気のあるオーナーが写っている。背景は建設中のこのコンビニだ。
「この店ができる前、うちはただの小さな酒屋だったの。父さんはこのコンビニに全てを賭けた。だから、私はこの店から離れられない。この170センチの体も、この店を支えるための柱みたいなもんなのよ」
彼女が自嘲気味に笑い、レンジが「チン」と鳴った。
温められた弁当の、少し安っぽい、けれど暴力的に食欲をそそる匂いが部屋を満たす。
「いただきます」
二人で割り箸を割る音が重なった。
本来ならゴミ箱に捨てられるはずの、期限の切れた幕の内弁当。
それを、オーナーの娘と、しがない大学生の俺が、深夜の密室で分け合って食べる。
その光景は、どこか滑稽で、それでいてひどく贅沢な儀式のように感じられた。
「……おいしいですね」
「でしょ。冷めてる時はただの『廃棄』だけど、温めればちゃんと『食事』になるんだから」
彼女は卵焼きを頬張りながら、俺の方をじっと見た。
その瞳には、さっきレジで見せていた余裕たっぷりの表情とは違う、もっと根源的な「生活」の匂いが宿っていた。
170センチの体を維持するために、彼女はこの店で働き、この店の空気を吸い、この店の廃棄を食べている。その事実が、俺の中にあった彼女への「憧れ」というフィルターを一枚ずつ剥がしていく。
俺は176センチの背中を丸めて、彼女の隣で黙々と米を口に運んだ。
この時、俺たちの距離は、おそらく数センチもなかった。
彼女の肩が、俺の腕に微かに触れる。
事務所の狭さが、外の世界のすべてを遮断し、俺たちを一つの孤独の中に閉じ込めていた。
「君は、どこに行くの?」
彼女が不意に箸を止め、俺を見つめた。
「……え?」
「卒業したら。この街を出て、もっと広いところに行くんでしょ? 176センチもあるんだから、もっと遠くまで見えるはずじゃない」
俺は答えに詰まった。
確かに、俺はこの街を出るつもりだった。こんな狭いコンビニの事務所ではなく、もっと高層ビルが立ち並び、誰もが自分の名前を隠して生きる大都会へ。
けれど、今の俺を繋ぎ止めているのは、その未来への希望ではなく、隣に座る彼女の、この少しだけ疲れたような横顔だった。
「……まだ、分かりません」
「嘘つき。君の目は、もうここにはいないよ」
彼女はそう言うと、俺の弁当から煮物を一つ、断りもなく自分の口に運んだ。
「あ、それ俺の……」
「いいじゃん、廃棄なんだから。減るもんじゃないし」
彼女は悪戯っぽく笑い、再びラークを取り出した。
まだ弁当が残っているのに、彼女は食後のデザートのようにタバコに火をつけた。
換気扇が慌てて紫煙を吸い込んでいくが、追いつかない。
「ねえ。実用品くん。一つだけ約束して」
煙の向こう側で、彼女の声が少しだけ真剣になった。
「……なんですか」
「この街を出る時、私に何も言わずに消えないで。……せめて、最後に一本だけ、ラークを吸えるくらいの時間は頂戴ね」
170センチの彼女の背中が、事務所の壁に寄りかかる。
俺はその約束の重さに、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
俺たちが食べているのは、数時間後には忘れ去られる廃棄弁当だ。
俺たちの関係も、いつかは期限が切れて、誰にも知られずに捨てられる運命なのかもしれない。
それでも俺は、その「期限切れ」の時間を、もう少しだけ引き伸ばしたいと願ってしまった。
176センチの俺の視界に映る彼女は、どんな高級な宝石よりも、その夜、美しく、そして危うく見えた。
「……分かりました。約束します」
「よし。じゃあ、残りのおにぎり、全部食べていいよ。男の子なんだから、もっと太りなさい」
彼女はそう言って、俺の頭を無造作に撫でた。
その手のひらの熱が、髪を通じて脳にまで溶け出してくる。
午前四時。
世界から捨てられたはずの俺たちは、事務所という名の箱の中で、確かに「生きて」いた。
午前四時。
この時間は、夜が最も深く、そして朝が最も残酷に近づく境界線だ。
店内の蛍光灯が、わずかにチカチカと瞬く。俺はレジの引き出しを閉め、バックヤードのさらに奥、あの「事務所」へと向かった。
手には、さっき棚から下げてきたばかりの「幕の内弁当」と「おにぎり」の袋。
バーコードが読み取れなくなった瞬間に、これらは「商品」という価値を失い、ただの「廃棄」という記号に変わる。
事務所のドアをノックすると、中から「入って」と少し眠そうな声がした。
ドアを開けると、換気扇の唸る音と共に、事務所特有の重たい空気が押し寄せてくる。
彼女はパイプ椅子を窓の方へ向け、机の上に投げ出した長い足をぶらぶらとさせていた。170センチの彼女がそうしていると、事務所という空間自体が、まるでサイズの合わない箱のように見えてくる。
「……お疲れ様です。持ってきました」
「ありがと。お腹空いたね。ダイ……じゃなかった、君もお腹空いたでしょ」
彼女は俺の名前を呼びかけて、すぐに止めた。その「君」という呼び方が、かえって二人の間の距離を奇妙に生々しくさせる。
彼女は俺が持ってきた袋を受け取ると、狭い事務机の上の書類――オーナーである彼女の父親が記したであろう売上表や仕入れ伝票を、雑に脇へ追いやった。
俺たちは並んでパイプ椅子に座った。
狭い事務所だ。176センチの俺と、170センチの彼女。大柄な人間が二人並ぶと、肩が触れ合わないように座るだけで一苦労だった。
俺が幕の内弁当の蓋を開けると、冷え切ったおかずの匂いが鼻をつく。彼女は手慣れた手つきで電子レンジに弁当を放り込み、一分間の沈黙が流れた。
「ねえ。オーナーの娘って、どういうイメージ?」
レンジが回る音に紛れて、彼女が唐突に訊いてきた。
「……どうって。まあ、店を継ぐんだろうなとか。食いっぱぐれないんだろうなとか。そんな感じですけど」
「だよね。みんなそう思う。でもさ、これを見てよ」
彼女は机の端に置かれた、色褪せた古い写真立てを指差した。
そこには、まだ幼い頃の彼女と、今よりもずっと若く、覇気のあるオーナーが写っている。背景は建設中のこのコンビニだ。
「この店ができる前、うちはただの小さな酒屋だったの。父さんはこのコンビニに全てを賭けた。だから、私はこの店から離れられない。この170センチの体も、この店を支えるための柱みたいなもんなのよ」
彼女が自嘲気味に笑い、レンジが「チン」と鳴った。
温められた弁当の、少し安っぽい、けれど暴力的に食欲をそそる匂いが部屋を満たす。
「いただきます」
二人で割り箸を割る音が重なった。
本来ならゴミ箱に捨てられるはずの、期限の切れた幕の内弁当。
それを、オーナーの娘と、しがない大学生の俺が、深夜の密室で分け合って食べる。
その光景は、どこか滑稽で、それでいてひどく贅沢な儀式のように感じられた。
「……おいしいですね」
「でしょ。冷めてる時はただの『廃棄』だけど、温めればちゃんと『食事』になるんだから」
彼女は卵焼きを頬張りながら、俺の方をじっと見た。
その瞳には、さっきレジで見せていた余裕たっぷりの表情とは違う、もっと根源的な「生活」の匂いが宿っていた。
170センチの体を維持するために、彼女はこの店で働き、この店の空気を吸い、この店の廃棄を食べている。その事実が、俺の中にあった彼女への「憧れ」というフィルターを一枚ずつ剥がしていく。
俺は176センチの背中を丸めて、彼女の隣で黙々と米を口に運んだ。
この時、俺たちの距離は、おそらく数センチもなかった。
彼女の肩が、俺の腕に微かに触れる。
事務所の狭さが、外の世界のすべてを遮断し、俺たちを一つの孤独の中に閉じ込めていた。
「君は、どこに行くの?」
彼女が不意に箸を止め、俺を見つめた。
「……え?」
「卒業したら。この街を出て、もっと広いところに行くんでしょ? 176センチもあるんだから、もっと遠くまで見えるはずじゃない」
俺は答えに詰まった。
確かに、俺はこの街を出るつもりだった。こんな狭いコンビニの事務所ではなく、もっと高層ビルが立ち並び、誰もが自分の名前を隠して生きる大都会へ。
けれど、今の俺を繋ぎ止めているのは、その未来への希望ではなく、隣に座る彼女の、この少しだけ疲れたような横顔だった。
「……まだ、分かりません」
「嘘つき。君の目は、もうここにはいないよ」
彼女はそう言うと、俺の弁当から煮物を一つ、断りもなく自分の口に運んだ。
「あ、それ俺の……」
「いいじゃん、廃棄なんだから。減るもんじゃないし」
彼女は悪戯っぽく笑い、再びラークを取り出した。
まだ弁当が残っているのに、彼女は食後のデザートのようにタバコに火をつけた。
換気扇が慌てて紫煙を吸い込んでいくが、追いつかない。
「ねえ。実用品くん。一つだけ約束して」
煙の向こう側で、彼女の声が少しだけ真剣になった。
「……なんですか」
「この街を出る時、私に何も言わずに消えないで。……せめて、最後に一本だけ、ラークを吸えるくらいの時間は頂戴ね」
170センチの彼女の背中が、事務所の壁に寄りかかる。
俺はその約束の重さに、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
俺たちが食べているのは、数時間後には忘れ去られる廃棄弁当だ。
俺たちの関係も、いつかは期限が切れて、誰にも知られずに捨てられる運命なのかもしれない。
それでも俺は、その「期限切れ」の時間を、もう少しだけ引き伸ばしたいと願ってしまった。
176センチの俺の視界に映る彼女は、どんな高級な宝石よりも、その夜、美しく、そして危うく見えた。
「……分かりました。約束します」
「よし。じゃあ、残りのおにぎり、全部食べていいよ。男の子なんだから、もっと太りなさい」
彼女はそう言って、俺の頭を無造作に撫でた。
その手のひらの熱が、髪を通じて脳にまで溶け出してくる。
午前四時。
世界から捨てられたはずの俺たちは、事務所という名の箱の中で、確かに「生きて」いた。
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