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16話 静かな申し出
16話 静かな申し出
セドリックとの初対面から数日、侯爵家の屋敷には以前とは別の落ち着いた空気が流れていた。
婚約破棄の騒ぎがようやく薄れたこともある。
だがそれ以上に、レイナ自身の表情が変わったのだと侍女たちは囁いていた。
朝の挨拶にきちんと笑うようになった。
紅茶の香りに「今日は良い茶葉ね」と気づくようになった。
庭の花を見て立ち止まるようになった。
ほんの些細なことばかりだ。
けれど十年、我慢の中で小さくなっていた人が、少しずつ元の大きさへ戻っていくようだった。
「またお手紙です」
朝食後、侍女が銀盆に載せて持ってきた封書を見て、レイナは姿勢を正した。
深い藍色の封蝋。
アシュクロフト公爵家の紋章。
心臓が、ひとつ大きく鳴る。
「お嬢さま、顔が赤いです」
「そんなことはありません」
即座に否定したが、侍女たちは口元を隠して笑っている。
レイナは少し頬を膨らませながら封を切った。
中の便箋には、整った筆跡で簡潔に綴られていた。
――先日は時間をいただき感謝する。
――もし負担でなければ、改めて庭園散策に付き合ってほしい。
――人目の少ない公爵家別邸にて。返事は急がない。
それだけだった。
飾った言葉はない。
けれど読む者への配慮が、行間に静かに滲んでいる。
「……庭園散策」
母がいつの間にか後ろから覗き込んでいた。
「まあ、素敵」
「お母さま!」
「返事は?」
「まだ読んだばかりです」
「なら今から悩めるわね」
楽しそうに言う母に、レイナは思わず笑ってしまった。
昼前、父にも話は伝わった。
執務室へ呼ばれたレイナが手紙を見せると、父は難しい顔でうなった。
「別邸か……」
「何か問題が?」
「いや。むしろ本邸へ招かぬあたり気を遣っている」
父は書類を閉じる。
「本邸なら使用人も多い。人の目もある。噂好きの者もいる」
「別邸なら静か、ということですね」
「そういうことだ」
父は少しだけ口元を緩めた。
「思った以上に誠実な男かもしれん」
その評価に、レイナの胸がほのかに温かくなる。
自分だけが良く感じたのではないのだと分かると嬉しい。
「ただし」
父の声が急に厳しくなる。
「嫌なら断れ」
「……はい」
「気が進まぬなら理由もいらん」
レイナは静かに頷いた。
以前なら、“家のため行け”と言われていただろう。
その違いが、今も少し信じられない。
午後、自室で返事を書く。
白い便箋の前に座り、何度もペン先を止めた。
断るつもりはない。
むしろ、会いたいと思っている。
けれどその気持ちを素直に認めるのが、まだ少し気恥ずかしい。
――お誘い、ありがたく存じます。
――ぜひ、お伺いしたく思います。
そこまで書いて、また止まる。
味気ないだろうか。
堅すぎるだろうか。
「恋文ではないのですよ、お嬢さま」
侍女が後ろから言った。
「わ、分かっています」
「でも少し嬉しそうです」
レイナは返事の代わりに、枕を投げた。
侍女たちの笑い声が部屋に広がる。
こんな時間があること自体、少し前の自分には想像もできなかった。
数日後。
公爵家別邸へ向かう馬車の中で、レイナは落ち着かず何度も手袋を直していた。
街外れにある別邸は、本邸より小ぶりながら上品で、白い石造りの館だった。
門をくぐると、広い庭園が目に入る。
整えられた芝生、季節の花々、小さな池。
派手さはないのに美しい。
「いかにも、あの方らしいわね」
付き添いの母が小声で言う。
「無駄がなくて、でも手を抜いていない」
レイナは頷いた。
そのとき、玄関前にセドリックが現れた。
濃い灰色の上着姿で、今日も無駄なく整っている。
だが初対面の日より少し柔らかな空気があった。
「ようこそ」
低い声に、胸がまた鳴る。
「お招きいただき、ありがとうございます」
レイナが礼をすると、彼は母にも丁寧に挨拶した。
母は満足げな笑みを浮かべる。
その数分後には、当然のように「私は温室でも見てくるわ」と姿を消した。
あまりに分かりやすい。
二人で庭園を歩き始める。
春の風が花の香りを運び、砂利道が静かに鳴る。
しばらく無言だった。
けれど気まずくはない。
沈黙を埋めるために無理に話さなくていい空気があった。
「庭はお好きですか」
先に口を開いたのはセドリックだった。
「はい。見るのも、少し手入れをするのも」
「それは良かった」
「なぜですか」
「この庭は、私が趣味で整えさせている」
レイナは目を丸くした。
「公爵様ご自身が?」
「意外そうだ」
「少しだけ」
彼はわずかに口元を緩める。
笑った、のだと思う。
ほんの一瞬だったが、確かに。
「花は裏切らない」
「……急に重いお話ですね」
今度はセドリックが小さく息を漏らした。
それが笑いだと気づくまで、少しかかった。
池のそばで足を止める。
水面には青空が映り、白い雲がゆっくり流れている。
「先日から考えていた」
セドリックが静かに言った。
「あなたは、急いで再婚など望んでいないかもしれないと」
レイナは息をのむ。
また、この人はそこから話すのか。
自分の望みより先に、相手の心を気にかける。
「ですから、縁談という形にこだわらず」
彼はレイナをまっすぐ見た。
「まずは、互いを知る時間にしませんか」
風が止まった気がした。
契約でも条件でもなく。
まず知る時間を。
そんな申し出を、レイナは一度も受けたことがなかった。
「……はい」
返事は、自然にこぼれていた。
セドリックの目が、やわらかくほどける。
春の光が水面に揺れ、二人の間へ静かに落ちていた。
セドリックとの初対面から数日、侯爵家の屋敷には以前とは別の落ち着いた空気が流れていた。
婚約破棄の騒ぎがようやく薄れたこともある。
だがそれ以上に、レイナ自身の表情が変わったのだと侍女たちは囁いていた。
朝の挨拶にきちんと笑うようになった。
紅茶の香りに「今日は良い茶葉ね」と気づくようになった。
庭の花を見て立ち止まるようになった。
ほんの些細なことばかりだ。
けれど十年、我慢の中で小さくなっていた人が、少しずつ元の大きさへ戻っていくようだった。
「またお手紙です」
朝食後、侍女が銀盆に載せて持ってきた封書を見て、レイナは姿勢を正した。
深い藍色の封蝋。
アシュクロフト公爵家の紋章。
心臓が、ひとつ大きく鳴る。
「お嬢さま、顔が赤いです」
「そんなことはありません」
即座に否定したが、侍女たちは口元を隠して笑っている。
レイナは少し頬を膨らませながら封を切った。
中の便箋には、整った筆跡で簡潔に綴られていた。
――先日は時間をいただき感謝する。
――もし負担でなければ、改めて庭園散策に付き合ってほしい。
――人目の少ない公爵家別邸にて。返事は急がない。
それだけだった。
飾った言葉はない。
けれど読む者への配慮が、行間に静かに滲んでいる。
「……庭園散策」
母がいつの間にか後ろから覗き込んでいた。
「まあ、素敵」
「お母さま!」
「返事は?」
「まだ読んだばかりです」
「なら今から悩めるわね」
楽しそうに言う母に、レイナは思わず笑ってしまった。
昼前、父にも話は伝わった。
執務室へ呼ばれたレイナが手紙を見せると、父は難しい顔でうなった。
「別邸か……」
「何か問題が?」
「いや。むしろ本邸へ招かぬあたり気を遣っている」
父は書類を閉じる。
「本邸なら使用人も多い。人の目もある。噂好きの者もいる」
「別邸なら静か、ということですね」
「そういうことだ」
父は少しだけ口元を緩めた。
「思った以上に誠実な男かもしれん」
その評価に、レイナの胸がほのかに温かくなる。
自分だけが良く感じたのではないのだと分かると嬉しい。
「ただし」
父の声が急に厳しくなる。
「嫌なら断れ」
「……はい」
「気が進まぬなら理由もいらん」
レイナは静かに頷いた。
以前なら、“家のため行け”と言われていただろう。
その違いが、今も少し信じられない。
午後、自室で返事を書く。
白い便箋の前に座り、何度もペン先を止めた。
断るつもりはない。
むしろ、会いたいと思っている。
けれどその気持ちを素直に認めるのが、まだ少し気恥ずかしい。
――お誘い、ありがたく存じます。
――ぜひ、お伺いしたく思います。
そこまで書いて、また止まる。
味気ないだろうか。
堅すぎるだろうか。
「恋文ではないのですよ、お嬢さま」
侍女が後ろから言った。
「わ、分かっています」
「でも少し嬉しそうです」
レイナは返事の代わりに、枕を投げた。
侍女たちの笑い声が部屋に広がる。
こんな時間があること自体、少し前の自分には想像もできなかった。
数日後。
公爵家別邸へ向かう馬車の中で、レイナは落ち着かず何度も手袋を直していた。
街外れにある別邸は、本邸より小ぶりながら上品で、白い石造りの館だった。
門をくぐると、広い庭園が目に入る。
整えられた芝生、季節の花々、小さな池。
派手さはないのに美しい。
「いかにも、あの方らしいわね」
付き添いの母が小声で言う。
「無駄がなくて、でも手を抜いていない」
レイナは頷いた。
そのとき、玄関前にセドリックが現れた。
濃い灰色の上着姿で、今日も無駄なく整っている。
だが初対面の日より少し柔らかな空気があった。
「ようこそ」
低い声に、胸がまた鳴る。
「お招きいただき、ありがとうございます」
レイナが礼をすると、彼は母にも丁寧に挨拶した。
母は満足げな笑みを浮かべる。
その数分後には、当然のように「私は温室でも見てくるわ」と姿を消した。
あまりに分かりやすい。
二人で庭園を歩き始める。
春の風が花の香りを運び、砂利道が静かに鳴る。
しばらく無言だった。
けれど気まずくはない。
沈黙を埋めるために無理に話さなくていい空気があった。
「庭はお好きですか」
先に口を開いたのはセドリックだった。
「はい。見るのも、少し手入れをするのも」
「それは良かった」
「なぜですか」
「この庭は、私が趣味で整えさせている」
レイナは目を丸くした。
「公爵様ご自身が?」
「意外そうだ」
「少しだけ」
彼はわずかに口元を緩める。
笑った、のだと思う。
ほんの一瞬だったが、確かに。
「花は裏切らない」
「……急に重いお話ですね」
今度はセドリックが小さく息を漏らした。
それが笑いだと気づくまで、少しかかった。
池のそばで足を止める。
水面には青空が映り、白い雲がゆっくり流れている。
「先日から考えていた」
セドリックが静かに言った。
「あなたは、急いで再婚など望んでいないかもしれないと」
レイナは息をのむ。
また、この人はそこから話すのか。
自分の望みより先に、相手の心を気にかける。
「ですから、縁談という形にこだわらず」
彼はレイナをまっすぐ見た。
「まずは、互いを知る時間にしませんか」
風が止まった気がした。
契約でも条件でもなく。
まず知る時間を。
そんな申し出を、レイナは一度も受けたことがなかった。
「……はい」
返事は、自然にこぼれていた。
セドリックの目が、やわらかくほどける。
春の光が水面に揺れ、二人の間へ静かに落ちていた。
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