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26話 気づいている人
26話 気づいている人
領地での通り雨から戻って二日後、レイナは王都の自室で深いため息をついていた。
机の上には開いたままの本。
けれど文字は一行も頭へ入ってこない。
思い出すのは、東屋での雨音と、髪へ触れた指先ばかりだった。
「またですか」
侍女が呆れた声を出す。
「何がですか」
「本日三度目です」
「数えないでください」
「お嬢さまが恋煩いで日常生活を失っておられるので」
「失っていません」
即座に否定したが、説得力は薄い。
栞を逆さに挟み、本を閉じたまま読み続けていた自覚はある。
侯爵家へ戻ってからというもの、母も侍女もミレーユも、皆同じ顔をしていた。
――ようやく自覚したのね。
そう言いたげな、やさしくも面白がる顔だ。
だがレイナ本人にとっては笑い事ではない。
好きだと気づいてしまった今、以前のように平然と振る舞えなくなった。
手紙一つで胸が騒ぐ。
名前を聞くだけで顔が熱くなる。
次に会った時、まともに話せる気がしない。
「それで、次のお誘いはまだ?」
午後に訪ねてきたミレーユが、焼き菓子をつまみながら聞いた。
「まだです」
「残念」
「なぜあなたが残念がるの」
「観察対象が止まるから」
友人とは何なのだろう。
その時、侍女が慌てず騒がず入ってきた。
「お嬢さま、公爵様からお手紙です」
レイナは立ち上がりかけ、すぐ座り直した。
「……そんなに急いでいません」
「足が半歩出ていました」
ミレーユが笑う。
本当に腹立たしい。
封を切る手が少し震える。
――先日はお越しいただき感謝する。
――先日お貸ししたものがあります。
――ご都合が合えば、明日受け取りに伺いたい。
お貸しした物。
レイナは一瞬考え、すぐ気づいた。
東屋で借りたハンカチだ。
「まあ」
ミレーユが面白そうに身を乗り出す。
「口実が上手ね」
「違います。返し物です」
「返し物を理由に会いに来るのよ」
反論できなかった。
胸の鼓動だけがうるさい。
翌日、セドリックは午後の早い時間に訪れた。
侯爵家の応接間へ通される。
レイナは何度も深呼吸してから入室した。
それでも扉を開けた瞬間、彼の姿を見て心臓が跳ねる。
今日は淡い灰色の上着姿だった。
静かな色合いがよく似合う。
「お待たせしました」
「いえ」
彼が立ち上がる。
その動作一つで落ち着いた空気が広がるのだから不思議だ。
「先日はこれを」
差し出したのは、きれいに畳まれたハンカチだった。
洗い、香りまで整えた。
「……わざわざありがとうございます」
「こちらこそ、お借りして助かりました」
会話は普通だ。
とても普通だ。
なのに、東屋でのことを互いに思い出している気がして落ち着かない。
母が気を利かせたのか、応接間には茶だけ置かれ、すぐ人払いされた。
二人きりになる。
静けさが急に濃くなる。
「領地では、ありがとうございました」
セドリックが言った。
「こちらこそ、とても良い時間でした」
「……そう言ってもらえると嬉しい」
レイナは目を瞬かせた。
この人は時々、さらりと困ることを言う。
「公爵様は」
思わず問い返す。
「そういう言葉を、よく無意識でおっしゃいますね」
「無意識ではありません」
即答だった。
レイナの呼吸が止まりそうになる。
「意識して言っています」
真顔でそんなことを言う人があるだろうか。
顔が熱い。
きっと耳まで赤い。
セドリックは少しだけ首を傾げた。
「……何か失礼でしたか」
「失礼では、ありません」
声が小さくなる。
「ただ、心臓に悪いだけです」
数秒の沈黙のあと、彼がふっと息を漏らした。
珍しく、はっきりした笑いだった。
その後、庭を少し歩いた。
春の終わりの花が揺れている。
並んで歩く距離は以前より近い。
肩が触れそうで触れない。
「あなたは最近、何か考え込んでいる顔をする」
不意にセドリックが言った。
「そうでしょうか」
「ええ。領地から戻ってから特に」
気づかれていた。
レイナは視線を落とす。
「……少し、自分でも分からないことがありまして」
半分は本当で、半分は嘘だ。
本当は分かっている。
分かっているから困っている。
「そういう時は、急いで答えを出さなくていい」
彼の声は穏やかだった。
「あなたは、急かされる環境に長くいたのでしょう」
胸が詰まる。
またこの人は、欲しかった言葉を自然にくれる。
「ゆっくりでいい」
その一言で、張っていたものが少しほどけた。
レイナは小さく頷く。
「……ありがとうございます」
好きだと伝える勇気は、まだない。
けれど、この人の前なら待ってもらえる。
そう思えた。
気づいている人は、案外すぐそばにいるのかもしれなかった。
領地での通り雨から戻って二日後、レイナは王都の自室で深いため息をついていた。
机の上には開いたままの本。
けれど文字は一行も頭へ入ってこない。
思い出すのは、東屋での雨音と、髪へ触れた指先ばかりだった。
「またですか」
侍女が呆れた声を出す。
「何がですか」
「本日三度目です」
「数えないでください」
「お嬢さまが恋煩いで日常生活を失っておられるので」
「失っていません」
即座に否定したが、説得力は薄い。
栞を逆さに挟み、本を閉じたまま読み続けていた自覚はある。
侯爵家へ戻ってからというもの、母も侍女もミレーユも、皆同じ顔をしていた。
――ようやく自覚したのね。
そう言いたげな、やさしくも面白がる顔だ。
だがレイナ本人にとっては笑い事ではない。
好きだと気づいてしまった今、以前のように平然と振る舞えなくなった。
手紙一つで胸が騒ぐ。
名前を聞くだけで顔が熱くなる。
次に会った時、まともに話せる気がしない。
「それで、次のお誘いはまだ?」
午後に訪ねてきたミレーユが、焼き菓子をつまみながら聞いた。
「まだです」
「残念」
「なぜあなたが残念がるの」
「観察対象が止まるから」
友人とは何なのだろう。
その時、侍女が慌てず騒がず入ってきた。
「お嬢さま、公爵様からお手紙です」
レイナは立ち上がりかけ、すぐ座り直した。
「……そんなに急いでいません」
「足が半歩出ていました」
ミレーユが笑う。
本当に腹立たしい。
封を切る手が少し震える。
――先日はお越しいただき感謝する。
――先日お貸ししたものがあります。
――ご都合が合えば、明日受け取りに伺いたい。
お貸しした物。
レイナは一瞬考え、すぐ気づいた。
東屋で借りたハンカチだ。
「まあ」
ミレーユが面白そうに身を乗り出す。
「口実が上手ね」
「違います。返し物です」
「返し物を理由に会いに来るのよ」
反論できなかった。
胸の鼓動だけがうるさい。
翌日、セドリックは午後の早い時間に訪れた。
侯爵家の応接間へ通される。
レイナは何度も深呼吸してから入室した。
それでも扉を開けた瞬間、彼の姿を見て心臓が跳ねる。
今日は淡い灰色の上着姿だった。
静かな色合いがよく似合う。
「お待たせしました」
「いえ」
彼が立ち上がる。
その動作一つで落ち着いた空気が広がるのだから不思議だ。
「先日はこれを」
差し出したのは、きれいに畳まれたハンカチだった。
洗い、香りまで整えた。
「……わざわざありがとうございます」
「こちらこそ、お借りして助かりました」
会話は普通だ。
とても普通だ。
なのに、東屋でのことを互いに思い出している気がして落ち着かない。
母が気を利かせたのか、応接間には茶だけ置かれ、すぐ人払いされた。
二人きりになる。
静けさが急に濃くなる。
「領地では、ありがとうございました」
セドリックが言った。
「こちらこそ、とても良い時間でした」
「……そう言ってもらえると嬉しい」
レイナは目を瞬かせた。
この人は時々、さらりと困ることを言う。
「公爵様は」
思わず問い返す。
「そういう言葉を、よく無意識でおっしゃいますね」
「無意識ではありません」
即答だった。
レイナの呼吸が止まりそうになる。
「意識して言っています」
真顔でそんなことを言う人があるだろうか。
顔が熱い。
きっと耳まで赤い。
セドリックは少しだけ首を傾げた。
「……何か失礼でしたか」
「失礼では、ありません」
声が小さくなる。
「ただ、心臓に悪いだけです」
数秒の沈黙のあと、彼がふっと息を漏らした。
珍しく、はっきりした笑いだった。
その後、庭を少し歩いた。
春の終わりの花が揺れている。
並んで歩く距離は以前より近い。
肩が触れそうで触れない。
「あなたは最近、何か考え込んでいる顔をする」
不意にセドリックが言った。
「そうでしょうか」
「ええ。領地から戻ってから特に」
気づかれていた。
レイナは視線を落とす。
「……少し、自分でも分からないことがありまして」
半分は本当で、半分は嘘だ。
本当は分かっている。
分かっているから困っている。
「そういう時は、急いで答えを出さなくていい」
彼の声は穏やかだった。
「あなたは、急かされる環境に長くいたのでしょう」
胸が詰まる。
またこの人は、欲しかった言葉を自然にくれる。
「ゆっくりでいい」
その一言で、張っていたものが少しほどけた。
レイナは小さく頷く。
「……ありがとうございます」
好きだと伝える勇気は、まだない。
けれど、この人の前なら待ってもらえる。
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気づいている人は、案外すぐそばにいるのかもしれなかった。
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