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第13話「慧介の実家」
第13話「慧介の実家」
慧介の実家は、電車で一時間ほどの距離にあった。
郊外の住宅街に建つ、築三十年の一戸建て。慧介が生まれ育った家だった。庭に柿の木が一本あって、毎年秋になると実をつける。子供の頃、その柿を食べるのが好きだった。
インターフォンを押すと、母が出た。
「慧介? どうしたの、急に」
「話がある。入っていいか」
母の顔が曇った。何かを察したのかもしれない。黙って扉を開けた。
居間に通された。父がテレビを見ていた。慧介の顔を見て、テレビを消した。
「座れ」
父が言った。慧介は座った。母がお茶を持ってきた。三人で、テーブルを囲んだ。
慧介は話した。
内容証明のこと。10億円のこと。連帯保証人のこと。弁護士に相談したこと。取り得る手段がほとんどないこと。
父は黙って聞いていた。母は途中から、手を口に当てていた。
慧介が話し終えると、しばらく沈黙が続いた。
「桐島か」
父が静かに言った。
「はい」
「桐島ホールディングスが、債権者か」
「そうです」
父がテーブルの上で手を組んだ。その手が、わずかに力んでいた。
「援助してほしい、ということか」
「できる範囲で、構いません。弁済期限まで、あと二十日を切っています」
父が黙った。
母が慧介を見た。目が赤くなっていた。
「慧介、あなた——」
「お母さん」
父が静かに制した。母が口を閉じた。
父はしばらく、テーブルの上の手を見ていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「慧介」
「はい」
「お前は、桐島グループとうちの会社の関係を知っているか」
慧介は黙った。
弁護士に言われた言葉が、頭の中で蘇った。桐島グループとの取引関係において、桐島側がある程度の影響力を持っています。
「知っています」
「ならわかるだろう」
「わかります。でも——」
「わかるなら」と父が静かに遮った。「俺が何を言おうとしているか、わかるはずだ」
慧介は父を見た。
父の顔は、厳しかった。しかしその目の奥に、別のものがあった。苦しさ、だろうか。息子に向けるべき感情を、抑えているような。
「うちが援助すれば、桐島との取引に影響が出る」
「ああ」
「それは——」
「うちの従業員が、三十人いる」
慧介は黙った。
「お前一人のために、三十人を巻き込むことはできない」
静かな言葉だった。怒鳴らなかった。責めなかった。ただ、事実を告げた。その静けさが、怒鳴られるよりも重かった。
「わかっています」
慧介は言った。
「わかっていて、来ました」
父が慧介を見た。
「藁をもすがる思いで、来ました」
父の目が、わずかに揺れた。
母が立ち上がった。台所へ消えた。しばらくして、泣き声が聞こえた。抑えようとして、抑えきれていない泣き声だった。
慧介は母の泣き声を聞きながら、テーブルの上のお茶を見ていた。湯気が、もう立っていなかった。
「奈々という女は」
父が言った。
「一緒に住んでいます」
「今も?」
「はい」
父が小さく息を吐いた。
「なぜだ」
「行く場所がないからだと思います。奈々には」
「お前は」
「俺も、わかりません」
正直な答えだった。なぜ奈々とまだ同じ家にいるのか、慧介自身にも説明できなかった。出て行けと言う気力がないのか。あるいは、一人になることへの怖さがあるのか。
「桐島澪は」
「離婚しました。他人です」
「そうか」
父がまた黙った。
台所の泣き声が、少し小さくなった。
「慧介」
「はい」
「俺にできることは、何もない」
慧介は頷いた。
「わかっています」
「すまない」
父が頭を下げた。
慧介は父が頭を下げるのを見た。生まれて初めて見る光景だった。父が息子に頭を下げる。その光景が、慧介には現実のものとは思えなかった。
「頭を上げてください」
慧介は静かに言った。
「父さんのせいじゃない」
「お前がこうなったのは——」
「俺が決めたことです。全部」
父が顔を上げた。その目が、赤くなっていた。
慧介は立ち上がった。
「帰ります」
「泊まっていけ」
「いいえ」
「夕飯くらい——」
「いいえ」
慧介は静かに、しかしはっきりと断った。これ以上ここにいたら、自分が崩れる気がした。父の顔を見ていたら、母の泣き声を聞いていたら、何かが壊れる気がした。
玄関で靴を履いた。父が後ろに立っていた。
「慧介」
振り返らなかった。
「何ですか」
「生きろよ」
慧介の手が、止まった。
生きろよ。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
父はそれだけ言った。それ以上は何も言わなかった。
慧介はドアを開けた。
冬の空気が、顔に当たった。庭の柿の木は、葉をすべて落としていた。実も、もうなかった。枯れ枝だけが、冬空に向かって伸びていた。
慧介は庭を横切り、門を出た。
振り返らなかった。
電車の時間まで、まだ少しあった。慧介は駅までの道を、ゆっくりと歩いた。
生きろよ。
父の声が、耳の奥に残っていた。
当たり前のことだ、と思った。生きるのは当たり前だ。しかし父がその言葉を選んだということは、父の目に自分がそう見えているということだった。
慧介は空を見上げた。
冬の空は高く、灰色だった。
弁済期限まで、あと十九日。
第13話 了
慧介の実家は、電車で一時間ほどの距離にあった。
郊外の住宅街に建つ、築三十年の一戸建て。慧介が生まれ育った家だった。庭に柿の木が一本あって、毎年秋になると実をつける。子供の頃、その柿を食べるのが好きだった。
インターフォンを押すと、母が出た。
「慧介? どうしたの、急に」
「話がある。入っていいか」
母の顔が曇った。何かを察したのかもしれない。黙って扉を開けた。
居間に通された。父がテレビを見ていた。慧介の顔を見て、テレビを消した。
「座れ」
父が言った。慧介は座った。母がお茶を持ってきた。三人で、テーブルを囲んだ。
慧介は話した。
内容証明のこと。10億円のこと。連帯保証人のこと。弁護士に相談したこと。取り得る手段がほとんどないこと。
父は黙って聞いていた。母は途中から、手を口に当てていた。
慧介が話し終えると、しばらく沈黙が続いた。
「桐島か」
父が静かに言った。
「はい」
「桐島ホールディングスが、債権者か」
「そうです」
父がテーブルの上で手を組んだ。その手が、わずかに力んでいた。
「援助してほしい、ということか」
「できる範囲で、構いません。弁済期限まで、あと二十日を切っています」
父が黙った。
母が慧介を見た。目が赤くなっていた。
「慧介、あなた——」
「お母さん」
父が静かに制した。母が口を閉じた。
父はしばらく、テーブルの上の手を見ていた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「慧介」
「はい」
「お前は、桐島グループとうちの会社の関係を知っているか」
慧介は黙った。
弁護士に言われた言葉が、頭の中で蘇った。桐島グループとの取引関係において、桐島側がある程度の影響力を持っています。
「知っています」
「ならわかるだろう」
「わかります。でも——」
「わかるなら」と父が静かに遮った。「俺が何を言おうとしているか、わかるはずだ」
慧介は父を見た。
父の顔は、厳しかった。しかしその目の奥に、別のものがあった。苦しさ、だろうか。息子に向けるべき感情を、抑えているような。
「うちが援助すれば、桐島との取引に影響が出る」
「ああ」
「それは——」
「うちの従業員が、三十人いる」
慧介は黙った。
「お前一人のために、三十人を巻き込むことはできない」
静かな言葉だった。怒鳴らなかった。責めなかった。ただ、事実を告げた。その静けさが、怒鳴られるよりも重かった。
「わかっています」
慧介は言った。
「わかっていて、来ました」
父が慧介を見た。
「藁をもすがる思いで、来ました」
父の目が、わずかに揺れた。
母が立ち上がった。台所へ消えた。しばらくして、泣き声が聞こえた。抑えようとして、抑えきれていない泣き声だった。
慧介は母の泣き声を聞きながら、テーブルの上のお茶を見ていた。湯気が、もう立っていなかった。
「奈々という女は」
父が言った。
「一緒に住んでいます」
「今も?」
「はい」
父が小さく息を吐いた。
「なぜだ」
「行く場所がないからだと思います。奈々には」
「お前は」
「俺も、わかりません」
正直な答えだった。なぜ奈々とまだ同じ家にいるのか、慧介自身にも説明できなかった。出て行けと言う気力がないのか。あるいは、一人になることへの怖さがあるのか。
「桐島澪は」
「離婚しました。他人です」
「そうか」
父がまた黙った。
台所の泣き声が、少し小さくなった。
「慧介」
「はい」
「俺にできることは、何もない」
慧介は頷いた。
「わかっています」
「すまない」
父が頭を下げた。
慧介は父が頭を下げるのを見た。生まれて初めて見る光景だった。父が息子に頭を下げる。その光景が、慧介には現実のものとは思えなかった。
「頭を上げてください」
慧介は静かに言った。
「父さんのせいじゃない」
「お前がこうなったのは——」
「俺が決めたことです。全部」
父が顔を上げた。その目が、赤くなっていた。
慧介は立ち上がった。
「帰ります」
「泊まっていけ」
「いいえ」
「夕飯くらい——」
「いいえ」
慧介は静かに、しかしはっきりと断った。これ以上ここにいたら、自分が崩れる気がした。父の顔を見ていたら、母の泣き声を聞いていたら、何かが壊れる気がした。
玄関で靴を履いた。父が後ろに立っていた。
「慧介」
振り返らなかった。
「何ですか」
「生きろよ」
慧介の手が、止まった。
生きろよ。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
父はそれだけ言った。それ以上は何も言わなかった。
慧介はドアを開けた。
冬の空気が、顔に当たった。庭の柿の木は、葉をすべて落としていた。実も、もうなかった。枯れ枝だけが、冬空に向かって伸びていた。
慧介は庭を横切り、門を出た。
振り返らなかった。
電車の時間まで、まだ少しあった。慧介は駅までの道を、ゆっくりと歩いた。
生きろよ。
父の声が、耳の奥に残っていた。
当たり前のことだ、と思った。生きるのは当たり前だ。しかし父がその言葉を選んだということは、父の目に自分がそう見えているということだった。
慧介は空を見上げた。
冬の空は高く、灰色だった。
弁済期限まで、あと十九日。
第13話 了
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