「侯爵夫人を5年演じた私が離縁を決めたら、今さら愛していると言わないでください」

まさき

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第三十九話 本当のことだけ【ソフィア視点】

第三十九話 本当のことだけ【ソフィア視点】
 
 翌朝、セイルは約束通り来た。
 
 今日は昨日より少し遅い時刻だった。マリアが通して、お茶を出した。食卓に向かい合って座る、いつもの形だった。でも今日は、最初から空気が少し違った。
 
 昨日、言いすぎたかもしれない、とソフィアは朝から思っていた。
 
 あの朝、嬉しかった。顔に出すことが怖かった。そういうことを、言うつもりはなかった。でも、口から出た。言ってしまってから、夜中に少し後悔した。
 
 後悔というより——恥ずかしかった。
 
 三十七話目の自分が、少し気恥ずかしかった。そういう正直さを、自分はまだ上手く扱えない。
 
「昨日は、言いすぎたかもしれない」
 
 ソフィアが先に言った。
 
 セイルが少し眉を上げた。
 
「言いすぎた、というのは」
 
「あの朝、嬉しかったという話です。言うつもりはなかった。あなたが本当のことを言ったから、つられて言ってしまった」
 
「後悔しているのか」
 
 ソフィアは少し考えた。
 
「後悔、とは少し違います。ただ……慣れていなくて」
 
「何に」
 
「本当のことを言うことに」
 
 セイルは黙った。
 
「五年間、本当のことを言わないことで立っていたから。こちらに来てから、少しずつ練習しているのだけれど、まだ上手くできない」
 
 練習、という言葉が出て、自分でも少し可笑しくなった。本当のことを言うのに、練習が要るとは。でも、そうとしか言いようがなかった。
 
 セイルが、珍しく少し口の端を上げた。笑った、というより、笑いに近い何かだった。
 
「俺も同じだ」
 
「え?」
 
「本当のことを言うことが、ひどく苦手だった。昨日、言うつもりのないことを言った。言ってしまってから、夜中に何度も思い返した」
 
「後悔しましたか」
 
「していない。ただ、慣れていなかった」
 
 同じ言葉が返ってきた。ソフィアは少し驚いてから、小さく笑った。
 
 セイルも、少し笑った。
 
 二人が同時に笑ったのは、これが初めてだった。五年間で一度もなかったことが、今日起きた。それが可笑しくて、少し悲しくて、でも悪くなかった。
 
 
 お茶を一口飲んでから、ソフィアは続けた。
 
「一つ、話したいことがあります」
 
「聞かせてくれ」
 
「レイナ様のことを、知りました。王都での話を」
 
 セイルの表情が、少し引き締まった。
 
「エミリアの知り合いから手紙が来て。社交界での振る舞いのことを」
 
「……そうか」
 
「怒っているかと聞かれれば、怒っています。あなたがあの方に流れたことも、計算の上で動いていたあの方のことも」
 
 セイルは黙って聞いていた。
 
「でも、それより先に言いたいことがある」
 
「何だ」
 
 ソフィアは少し息を吸った。
 
「あの五年間は、私のせいではなかった」
 
 静かな言葉だった。でも、言い終えた瞬間、胸の中で何かが緩んだ。
 
「私が完璧すぎたから、とずっと思っていました。私が踏み込まなかったから。私がもっと上手くやれば、違ったのではないかと。でも……それは違った」
 
「……そうだ。俺が間違えた」
 
「ええ。あなたが間違えた。でも、私はそれを誰かに言ったことがなかった。自分の中でも、認めることができなかった。だから今日、あなたに言いたかった」
 
 セイルは、まっすぐにソフィアを見ていた。
 
「あの五年間、私が悪かったわけではない。それは本当のことだと思う。本当のことだから、あなたに言っておきたかった」
 
「……聞いた」
 
「それだけでいいです」
 
 短い言葉だったが、十分だった。セイルが、ちゃんと受け取ったことが分かった。
 
 
 しばらく、二人は黙っていた。
 
 悪い沈黙ではなかった。何かを消化している、静かな時間だった。
 
 ソフィアは窓の外を見た。今日は晴れていた。春の光が、石畳を白く照らしていた。
 
「マリアが言っていました」
 
 ソフィアが、窓を見たまま言った。
 
「私が何と言っていた」
 
「正しい答えではなく、本当のことを選んでいると。それが今までと違うと」
 
 セイルは黙って聞いていた。
 
「こちらに来てから、そういうことが少しずつできるようになった気がします。正しい侯爵夫人の答えではなく、ソフィアという人間の本当のことを」
 
「……俺に対しても?」
 
「ええ。あなたに対しても」
 
 ソフィアは窓から視線を戻して、セイルを見た。
 
「だから今日も、本当のことだけを言いました。怒っているということも、私のせいではなかったということも。慣れていないということも」
 
「分かった」
 
「一つだけ、聞いていいですか」
 
「どうぞ」
 
「あなたは今日、本当のことだけを言いましたか」
 
 セイルは少しの間、黙った。それから、真っ直ぐに答えた。
 
「言った」
 
「昨日も?」
 
「昨日も」
 
 ソフィアは頷いた。
 
 もう一度、あなたの夫になりたい。
 
 あの言葉が、本当のことだということを、今日確かめた。確かめる必要があったから、聞いた。
 
 確かめられた。
 
 それで今日は十分だった。
 
「今日は、ありがとうございました」
 
 ソフィアが言うと、セイルは少し首を傾けた。
 
「礼を言われることをしたか?」
 
「本当のことを聞いてくれたから」
 
 セイルは何も言わなかった。でも、その目が少し柔らかくなった。
 
 春の光が、食卓を斜めに照らしていた。お茶はまた冷めていた。でも、今日も誰も気にしなかった。
 
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