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第9話:偽りの家族、永遠の契約
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佐々木結衣は、その後すぐに学校から姿を消した。
表向きの理由は「体調不良による転校」とされたが、彼女が壊したタブレットの中身がどうなったのか、他にバックアップがあったのかを知る者はいない。ただ、掲示板の書き込みも、ストーカーからのメッセージも、あの日を境にピタリと止まった。
世界は、驚くほど簡単に「元通り」のフリを始めた。
「ほら、悠真。ぼーっとしてないで、もっと食べなさい。凛さんも、最近少し痩せたんじゃない?」
日曜日の昼下がり。陽光が穏やかに差し込むダイニングルームで、父さんが能天気に声を上げる。
冴子さんも「そうね、今夜は凛さんの好きなグラタンにしましょうか」と、幸せそうに微笑んでいる。
あの日、屋上で崩壊しかけた「家族」という虚構は、今や以前よりも強固なものとして再構築されていた。
「……ありがとうございます、お父さん。お兄さんが、勉強を教えてくれるって言ってから、つい夜更かししちゃって」
凛は、フォークを口に運びながら、完璧な「妹」の顔で微笑んだ。
その声、その仕草、その表情。
あの日、一時間一万円で売っていた「嘘」は、今やこの家で二十四時間、無償で提供されている。
(……いや、「無償」じゃないな)
俺は視線を下げ、コーヒーを啜った。
テーブルの下。
凛の素足が、俺のスラックスの裾を器用に捲り上げ、生身の肌をゆっくりと撫で回している。
親たちが目の前にいるという極限の状況。そのスリルが、彼女にとっては最高の報酬なのだ。
俺がわずかに身悶えすると、凛は楽しそうに目を細め、わざとらしく小首を傾げた。
「どうしたんですか、お兄さん? どこか、痒いところでもありますか?」
「……いや。なんでもない」
俺の声が少し震える。
彼女はもう、怯えていた少女ではない。
ストーカーという外敵を排除し、俺という「絶対的な共犯者」を手に入れた彼女は、この家という名の密室を支配する女王へと変貌していた。
午後。
俺が自分の部屋で大学の課題に向き合っていると、ノックの音とともに、甘い香りが部屋に流れ込んできた。
「お兄さん、お茶持ってきましたよ」
入ってきた凛は、トレイを机に置くと、すぐにドアの鍵を音もなく閉めた。
「……凛。まだ昼間だぞ。親父たちがリビングに……」
「いいじゃない。二人は今、買い物に出かけたわ。……一時間は戻ってこない」
凛はエプロンを脱ぎ捨て、俺の椅子の背もたれに腕を回した。
昼間の陽光を背負った彼女の体は、透き通るように白く、そして毒々しいほどに美しい。
「……ねえ、悠真。あの時の動画、本当に結衣が消したと思う?」
彼女の問いに、俺の背筋が冷たくなる。
「……さあな。だが、もし残っていたとしても、俺たちの関係はもう変わらないだろ」
「ふふ、そうね。……もし世界中にあの動画が晒されて、お父さんたちにすべてがバレたとしても……あんたは私を捨てることはできない。……そうでしょ?」
凛は俺の膝の上に、当然のように腰を下ろした。
――まただ。
脳を灼くような、彼女の香り。
あの日、駅前で「レンタル」した時には知らなかった、汗と、熱と、執着が混ざり合った、この家でしか嗅ぐことのできない「本当の凛」の匂い。
「……ああ。俺は、もう壊れているんだ。……お前に、壊された」
「壊したのはあんたよ。……私の心の中に、こんな消えない火をつけたのは、あんたのせいなんだから」
凛は俺の首筋に顔を埋め、深く、深く呼吸をした。
俺たちは、もはや「救われること」を望んでいなかった。
この歪な幸福が、いつか地獄へと繋がっていることを知りながら、互いの体温を唯一の真実として刻み続けていた。
陽が傾き、部屋にオレンジ色の影が長く伸びる。
膝の上に座る凛の重みは、もはや日常の一部となって俺の体に馴染んでいた。彼女の指先が、俺の首筋に残された、昨夜の愛撫の名残を慈しむようになぞる。
「……ねえ、悠真。最近、お母さんが言ってたわ。『二人を見てると、本当の兄妹みたいで安心する』って」
凛は俺の耳元で、くすりと毒を含んだ笑い声を漏らした。
その言葉が、どれほど残酷で、どれほど俺たちの背徳感を煽るかを知り尽くしている笑い方だ。
「……皮肉なもんだな。俺たちがこうして一線を越えれば越えるほど、表向きの『兄妹』としての絆は深く、完璧に見えるようになるなんて」
俺は彼女の細い腰を抱き寄せ、その柔らかな肌に顔を埋めた。
――匂う。
かつての彼女が纏っていた「レンタル彼女」の、どこか他人行儀で清潔な石鹸の香りではない。
今の彼女から漂うのは、俺の部屋の柔軟剤と、俺の体温と、そして彼女自身の生々しい情熱が溶け合った、この世界に二人しか存在しないことを証明する「共犯者の香り」だ。
「いいじゃない。……世界中を騙し通して、死ぬまでこの家で、お父さんたちの前で『理想の子供』を演じ続けましょうよ。……深夜になったら、こうして鍵をかけて、本当の姿に戻ればいいだけの話だわ」
凛は俺のシャツを掴み、自分の方へと引き寄せる。
その瞳には、かつての「冷めた視線」など微塵もない。そこにあるのは、俺という存在を自分の人生から決して逃がさないという、底なしの執着だ。
「……凛、お前はそれでいいのか。……本当なら、もっと普通の恋をして、誰に恥じることもない道を歩けたはずなのに」
「普通? ……そんなの、一時間一万円で売っていた時から、私には無縁のものだったわ。……私を『商品』じゃなくて、一人の『女』として壊してくれたのは、あんただけよ、悠真」
彼女の唇が、俺の唇に重なる。
それは誓いの口付けなどではない。互いの魂に消えない呪いを刻み込むような、深くて暗い沈殿だ。
一時間後。
玄関が開く音がし、父さんと冴子さんの「ただいま」という明るい声が家に響き渡った。
その瞬間、凛は俺の膝から飛び降りると、手早くエプロンを締め、乱れた髪を整えた。
わずか数秒。
目の前にいるのは、今しがたまで俺の腕の中で喘いでいた女ではなく、慎ましやかで健気な「義妹」だった。
「お帰りなさい、お母さん! 荷物、持ちますね」
パタパタと階段を降りていく彼女の背中を見送りながら、俺は大きく息を吐き出した。
肺の中に残る彼女の香りを、少しでも長く繋ぎ止めておきたかった。
夕食の席。
俺たちは再び、完璧な「四人家族」を演じる。
父さんが仕事の愚痴をこぼし、冴子さんがそれを笑って受け流す。
凛は「お兄さん、このおかず美味しいですよ」と微笑み、俺は「ああ、そうだな」と短く答える。
この欺瞞に満ちた平穏が、心地よくてたまらない。
テーブルの下。
凛の足先が、俺のふくらはぎを強く、噛み付くように圧迫した。
その痛みこそが、俺がこの家で生きている唯一の証明だった。
(……これでいい)
たとえこの幸せが、薄氷の上に築かれたものであったとしても。
いつかすべてが暴かれ、家族という形が砕け散る日が来たとしても。
その時、俺の隣には間違いなく、この香りを纏った彼女がいる。
俺は、彼女が差し出した皿を、恭しく受け取った。
それは、生涯解けることのない「永遠のレンタル契約」の更新だった。
表向きの理由は「体調不良による転校」とされたが、彼女が壊したタブレットの中身がどうなったのか、他にバックアップがあったのかを知る者はいない。ただ、掲示板の書き込みも、ストーカーからのメッセージも、あの日を境にピタリと止まった。
世界は、驚くほど簡単に「元通り」のフリを始めた。
「ほら、悠真。ぼーっとしてないで、もっと食べなさい。凛さんも、最近少し痩せたんじゃない?」
日曜日の昼下がり。陽光が穏やかに差し込むダイニングルームで、父さんが能天気に声を上げる。
冴子さんも「そうね、今夜は凛さんの好きなグラタンにしましょうか」と、幸せそうに微笑んでいる。
あの日、屋上で崩壊しかけた「家族」という虚構は、今や以前よりも強固なものとして再構築されていた。
「……ありがとうございます、お父さん。お兄さんが、勉強を教えてくれるって言ってから、つい夜更かししちゃって」
凛は、フォークを口に運びながら、完璧な「妹」の顔で微笑んだ。
その声、その仕草、その表情。
あの日、一時間一万円で売っていた「嘘」は、今やこの家で二十四時間、無償で提供されている。
(……いや、「無償」じゃないな)
俺は視線を下げ、コーヒーを啜った。
テーブルの下。
凛の素足が、俺のスラックスの裾を器用に捲り上げ、生身の肌をゆっくりと撫で回している。
親たちが目の前にいるという極限の状況。そのスリルが、彼女にとっては最高の報酬なのだ。
俺がわずかに身悶えすると、凛は楽しそうに目を細め、わざとらしく小首を傾げた。
「どうしたんですか、お兄さん? どこか、痒いところでもありますか?」
「……いや。なんでもない」
俺の声が少し震える。
彼女はもう、怯えていた少女ではない。
ストーカーという外敵を排除し、俺という「絶対的な共犯者」を手に入れた彼女は、この家という名の密室を支配する女王へと変貌していた。
午後。
俺が自分の部屋で大学の課題に向き合っていると、ノックの音とともに、甘い香りが部屋に流れ込んできた。
「お兄さん、お茶持ってきましたよ」
入ってきた凛は、トレイを机に置くと、すぐにドアの鍵を音もなく閉めた。
「……凛。まだ昼間だぞ。親父たちがリビングに……」
「いいじゃない。二人は今、買い物に出かけたわ。……一時間は戻ってこない」
凛はエプロンを脱ぎ捨て、俺の椅子の背もたれに腕を回した。
昼間の陽光を背負った彼女の体は、透き通るように白く、そして毒々しいほどに美しい。
「……ねえ、悠真。あの時の動画、本当に結衣が消したと思う?」
彼女の問いに、俺の背筋が冷たくなる。
「……さあな。だが、もし残っていたとしても、俺たちの関係はもう変わらないだろ」
「ふふ、そうね。……もし世界中にあの動画が晒されて、お父さんたちにすべてがバレたとしても……あんたは私を捨てることはできない。……そうでしょ?」
凛は俺の膝の上に、当然のように腰を下ろした。
――まただ。
脳を灼くような、彼女の香り。
あの日、駅前で「レンタル」した時には知らなかった、汗と、熱と、執着が混ざり合った、この家でしか嗅ぐことのできない「本当の凛」の匂い。
「……ああ。俺は、もう壊れているんだ。……お前に、壊された」
「壊したのはあんたよ。……私の心の中に、こんな消えない火をつけたのは、あんたのせいなんだから」
凛は俺の首筋に顔を埋め、深く、深く呼吸をした。
俺たちは、もはや「救われること」を望んでいなかった。
この歪な幸福が、いつか地獄へと繋がっていることを知りながら、互いの体温を唯一の真実として刻み続けていた。
陽が傾き、部屋にオレンジ色の影が長く伸びる。
膝の上に座る凛の重みは、もはや日常の一部となって俺の体に馴染んでいた。彼女の指先が、俺の首筋に残された、昨夜の愛撫の名残を慈しむようになぞる。
「……ねえ、悠真。最近、お母さんが言ってたわ。『二人を見てると、本当の兄妹みたいで安心する』って」
凛は俺の耳元で、くすりと毒を含んだ笑い声を漏らした。
その言葉が、どれほど残酷で、どれほど俺たちの背徳感を煽るかを知り尽くしている笑い方だ。
「……皮肉なもんだな。俺たちがこうして一線を越えれば越えるほど、表向きの『兄妹』としての絆は深く、完璧に見えるようになるなんて」
俺は彼女の細い腰を抱き寄せ、その柔らかな肌に顔を埋めた。
――匂う。
かつての彼女が纏っていた「レンタル彼女」の、どこか他人行儀で清潔な石鹸の香りではない。
今の彼女から漂うのは、俺の部屋の柔軟剤と、俺の体温と、そして彼女自身の生々しい情熱が溶け合った、この世界に二人しか存在しないことを証明する「共犯者の香り」だ。
「いいじゃない。……世界中を騙し通して、死ぬまでこの家で、お父さんたちの前で『理想の子供』を演じ続けましょうよ。……深夜になったら、こうして鍵をかけて、本当の姿に戻ればいいだけの話だわ」
凛は俺のシャツを掴み、自分の方へと引き寄せる。
その瞳には、かつての「冷めた視線」など微塵もない。そこにあるのは、俺という存在を自分の人生から決して逃がさないという、底なしの執着だ。
「……凛、お前はそれでいいのか。……本当なら、もっと普通の恋をして、誰に恥じることもない道を歩けたはずなのに」
「普通? ……そんなの、一時間一万円で売っていた時から、私には無縁のものだったわ。……私を『商品』じゃなくて、一人の『女』として壊してくれたのは、あんただけよ、悠真」
彼女の唇が、俺の唇に重なる。
それは誓いの口付けなどではない。互いの魂に消えない呪いを刻み込むような、深くて暗い沈殿だ。
一時間後。
玄関が開く音がし、父さんと冴子さんの「ただいま」という明るい声が家に響き渡った。
その瞬間、凛は俺の膝から飛び降りると、手早くエプロンを締め、乱れた髪を整えた。
わずか数秒。
目の前にいるのは、今しがたまで俺の腕の中で喘いでいた女ではなく、慎ましやかで健気な「義妹」だった。
「お帰りなさい、お母さん! 荷物、持ちますね」
パタパタと階段を降りていく彼女の背中を見送りながら、俺は大きく息を吐き出した。
肺の中に残る彼女の香りを、少しでも長く繋ぎ止めておきたかった。
夕食の席。
俺たちは再び、完璧な「四人家族」を演じる。
父さんが仕事の愚痴をこぼし、冴子さんがそれを笑って受け流す。
凛は「お兄さん、このおかず美味しいですよ」と微笑み、俺は「ああ、そうだな」と短く答える。
この欺瞞に満ちた平穏が、心地よくてたまらない。
テーブルの下。
凛の足先が、俺のふくらはぎを強く、噛み付くように圧迫した。
その痛みこそが、俺がこの家で生きている唯一の証明だった。
(……これでいい)
たとえこの幸せが、薄氷の上に築かれたものであったとしても。
いつかすべてが暴かれ、家族という形が砕け散る日が来たとしても。
その時、俺の隣には間違いなく、この香りを纏った彼女がいる。
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