「今更、あなたの娘のふりなどできません」〜ずっと支えていた手を、そっと引っ込めただけです〜

まさき

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第二十六話「自分たちで、生きていく」

第二十六話「自分たちで、生きていく」
 
 
 春が来た。
 
 
 リーナが屋敷を出てから、半年が経っていた。
 
 
 街の市場に花が並び始めて、川沿いの木が芽吹いて、朝の空気が少しずつ柔らかくなっていた。リーナはその変化を、毎朝ギルドへ向かう道で感じていた。
 
 
 今日も、いい朝だ、と思った。
 
 
  ◇
 
 
 ヴェルナー家のことは、街の噂で少しずつ聞こえてきた。
 
 
 ミナが市場で耳にしたことを、特に気を遣わずに話してくれた。
 
 
「なんか、あの大きな屋敷、最近人の出入りが減ったって話を聞いたよ」
 
 
「そうですか」
 
 
「取引先との関係がうまくいってないとか、旦那様の体調が優れないとか。使用人も何人か辞めたって」
 
 
「そうですか」
 
 
 リーナは薬草の仕分けをしながら、静かに聞いていた。
 
 
 かわいそう、とは思わなかった。
 でも、ざまぁ、とも思わなかった。
 
 
 ただ——そういうことになった、と思った。
 あの屋敷が積み重ねてきたことの、結果だ。
 
 
  ◇
 
 
 その夜、ヘルタは屋敷の自室で、窓の外を見ていた。
 
 
 庭のローズマリーが、今年の春になっても、まだ元気がない。水をやっても、日当たりを調整しても、あの頃のような青々とした色には戻らなかった。
 
 
 使用人が三人辞めた。
 理由はそれぞれだったが、ヘルタにはわかっていた。屋敷の空気が変わったからだ。明るさが、なくなった。
 
 
 アルベルトは体調が悪い日が続いていて、大事な取引の席を何度か欠席した。ソフィアが代わりに出ることもあったが、うまくいかないことが増えた。
 
 
 カトリナの縁談は、一件流れた。
 
 
 マリアは最近、部屋で過ごすことが多い。
 
 
 誰も悪い人間ではなかった、とヘルタは思う。ただ——あの子のことを、大切にしなかった。それだけのことが、こんなにも長く尾を引いている。
 
 
 でも、リーナさんは元気でいる。
 それだけは、わかっている。
 
 
 それで——いい、とヘルタは思った。
 
 
  ◇
 
 
 ある日の昼過ぎ、カトリナが街に出た。
 
 
 久しぶりに、ひとりで。
 
 
 体調は少し戻っていた。完全ではないが、外を歩けるくらいには。
 
 
 市場を通りながら、ふと薬師ギルドの方角に目が向いた。
 
 
 行こう、とは思わなかった。
 もう会いに行く理由がない。断られた。それは終わった話だ。
 
 
 でも——あの方角に、リーナがいる。
 今日もあそこで、仕事をしているのだろう。
 
 
 カトリナは少しの間、その方角を見ていた。
 それから、視線を戻して、市場の中に入った。
 
 
 自分のことを、自分でやっていかなければならない。
 リーナに頼ることも、リーナを頼ることも、もうない。
 
 
 それが——少し寂しくて、でも、正しいことだと思った。
 
 
  ◇
 
 
 マリアは、その日、部屋でドレスの裾を縫っていた。
 
 
 針と糸。
 あの日、リーナの物置部屋で借りたものと、同じものだ。
 
 
 縫いながら、思い出した。
 あの日、借りて、ありがとうも言わなかった。
 リーナは何も言わなかった。ただ「ありますよ」と言って差し出した。
 
 
 うまく縫えた、と嬉しくて——でも誰にも言えなかった。
 
 
 今日の縫い目は、きれいだ。
 誰かに見せる相手は——今日もいないけれど。
 
 
 マリアは縫い終えたドレスの裾を見て、静かに思った。
 
 
 幸せにね、と言った。
 リーナに。
 
 
 あの言葉は——本当に思ったから言った。
 今も思っている。
 
 
 そしてこれからは——自分も、自分なりに、やっていくしかない。
 
 
  ◇
 
 
 一方、ギルドでは。
 
 
 リーナは午後の調合を終えて、作業場を片付けていた。
 
 
 フェルクが入ってきた。
 
 
「今日の調合、確認しました」
 
 
「はい」
 
 
「問題ない。というより——先週より精度が上がっています」
 
 
「そうですか」
 
 
「静寂の手の力が、少し段階を上がったかもしれません」
 
 
 リーナは手のひらを見た。
 温かい。今日は少し、いつもより強い気がする。
 
 
「そうかもしれません」
 
 
「気づいていましたか」
 
 
「なんとなく。最近、薬草が手に馴染む感じがあって」
 
 
「そうです。自然に次の段階に入りつつあります」
 
 
 フェルクは棚の薬草を確認しながら言った。
 
 
「焦る必要はありません。あなたのペースで、自然に」
 
 
「はい」
 
 
 フェルクが作業場を出ていった。
 
 
 リーナはしばらく、手のひらを見ていた。
 
 
 段階が上がっている。
 父が言っていた「守る手」が、少しずつ大きくなっている。
 
 
 屋敷にいた頃は、この力がただの謎だった。不思議で、でも誰にも気づかれない何かだった。
 
 
 今は——ちゃんと使えている。誰かの薬に、誰かの体に、静かに届いている。
 
 
  ◇
 
 
 夕方、ミナと並んでギルドを出た。
 
 
 春の夕陽が、街をオレンジ色に染めていた。
 
 
「今日もお疲れ様」
 
 
「お疲れ様でした」
 
 
「レナさん、最近ますます顔色いいよ」
 
 
「そうですか」
 
 
「うん。来た頃と全然違う。来た頃もちゃんとしてたけど、今はなんか——もっと、ここにいる感じがする」
 
 
 リーナは少し考えた。
 
 
「ここが、自分の場所だと思えるようになったからかもしれません」
 
 
「ここが自分の場所、か。いいね、その言い方」
 
 
 ミナが笑った。リーナも笑った。
 
 
 二人で並んで、夕陽の中を歩いた。
 
 
 屋敷のことは、終わった。
 あの人たちはあの人たちで、これから自分たちの生き方を見つけていくだろう。
 
 
 リーナには——もうここがある。
 
 
 手のひらが、温かい。
 春の風が、頬に触れた。
 
 
 今日も、いい一日だった。
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