4 / 35
第1部「名前を呼ばれなかった妻」
第四話「花束の差出人」
第四話「花束の差出人」
午後になって、ようやくアメリアは父の書斎へ向かった。
扉をノックすると、「入りなさい」という低い声が返ってきた。書斎に入ると、父・ヴァルロワ公爵が机の前に座っていた。向かいの椅子にはエドワードもいた。ふたりとも、難しい顔をしていた。
「座りなさい」
父が言った。アメリアは素直に椅子に腰を下ろした。
しばらく、誰も口を開かなかった。父は机の上で手を組み、エドワードは腕を組んで窓の外を見ていた。重い沈黙だったが、アメリアは急かさなかった。父がこういう顔をするときは、言葉を選んでいるときだと知っていたから。
「離縁状は、モンテ侯爵が今朝受け取ったそうだ」
父が口を開いた。
「存じております」
「使者が来た。侯爵は……困惑しているようだった」
困惑。アメリアは内心で小さく息を吐いた。怒りでも悲しみでもなく、困惑。それがベルナールらしかった。妻がいなくなって、感情より先に状況把握が来る人だった。
「お父様、離縁の手続きを進めてください。私の意思は変わりません」
「わかっている」
父はそう言って、一度目を閉じた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「お前が辛い思いをしていたのに、気づいてやれなかった。すまなかった、アメリア」
アメリアは少し驚いた。父が謝るのは、珍しいことだった。
「いいえ。私が言わなかっただけです」
「言えない環境を作ったのは親の責任だ」
父の声は静かだったが、その奥に深い後悔が滲んでいた。アメリアは何も言えなくて、ただ小さく首を振った。
「——それで」
エドワードが口を開いた。窓の外から視線を戻して、アメリアを真っ直ぐに見る。
「クロード殿下からの花束は、どうするつもりだ」
アメリアは少し間を置いた。
「……まだ、わかりません」
「会うつもりはあるか」
「お兄様」
「聞いているんだ」
エドワードの声は強引ではなかった。ただ、真剣だった。アメリアは視線を膝の上に落として、ゆっくりと考えた。
会いたいか、と問われれば——正直なところ、わからなかった。
クロードのことは、嫌いではない。幼い頃から知っている、信頼できる人だ。五年ぶりに届いた手紙が、どれほど胸に沁みたかも知っている。
でも今の自分は、誰かに寄りかかれる状態ではなかった。五年間演じ続けた侯爵夫人の仮面を脱いだばかりで、その下にある本当の自分が、まだよく見えていない。そんな状態で、王太子殿下と向き合えるとは思えなかった。
「会うことは……できると思います。でも今すぐは」
「そうか」
エドワードはそれだけ言って、また黙った。父も何も言わなかった。ふたりとも、アメリアの答えを急かさなかった。
その沈黙が、ありがたかった。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
アメリアは顔を上げた。父を見る。
「クロード殿下が、私が実家に戻ったことをなぜご存知だったのでしょう。花束が届いたのは翌朝でした。あまりに早すぎて」
父とエドワードが、一瞬だけ視線を交わした。
「……それは」
父が口を開きかけて、止まった。代わりにエドワードが、少し言いにくそうに続けた。
「殿下は、ずっとお前のことを気にかけておられた。モンテ侯爵家の様子を、定期的に確認されていたらしい」
「定期的に……」
「俺も最近知ったんだが。殿下の側近から、父上に話があったそうだ。お前が屋敷を出たその日のうちに、知らせが届いていたと」
アメリアはしばらく、それを飲み込めなかった。
五年間。クロードは一度も会いに来なかった。手紙も寄越さなかった。てっきり、お互いに割り切って、それぞれの道を歩んでいるのだと思っていた。
それなのに。
ずっと、見ていたのか。
「……知りませんでした」
アメリアの声が、わずかに揺れた。
「殿下なりの、けじめだったんだろう」
エドワードが静かに言った。
「既婚者に手を出すことも、お前の結婚に口を挟むことも、王太子という立場上できなかった。だから距離を置きながら、見守っていた。——そういうことだと思う」
アメリアは窓の外に目を向けた。
夕暮れが近づいていた。空が、少しずつ橙色に染まっていく。
五年間。自分が見えない場所で、クロードも何かを抱えていたのだろうか。会いに来られないまま、ただ遠くから気にかけていたのだろうか。
待っていました、アメリア。
あの一行の意味が、少しだけ変わって見えた気がした。
「返事は、自分で考えます」
アメリアは父に向かって、静かに言った。
「急がなくていい」
「はい」
「ただ——」
父が珍しく、言葉を詰まらせた。それからゆっくりと続けた。
「今度は、自分のために選びなさい。家のためでも、誰かのためでもなく」
アメリアは、しばらくその言葉を胸の中で転がした。
自分のために。
五年間、考えたことのなかった言葉だった。
「……はい、お父様」
今度こそ、ちゃんと笑えた気がした。
第四話 了
午後になって、ようやくアメリアは父の書斎へ向かった。
扉をノックすると、「入りなさい」という低い声が返ってきた。書斎に入ると、父・ヴァルロワ公爵が机の前に座っていた。向かいの椅子にはエドワードもいた。ふたりとも、難しい顔をしていた。
「座りなさい」
父が言った。アメリアは素直に椅子に腰を下ろした。
しばらく、誰も口を開かなかった。父は机の上で手を組み、エドワードは腕を組んで窓の外を見ていた。重い沈黙だったが、アメリアは急かさなかった。父がこういう顔をするときは、言葉を選んでいるときだと知っていたから。
「離縁状は、モンテ侯爵が今朝受け取ったそうだ」
父が口を開いた。
「存じております」
「使者が来た。侯爵は……困惑しているようだった」
困惑。アメリアは内心で小さく息を吐いた。怒りでも悲しみでもなく、困惑。それがベルナールらしかった。妻がいなくなって、感情より先に状況把握が来る人だった。
「お父様、離縁の手続きを進めてください。私の意思は変わりません」
「わかっている」
父はそう言って、一度目を閉じた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「お前が辛い思いをしていたのに、気づいてやれなかった。すまなかった、アメリア」
アメリアは少し驚いた。父が謝るのは、珍しいことだった。
「いいえ。私が言わなかっただけです」
「言えない環境を作ったのは親の責任だ」
父の声は静かだったが、その奥に深い後悔が滲んでいた。アメリアは何も言えなくて、ただ小さく首を振った。
「——それで」
エドワードが口を開いた。窓の外から視線を戻して、アメリアを真っ直ぐに見る。
「クロード殿下からの花束は、どうするつもりだ」
アメリアは少し間を置いた。
「……まだ、わかりません」
「会うつもりはあるか」
「お兄様」
「聞いているんだ」
エドワードの声は強引ではなかった。ただ、真剣だった。アメリアは視線を膝の上に落として、ゆっくりと考えた。
会いたいか、と問われれば——正直なところ、わからなかった。
クロードのことは、嫌いではない。幼い頃から知っている、信頼できる人だ。五年ぶりに届いた手紙が、どれほど胸に沁みたかも知っている。
でも今の自分は、誰かに寄りかかれる状態ではなかった。五年間演じ続けた侯爵夫人の仮面を脱いだばかりで、その下にある本当の自分が、まだよく見えていない。そんな状態で、王太子殿下と向き合えるとは思えなかった。
「会うことは……できると思います。でも今すぐは」
「そうか」
エドワードはそれだけ言って、また黙った。父も何も言わなかった。ふたりとも、アメリアの答えを急かさなかった。
その沈黙が、ありがたかった。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
アメリアは顔を上げた。父を見る。
「クロード殿下が、私が実家に戻ったことをなぜご存知だったのでしょう。花束が届いたのは翌朝でした。あまりに早すぎて」
父とエドワードが、一瞬だけ視線を交わした。
「……それは」
父が口を開きかけて、止まった。代わりにエドワードが、少し言いにくそうに続けた。
「殿下は、ずっとお前のことを気にかけておられた。モンテ侯爵家の様子を、定期的に確認されていたらしい」
「定期的に……」
「俺も最近知ったんだが。殿下の側近から、父上に話があったそうだ。お前が屋敷を出たその日のうちに、知らせが届いていたと」
アメリアはしばらく、それを飲み込めなかった。
五年間。クロードは一度も会いに来なかった。手紙も寄越さなかった。てっきり、お互いに割り切って、それぞれの道を歩んでいるのだと思っていた。
それなのに。
ずっと、見ていたのか。
「……知りませんでした」
アメリアの声が、わずかに揺れた。
「殿下なりの、けじめだったんだろう」
エドワードが静かに言った。
「既婚者に手を出すことも、お前の結婚に口を挟むことも、王太子という立場上できなかった。だから距離を置きながら、見守っていた。——そういうことだと思う」
アメリアは窓の外に目を向けた。
夕暮れが近づいていた。空が、少しずつ橙色に染まっていく。
五年間。自分が見えない場所で、クロードも何かを抱えていたのだろうか。会いに来られないまま、ただ遠くから気にかけていたのだろうか。
待っていました、アメリア。
あの一行の意味が、少しだけ変わって見えた気がした。
「返事は、自分で考えます」
アメリアは父に向かって、静かに言った。
「急がなくていい」
「はい」
「ただ——」
父が珍しく、言葉を詰まらせた。それからゆっくりと続けた。
「今度は、自分のために選びなさい。家のためでも、誰かのためでもなく」
アメリアは、しばらくその言葉を胸の中で転がした。
自分のために。
五年間、考えたことのなかった言葉だった。
「……はい、お父様」
今度こそ、ちゃんと笑えた気がした。
第四話 了
あなたにおすすめの小説
悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています
かきんとう
恋愛
王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。
磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。
その中心に、私は立っていた。
――今日、この瞬間のために。
「エレノア・フォン・リーベルト嬢」
高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。
《完結》氷の侯爵令息 あなたが子供はいらないと言ったから
ヴァンドール
恋愛
氷の侯爵令息と言われたアラン。彼は結婚相手の伯爵令嬢にとにかく冷たい態度で接する。
彼女は義姉イライザから夫が子供はいらないと言ったと聞き、衝撃を受けるが気持ちを切り替え生きていく。
婚約破棄された地味令嬢、実は美貌を隠していただけでした
かきんとう
恋愛
王都でも指折りの名門、ローゼンベルク公爵家の大広間に、重苦しい空気が満ちていた。磨き上げられた床に反射するシャンデリアの光はいつもと変わらぬはずなのに、その場に集う貴族たちの視線はどこか好奇と期待に満ちていて、まるで見世物を待つ観客のようだった。
その中心に立たされているのは、ひとりの令嬢。
栗色の髪はきっちりと後ろで束ねられ、華やかさとは程遠い質素なドレス。顔立ちは整っているはずなのに、厚めの前髪と控えめな表情のせいで、印象はどうにも薄い。社交界では“地味令嬢”と呼ばれている少女――リシェル・エヴァンズである。
「リシェル・エヴァンズ」
婚約破棄のあと、あなたのことだけ思い出せない
柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢セシリアは、王宮の舞踏会で王太子レイヴンから公開の場で婚約破棄を言い渡され、その場で倒れた。
目覚めた彼女は、礼儀も常識も覚えているのに――ただ一つ、レイヴンだけを思い出せない。
「あなたは、どなたですか?」
その一言に、彼の瞳は壊れた。
けれどレイヴンは何も語らず、セシリアを遠ざける。彼女を守るために、あの日婚約を捨てたのだと告げられないまま。
セシリアは過去を断ち切り、王宮の侍女として新しい生活を始める。
優しく手を差し伸べる護衛騎士アデルと心を通わせていくほど、レイヴンの胸は嫉妬と後悔で焼けていった。
――守るために捨てたはずなのに。忘れられたまま、他の男に笑う彼女を見ていられない。
一方、王宮では“偽聖女”の陰謀と、セシリアの血に眠る秘密が動き出す。
記憶を取り戻せば、彼女は狙われる。取り戻さなければ、二人は永遠に届かない。
これは、忘れてしまった令嬢と、忘れられてなお愛を捨てられない王太子が、もう一度“選び直す”恋の物語。
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。
妃が微笑んだまま去った日、夫はまだ気づいていなかった
柴田はつみ
恋愛
「セラフィーヌ、君は少し、細かすぎる」
三秒、黙る
それから妃は微笑んで、こう言った。
「そうですね。私の目が曇っていたようです」
翌朝から、読書室に妃の姿はなかった。
夫への礼は完璧。公務も完璧。微笑みも完璧。
ただ妻の顔だけが、どこにもなかった。
大人しい令嬢は怒りません。ただ二年間、準備していただけです。――婚約解消の申請が受理されましたので、失礼いたします
柴田はつみ
恋愛
婚約者に、誕生日を忘れられた。
正確には、忘れられたわけではない。
エドワード・ヴァルト公爵はちゃんと覚えていた。
記念のディナーも、予約していた。
薔薇だって、一輪、用意していた。
ただ――幼馴染のクロエ・アンセル伯爵令嬢から使いが来た瞬間、全部置いて行ってしまっただけだ。
「すぐ戻る」
彼が戻ったのは、三時間後だった。
蝋燭は溶け切り、料理は冷え、ワインは乾いていた。
それでもリーゼロッテ・フォン・アルテンベルクは、笑顔で座って待っていた。
「ええ、大丈夫でございます。お気遣いなく」
完璧な微笑みで、完璧にそう言った。
二年間の花嫁
柴田はつみ
恋愛
名門公爵家との政略結婚――それは、彼にとっても、私にとっても期間限定の約束だった。
公爵アランにはすでに将来を誓い合った女性がいる。私はただ、その日までの“仮の妻”でしかない。
二年後、契約が終われば彼の元を去らなければならないと分かっていた。
それでも構わなかった。
たとえ短い時間でも、ずっと想い続けてきた彼のそばにいられるなら――。
けれど、私の知らないところで、アランは密かに策略を巡らせていた。
この結婚は、ただの義務でも慈悲でもない。
彼にとっても、私を手放すつもりなど初めからなかったのだ。
やがて二人の距離は少しずつ近づき、契約という鎖が、甘く熱い絆へと変わっていく。
期限が迫る中、真実の愛がすべてを覆す。
――これは、嘘から始まった恋が、永遠へと変わる物語。