「離縁状の印が乾く前に、王太子殿下から花束が届きました」〜五年間「置物」と呼ばれた侯爵夫人、夫が青ざめるのは王家との縁が切れてからでした〜

まさき

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第1部「名前を呼ばれなかった妻」

30話「隣に立つ人」

30話「隣に立つ人」

 戴冠式の朝は、よく晴れていた。

 王都の空が高く澄んで、鐘の音が遠くから重なるように響いてくる。沿道にはすでに人垣ができていた。
旗が風に揺れ、花びらが石畳に散っている。

 アメリアは鏡の前に立っていた。
 深い青のドレス。肩から裾まで、光の角度によって夜の海のように揺れる色。侍女たちが髪を整え、手袋を合わせ、最後の仕上げを終えた時、鏡の中の女は、アメリアが知らない顔をしていた。

 いや、違う。
 知っていた顔だ。ただ、長い間、見ていなかっただけ。
「完璧でございます」
 侍女のひとりが言った。アメリアは静かに頷いた。

 式典が始まる前、控えの間にマリアンヌが飛び込んできた。
「遅れた、馬車が混んでて」 

「あなたが時間通りに来たことは一度もないでしょう」

「それはそう」

 マリアンヌはアメリアの全身を眺めて、それから目を細めた。毒舌家の親友が、珍しく何も言わなかった。

「……マリアンヌ」

「目にゴミが入っただけ」   

 アメリアは笑った。

「また?」

「王宮はゴミが多いのよ」

 マリアンヌは乱暴に目元を拭って、それからアメリアの手を一度だけ強く握った。言葉はなかった。それで十分だった。

 エドワードが迎えに来たのは、鐘が三つ鳴った後だった。
 兄は扉の前でアメリアを見て、一瞬だけ黙った。

「……似合っている」 

「ありがとう」

「父上が、廊下の角で待ち構えているから覚悟しておけ」

「やめてほしいのだけれど」

「無理だ。もう三回確認しに来た」

 アメリアはため息をついた。けれどその息は、柔らかかった。

 廊下の角を曲がると、ヴァルロワ公爵が立っていた。厳格な父が、娘の姿を見て、ただ静かに目を細めた。 

「お前が幸せそうで、本当によかった」
 あの時と同じ言葉だった。それでもアメリアは、今日もその言葉に胸を突かれた。

「父上」 

「行きなさい。殿下が待っている」

 アメリアは深く礼をして、前を向いた。
 大広間への扉が、両側から開かれた。
 アメリアは止まらなかった。
 長い廊下を、一歩ずつ歩いた。 両脇に居並ぶ貴族たちの視線が集まる。囁きが聞こえた。けれど五年前と違った。 今日の囁きは、温度を持っていた。
 祭壇の前に、クロードがいた。
 深い茶髪。金色の瞳。  

式典用の礼装が、いつもより整って見えたが、目だけはいつもと同じだった。アメリアを見つけた瞬間、少しだけほどけた、あの目。

 アメリアは隣に立った。
 クロードが、小さな声で言った。

「来た」

「来ました」 

「似合っている」

「殿下も」

「クロードでいい」 

「……式典中です」

「式典が終わったら」

「終わったら」

 アメリアは前を向いたまま、静かに笑った。クロードも前を向いたまま、口元がわずかに緩んだ。
 司祭の声が、大広間に響き渡った。

 王冠が、クロードの頭に載せられた瞬間、大広間が静まり返った。
 それからひとりが拍手をして、次々と重なっていった。鐘の音が外から届いた。窓の向こうで歓声が上がった。
 アメリアはその全部を、隣で聞いていた。

 置物として立っていた五年間は、いつも部屋の隅だった。誰かの背後だった。いてもいなくてもよかった。
 今日は違った。

 隣だった。対等な場所だった。求められて、立っている場所だった。
 クロードがアメリアを見た。
 アメリアはクロードを見た。
 言葉はなかった。それでも全部、伝わった気がした。

 式典の後、ベルトラン侯爵夫人がアメリアのそばに来た。
「よいものを見させていただきました」
 老婦人の目が、穏やかに細くなっていた。

「殿下の隣に立てる方が、ようやく見つかりましたね」
 アメリアは微笑んだ。 

「見つかったのか、戻ってきたのか、自分でもよくわからないのです」

「どちらでも同じことでしょう」

 ベルトラン侯爵夫人は静かに言った。

「あなたはずっと、あなたでしたよ」

 夕刻、式典が終わり人が散り始めた頃、アメリアは昨夜と同じ庭園に立っていた。

 白薔薇が、昼間の光の中では昨夜より明るく見えた。
 足音が近づいてきた。振り返らなくてもわかった。

「終わった」とクロードが言った。

「終わりましたね」 

「疲れたか」 

「少し」

 クロードが隣に立った。昨夜と同じ場所に。
「アメリア」  

「はい」

「これからも、隣にいてくれ」

 簡単な言葉だった。飾りのない、不器用な言葉だった。けれどアメリアには、それで十分だった。いや、それがよかった。

「はい」

 今度は、答えだった。
 白薔薇が風に揺れた。アメリアの金髪も、同じ風に揺れた。
 灰青の瞳が、夕暮れの光の中で、静かに細くなった。

 置物はどこにもいない。
 侯爵夫人もどこかへ消えた。
 ここにいるのは、アメリア=ヴァルロワ。
 クロードの隣に立つ人。
 それだけで、もう、十分だった。 





五年間、名前を呼ばれなかった女が、今日から毎日呼ばれる。
それだけのことが、世界をまったく違う場所に変えた。
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