「あなたの隣で笑い続けた私が、今日から私のために笑います」

まさき

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第八話 ルカの隣で

第八話 ルカの隣で

ルカの父親の菓子は、素朴な焼き菓子だった。
蜂蜜と胡桃が入った、小さくて丸いやつだった。夕方、ルカが無言で紙に包んで持ってきた。
「多く焼きすぎたって言ってた」
「お父さんが?」
「ああ」
私は受け取って、一口食べた。
甘かった。素朴な甘さだった。華やかな茶会で出てくる砂糖菓子とは全然違う、地に足のついた甘さだった。
「美味しい」
「そうか」
「本当に美味しい。お父さんに伝えて」
ルカは少し頷いた。それだけだったけれど、悪くない顔をしていた。
それから、ルカと過ごす時間が少しずつ増えた。
きっかけは特になかった。
ルカが仕事の帰りに寄っていくようになった。私が市場でルカを見かけて、途中まで一緒に歩くようになった。夕方、裏路地で顔を合わせて、そのまま話し込むようになった。
エリーゼの隣にいた頃は、こういう時間がなかった。
誰かと過ごすときは、常に何かの目的があった。茶会なら社交、夜会なら人脈、昼食なら情報交換。ただ一緒にいるだけの時間は、なかった。
ルカといる時間は、何もなかった。
目的も、役割も、演じるべき自分も。
ただ、そこにいるだけだった。
ある夕方、裏路地の石段に並んで座っていた。
ルカは仕事帰りで、少し疲れた顔をしていた。私は特に用もなく、外に出てきたところだった。
「ルカって、仕事楽しい?」
「まあまあだ」
「まあまあって、どういう感じ」
「得意先が喜ぶと悪くない。木が綺麗に仕上がったときも悪くない」
「悪くない、ばかりだね」
「楽しいかどうかより、悪くないかどうかの方が長続きする」
私はその言葉を少し考えた。
楽しいかどうかより、悪くないかどうか。
「それ、なんか分かる気がする」
「そうか」
「エリーゼの隣にいた頃、楽しかったかって聞かれたらわからない。でも悪くない瞬間はあった」
言ってから、少し驚いた。
エリーゼのことを、こんなふうに話したのは初めてだった。恨み言でも、庇うわけでもなく、ただ事実として話せた。
ルカは黙って聞いていた。
「最初の頃は本当に楽しかったと思う。エリーゼと話すのが好きだったし、社交界を知るのも面白かった」
「じゃあいつから変わった」
「わからない。気づいたら、楽しいより疲れるが多くなってた」
「そうか」
「ルカはずっと見てたって言ってたけど、私がしんどそうにしてたとき、声かけようと思わなかった?」
ルカは少し考えた。
「思った」
「でもかけなかった」
「お前が選んでることだったから」
私は石段を見た。
そうだった。誰かに強制されたわけじゃなかった。最初は自分で選んで、エリーゼの隣に立ち続けた。
「それで正解だったと思う」
「え」
「声かけてたら、私たぶん怒ってた」
ルカは少し口角を上げた。「だろうな」
私も少し笑った。
それから少し沈黙が続いた。
夕暮れの光が路地に伸びていた。どこかで夕食の匂いがした。
「ソレイユ」
ルカが珍しく、名前を呼んだ。
「なに」
「好きなものって、植物図鑑以外にあるか」
唐突な質問だった。
「……考えたことなかった」
「考えてみろ」
「今?」
「暇だろ」
私は少し考えた。本当に、真剣に考えた。
「朝の空気が好きかもしれない。誰もいない時間の、静かな感じ」
「ほかは」
「温かい食べ物。スープとか。あと……雨の音」
「雨の音」
「うん。眠れる」
ルカは少し黙った。それから、
「全部、誰かと関係ない」
「そうだね」
「いいことだ」
私はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。
誰かと関係ない好きなもの。
五年間、エリーゼが好きなものを好きと言い続けた。自分だけの好きなものなんて、考えたことがなかった。
でも今、三つ言えた。
朝の空気。温かい食べ物。雨の音。
全部、ずっと前から好きだったような気がした。
「ルカは?」
「ん」
「好きなもの」
ルカは少し間を置いた。
「木の匂い。仕事終わりの飯。あと——」
そこで少し止まった。
「あと?」
「独り言だ」
「教えてよ」
「嫌だ」
私は少し笑った。
「ずるい」
「そのうちわかる」
そのうち、という言葉が少し気になった。
でも夕暮れの光が綺麗で、それ以上追及する気になれなかった。
家に帰って、机に向かった。
便箋を取り出して、何を書くわけでもなく、ペンを持った。
朝の空気。温かい食べ物。雨の音。
三つ書いた。
それから少し考えて、四つ目を書いた。
ルカと話す時間。
書いてから、少し顔が熱くなった。
便箋を折りたたんで、引き出しの奥にしまった。
誰にも見せるつもりはなかった。
ただ、書いておきたかった。
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