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2章: リンドウの花に、口づけを

2-3 ある2人のお話

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「先生ホントに何もしない~?」



「何もしないよ。大体、家に遊びに行きたいって言ったのは美優の方だろう?」



痣城美優と白川コウは元々、近所ぐるみでの付き合いで子供の頃に知り合い、昔は兄弟のようによく遊んだ間柄だった。それから長い間2人は引っ越しを機に疎遠になっていたが、その後白川コウは高校教師になり、偶然痣城美優はその高校に入学。再び2人は親しい間柄となったのだった。



彼女を家に入れるのは子供の時以来か、とコウはふと考えた。あの時の彼女はまだ、少し内気で明るい普通の女の子だった。

玄関を開け、中へと入る2人。



「お邪魔します~」



「すまん、椅子はないから床に座ってくれ。散らかってるけど」



「・・・コウ君、酒とたばこやってるんだ?」



散乱する空き缶と煙草の灰皿を見つけ、美優は少し動揺した。部屋には煙草の匂いが染み付いている。彼女はその事を一切聞いていなかったのだ。



「まあ、ね。今のご時世、教師としちゃ印象悪いか?」



「ううん。ちょっと意外だっただけ。」



ゆっくりと美優は首を振る。



「もうコウ君は、すっかり大人だもんね。」



彼女の呼び方が「先生」から「コウ君」に変わっていることに気づいた彼は、昔2人で遊んだ時の記憶を反芻して懐かしい気持ちになった。

ふと、彼女の横顔を見ると、耳元に黒子の様なピアス痕が残っていた。それが自分に憧れて開けたものであるということを知っているコウは、なんだか気恥ずかしくなってすぐにそれから目を逸らした。



「ねぇ、たばこって、いいものなの?」



薄暗い部屋の中、床に座った彼女はコウに質問した。



「別に、いいもんじゃない。気分が良くなるわけでもない。なんなら、健康にも悪いな。」



「じゃあ、なんで吸ってるの?」



「それは・・・」



早く死にたいから、と格好つけて返そうとしたが、彼女の前でそれははばかられた。



「・・・・・」



発する言葉がなくなり、少しの間の沈黙が流れる。コウの視線が宙を泳ぐ。唇を尖らせる彼女。



「ふーん。まぁ、いいや。言いたくないならそれでも。」



怒らせてしまっただろうか、とコウは少し心配になる。



「一本、吸ってみてもいい?」

「えっ」



コウは突然の彼女の提案に驚いた。



「だ、ダメに決まってるだろ。俺は教師だぞ。未成年喫煙を認めるわけないだろうが。」



それでは意味がないだろう。と、心の中で付け足す。



俯く美優。長い睫毛が影を落とす。その表情はどこか儚げで、虚ろで、寂しそうだった。

新雪の様に白く、夕闇の様に深い。そんな彼女の内面は、恐ろしく脆い。まるで美しい雪の結晶のように、少し息が掛かっただけで溶けて、少し触れただけで消えてしまうようだ。



「・・・わかったよ。一本だけなら。絶対内緒だぞ。家にあげてるだけでもヤバいのに。」



仕方ないな、と頭を掻く。美優に悲しげな顔をされると、彼は断れない。何より、そういう彼女の不安定な部分を見せられると、彼は弱い。



コウはテーブルに置いてある箱から煙草を取り出し、一本を美優に差し出した。



「あ、ありがと。」



彼女は礼を言うと、ぎこちなく人差し指と親指でタバコをつまんだ。コウはもう一本を取り出して、慣れた手つきでタバコに火をつける。美優もそれに倣って煙草を口に咥えた。



「火をつける時はな、煙草に酸素を送りながら火をつけるんだ。息を吸い込んで煙草に空気を通す感じ。じゃないとすぐに火が消えるから。」



コウはそういうと、先程出したライターをポケットにしまい、火がついた煙草を顔ごと美優に近づけた。



紫煙を帯びたコウの顔を、美優は見つめる。まだ幼かった頃の面影が、今もなお残っている。



意表を突く彼の行動に少し動揺しながらも、美優も咥えた煙草をゆっくりと彼の煙草の先端に押しつけた。



コウの熱くなった体温が美優の煙草へと移っていく。



「・・・最低だな。俺は。」




部屋は静寂に満たされている。心臓の鼓動と、煙草の葉に火がついていく音、そして2人の間を満たす紫煙が、静謐な部屋の空間にゆっくりと溶け出していく。



苦くて甘い煙草の煙が、互いの体を少しずつ、満たしていった。
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