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4章: 波のまにまに愛を求めて

4-3 兄の部屋

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「私も一つ、貴方に聞きたい事がある。」



彼女はそう言って、僕の方に向き直った。いつもの神永に戻っている。無表情で、無機質なコンクリートを思わせるその顔からは、感情が一切読み取れない。



「貴方はその能力を使って、お兄さんの記憶を覗き見ようと思った事はないの?少なくとも、私が視た貴方の記憶の中には、貴方がお兄さんの記憶を読み取っている描写は無かった。家には残された所有物が沢山あるはず。何故それを使わないの?」



逸らしたくなるほど鋭い彼女の視線に、僕は真っ直ぐと見つめ返して答えた。



「能力は使ったよ。最近ね。」



僕は最近まで、それをしてこなかった。この能力を趣味の為でなく、兄の為に使うというのは、なんだか癪で今までそうしてこなかったのだ。でも、兄の彼女の件で行き詰まりを感じた僕は、ここ数週間ほど前に、遂に兄の部屋に入って色々と能力を使った。



「でも、何も視えなかったんだ。」



僕は彼の部屋のありとあらゆるものに触った。机、椅子、ノート、筆記用具、ベッド、服、その他諸々。カーテンや床にすら触れてみた。だが、何も読み取る事ができなかった。どれだけ掌に意識を集中させても、記憶の一欠片も視ることができなかった。



「それは、つまり、もしかしたら貴方のお兄さんはまだ生きているという事?貴方の能力は死者にしか使えないものね。」



彼女は問いかける。



「・・・その可能性は僕も考えたし、実際それもあり得る。でも、お前は『死に関する記憶』を読み取るんだろ?それじゃ矛盾してる。」



僕は死者の記憶を読み取る。それができないという事は彼は生きているということ。しかし、彼女の能力は死に関する記憶を読み取る能力。それができるという事は彼は死んでいるという事。まるっきり矛盾している。



「でもさ、僕思うんだよ。兄はもしかしたら、空っぽだったんじゃ無いかって。」



欠けた月を見上げ、僕は言った。

彼の部屋に入ってまず、異様に物品が少ないことに気づいた。なんというか、生活するのに必要なものしか置かれていない、といった感じだった。無駄なものが一切ない。部屋に置かれた物品から、その人がどのような人となりであったのかを全く推測できない。



「僕の能力は、死者の生前の『想い』を読み取る能力だ。そいつがその物品に触れていた時に感じた『想い』の残滓を、僕は汲み取ってるんだ。本来なら全く何も『想い』が残らないなんてのは、あり得ないんだ。人形でもない限りはね。でももしかしたら兄は、その人形だったんじゃ無いのかなって。少なくとも家にいる間、ずっと兄は何にも感じていなかったんじゃ無いかって。」



思い返せば、彼には趣味が無かったような気がする。彼の好きなものを僕は何も知らない。食卓で出た料理の中で何が好物なのかも、僕は知らない。彼の将来の夢が何なのかも、僕は知らない。でもそれは僕が兄のことを知ろうとしなかったからだと、ずっと思っていた。

あの殺風景な部屋に入るまでは。



「あの部屋は、何も無さ過ぎた。母が定期的に掃除だけはしているが、部屋の中のものは極力捨てないようにしているはずだ。兄はあの部屋で十数年間子供の頃から過ごしてるんだ。それであの綺麗さは異常だ。綺麗好きなんてものじゃ無い。人としての無駄が無さ過ぎるんだよ。」



そしてあの部屋に今まで入っていた母が、それを見て何も感じてこなかったことも異常だ。人間が暮らす家の中に、あんなモデルルームのような部屋があったら、普通は強烈な違和感を抱く。そこに人が十数年生活していたのなら尚更だ。母は一体、今まで兄の何を見ていたのだろう。

まぁ自分が言えたことではないか、と僕は自嘲した。



「居なくなる前に、身辺整理をしたとかは?」



「それなら僕達家族のうちの誰かが気づくだろ。母は時々兄の部屋で掃除していたそうだし、物がごっそり減ってたらその異変に気づくはずだ。」



色々やって何も読み取れなかった僕は「彼は家族である僕達に本来の自分を何も見せていなかったのでは」という考察を立てた。しかし、だとしたらそれは驚くべき事だ。数十年間、僕達家族に見せていた彼の顔は、全て嘘だったという事になる。それは、にわかには信じ難い話だ。

彼の人懐っこい笑顔を、僕は頭に浮かべた。あの笑顔の中身が全て虚だったとすれば。あの時、僕に掛けた言葉の数々が全て中身を伴っていなかったものだとすれば。

雲にやや隠された、欠けた月を再び僕は見上げた。

あの月のように、彼には何か人としての決定的なものが、欠けていた可能性がある。

だとしたら皮肉なものだ、と僕は嗤う。人として欠けている部分など、無かったような彼だったのに。
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