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第1話
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この話の途中にチョコレート事件がありますが、バーで実際に起きた騒動をベースにしてます。発狂したみたいで怖かった!
マンションに戻ると、珍しく紺地の浴衣姿の妻が出迎えてくれた。見慣れない大きな黒猫を抱いている。
「お帰りなさい信次さん、今日もすごく暑かったわね」
甘やかで。すこしハスキーな声。
髪をアップにして薄化粧をほどこし、唇の端で小さく微笑んでいる、狂おしいほど愛しい私の女。
廊下を通り抜けてクーラーがきいた居間に彼女と黒猫に続いて入っていく、まるで夢遊病者のような、おぼつかない足取りで。
とたん強い匂いがした。
発信源の、奥の和室を覗きこむと、チェストの上に華やかなフラワーアレンジメントが置いてある。色とりどりの花々の主役でもあるかのように、純白のカサブランカが誇らしげに自己主張をしていた。
「あ、それね。ちょっと遠くの花屋さんが届けてくれたのね」
食事を盛りつけた大皿小皿をダイニングテーブルに運びながら、妻は言った。
「送り主の人にぜんぜん心当たり無いのよ、住所も電話番号も知らないし・・花屋さんに聞いても中年の紳士だったとしか答えてくれないし」
正体不明の贈り物を、あまり気にしてはいない様子だ。おそらく昔から慣れっこになっているのだろう、知人だけじゃなく知らない人からのアプローチも今まで星が降るほどあったに違いない。符合する過去の記憶を呼び起こしながら、私は背広をソファに放り投げて食卓に腰を下ろした。運がいいことに辺りに大きな鏡は見当たらない。
「着替えないの?」
「いい、先に食いたいんだ。ビールを出してくれ」
「わかったわ、はいお絞り」
フローリングで、黒猫が身体中をなめて寛いでいる。見たことがない金色の眼をした精悍な黒猫。前にいたのは、ほっそりした白猫だったはず。私がまだ自分自身であった時、結婚してすぐ彼女がどこからか拾ってきた。あいつはどこにいったのか?
「子供のころから猫はいつでも一緒に暮らしてきたの、でも皆ある日いきなり姿を消すのよ、かき消えたようにあたしの前から」
つぶやくような妻の言葉を思い出す。
「急にいなくなってとっても辛かったけど、ある日わかったの。しばらくして、よその猫とばったり会って、その子が嬉しそうにあたしに近づいてくるの、また会えて良かったみたいにまとわりついてくるのね、それであたしも姿を変えて現れてきたのだって思うようになったの」
ずいぶん不思議な話だった。しかし人間離れした美しさを持つ女の言葉は妙に説得力があった。今この場所に、自分が共有している空間でさえ嘘のように感じる。
現実の世界でも夢でも私にとっては、もはやどちらでもいい話だが。
「あしたから一週間夏休みね、信次さん」
妻は浴衣の裾をめくって私にビールをついでくれる。眩しいほど白い手で、しなやかな細長い指をからめて。十分に冷えたビターな液体が喉元を過ぎる。給仕する本人は一滴も酒を口にしない、飲めないのか飲まないのかどっちだったのだろうか。
「夏休み?」
「会社の休暇じゃない。あたしはどこも混むし暑いから、うちでのんびりしたいけれど。信次さんも仕事で疲れたでしょう」
少しだけ自分の置かれた状況を知った。私はたぶんサラリーマンなのだ。だがいったいどこで働いているのだろうか。業種も何も全く不明なのに一週間後に出社なんて離れ業はまず無理だろう、と漠然に思った。
「ああ君と家でゆっくりしたいね。すごく疲れているよ」
このところ立て続けに起きた不可思議な出来事が脳裏に蘇り、もしかしたら自分が記憶喪失か狂ったのではないかとさえ思う。酔った頭で、ならば自分が自分であるという確信を持つために、やはり鏡に己の姿を映して実感するしかないと結論を出す。現実からは逃げられない。
だが、これは身震いするような勇気が必要なのだ。鏡に映るのは、おそらく自分ではなく見知らぬ誰かだと思うから。かつて同じ経験をしたことがある、病院の鏡に映った自殺した旧友の五郎と目が合った戦慄の瞬間!再び同じ恐怖を味わうのか。
カサブランカの物憂いのような、私にとって嫌な香気が鼻をつく。脂汗がでて、煮物や酢の物を口に運びながら全身が総毛だちそうになる。
「ねえ、気分が悪そうよ。早く休んだ方がいいんじゃない」
妻の言葉がエコーを幾重にも帯びて聞こえてくる。なるほど狂っていくというのは、こういう事なのか・・昔、洋画で見た発狂したヒロインがそうだった。あれはビビアンリーだったかな・・
食事を途中で切り上げ、用意された黒い浴衣に着替える。そして和室のダブルサイズの布団に大の字になって身を横たえた。
「悪いけど花をどこかにやってくれ」
妻は黙ってうなずき、アレンジメントをベランダに持っていく。
「あなたはお気に召さないのね、気づかなくてごめんなさい」
艶のある後ろ姿を横目で追いながら、私は急速な睡魔に陥っていく。次に目覚めた時はどこでどうしているのだろうかと恐れおののきながら。
マンションに戻ると、珍しく紺地の浴衣姿の妻が出迎えてくれた。見慣れない大きな黒猫を抱いている。
「お帰りなさい信次さん、今日もすごく暑かったわね」
甘やかで。すこしハスキーな声。
髪をアップにして薄化粧をほどこし、唇の端で小さく微笑んでいる、狂おしいほど愛しい私の女。
廊下を通り抜けてクーラーがきいた居間に彼女と黒猫に続いて入っていく、まるで夢遊病者のような、おぼつかない足取りで。
とたん強い匂いがした。
発信源の、奥の和室を覗きこむと、チェストの上に華やかなフラワーアレンジメントが置いてある。色とりどりの花々の主役でもあるかのように、純白のカサブランカが誇らしげに自己主張をしていた。
「あ、それね。ちょっと遠くの花屋さんが届けてくれたのね」
食事を盛りつけた大皿小皿をダイニングテーブルに運びながら、妻は言った。
「送り主の人にぜんぜん心当たり無いのよ、住所も電話番号も知らないし・・花屋さんに聞いても中年の紳士だったとしか答えてくれないし」
正体不明の贈り物を、あまり気にしてはいない様子だ。おそらく昔から慣れっこになっているのだろう、知人だけじゃなく知らない人からのアプローチも今まで星が降るほどあったに違いない。符合する過去の記憶を呼び起こしながら、私は背広をソファに放り投げて食卓に腰を下ろした。運がいいことに辺りに大きな鏡は見当たらない。
「着替えないの?」
「いい、先に食いたいんだ。ビールを出してくれ」
「わかったわ、はいお絞り」
フローリングで、黒猫が身体中をなめて寛いでいる。見たことがない金色の眼をした精悍な黒猫。前にいたのは、ほっそりした白猫だったはず。私がまだ自分自身であった時、結婚してすぐ彼女がどこからか拾ってきた。あいつはどこにいったのか?
「子供のころから猫はいつでも一緒に暮らしてきたの、でも皆ある日いきなり姿を消すのよ、かき消えたようにあたしの前から」
つぶやくような妻の言葉を思い出す。
「急にいなくなってとっても辛かったけど、ある日わかったの。しばらくして、よその猫とばったり会って、その子が嬉しそうにあたしに近づいてくるの、また会えて良かったみたいにまとわりついてくるのね、それであたしも姿を変えて現れてきたのだって思うようになったの」
ずいぶん不思議な話だった。しかし人間離れした美しさを持つ女の言葉は妙に説得力があった。今この場所に、自分が共有している空間でさえ嘘のように感じる。
現実の世界でも夢でも私にとっては、もはやどちらでもいい話だが。
「あしたから一週間夏休みね、信次さん」
妻は浴衣の裾をめくって私にビールをついでくれる。眩しいほど白い手で、しなやかな細長い指をからめて。十分に冷えたビターな液体が喉元を過ぎる。給仕する本人は一滴も酒を口にしない、飲めないのか飲まないのかどっちだったのだろうか。
「夏休み?」
「会社の休暇じゃない。あたしはどこも混むし暑いから、うちでのんびりしたいけれど。信次さんも仕事で疲れたでしょう」
少しだけ自分の置かれた状況を知った。私はたぶんサラリーマンなのだ。だがいったいどこで働いているのだろうか。業種も何も全く不明なのに一週間後に出社なんて離れ業はまず無理だろう、と漠然に思った。
「ああ君と家でゆっくりしたいね。すごく疲れているよ」
このところ立て続けに起きた不可思議な出来事が脳裏に蘇り、もしかしたら自分が記憶喪失か狂ったのではないかとさえ思う。酔った頭で、ならば自分が自分であるという確信を持つために、やはり鏡に己の姿を映して実感するしかないと結論を出す。現実からは逃げられない。
だが、これは身震いするような勇気が必要なのだ。鏡に映るのは、おそらく自分ではなく見知らぬ誰かだと思うから。かつて同じ経験をしたことがある、病院の鏡に映った自殺した旧友の五郎と目が合った戦慄の瞬間!再び同じ恐怖を味わうのか。
カサブランカの物憂いのような、私にとって嫌な香気が鼻をつく。脂汗がでて、煮物や酢の物を口に運びながら全身が総毛だちそうになる。
「ねえ、気分が悪そうよ。早く休んだ方がいいんじゃない」
妻の言葉がエコーを幾重にも帯びて聞こえてくる。なるほど狂っていくというのは、こういう事なのか・・昔、洋画で見た発狂したヒロインがそうだった。あれはビビアンリーだったかな・・
食事を途中で切り上げ、用意された黒い浴衣に着替える。そして和室のダブルサイズの布団に大の字になって身を横たえた。
「悪いけど花をどこかにやってくれ」
妻は黙ってうなずき、アレンジメントをベランダに持っていく。
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艶のある後ろ姿を横目で追いながら、私は急速な睡魔に陥っていく。次に目覚めた時はどこでどうしているのだろうかと恐れおののきながら。
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