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第1話
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『少女から大人の女に孵化していく刹那の瞬間を描きたかった、陳腐な三角関係な恋愛小説のつもりではないです』
午前中、微かにではあるが部屋を充たしていた陽射しは、いつのまにか消え失せ、淡灰色の空が窓の外に広がっていた。
今日の気分にふさわしい天気だと芙美子は思った。壊れかけた門からはじまり、雑草がぼうぼうとしている庭に囲まれた古い家の扉から二階の芙美子の部屋に至る日中でも薄暗い玄関、木目が黒光りしている廊下、歩くと軋んだ音のする階段は、朝から物音ひとつしない。
昨夜遅く階下で鳴った電話、直後に出掛けた母の行き先の見当は付いていた。一度だけ電話で耳にした、少しはにかんだ様な若い男の声。
彼女はその声の主と一緒なのだ。
ベッドに浅く腰をおろし芙美子は自分の部屋を見渡した。古めかしい家具に囲まれた子供の頃から何も変わっていない部屋は、こだわりやら一種の流儀による結果ではなく最新のインテリアに無頓着なせいだった。
階段を上がりきった所の柱時計が、ボンボンボンと三回鳴った。年代物の古い時計でたまに訪れる客人には、ひどく不気味な音に聞こえるらしい。喉が渇き、芙美子はけだるげに立ち上がりベッドの脇のスリッパを履いた。黒地にオリーブ色の小花模様の洒落た柄だ。家具や調度には無頓着だが、手軽に選べる小物や身の回りの雑貨にはこだわりがあった。横たわると異国の匂いがしそうな白地に薄茶の細い縞が不規則に交わったエジプト綿のベッドカバー。天井の竹細工の電球は透かしの笠から橙色の光を放っている。
芙美子は真っ暗な静まり返った階下に下りていった。ドアが開けっぱなしになっている母の部屋から甘い香りが漂っている。ベッドの上に無造作に投げ出された見覚えのある衣類、ため息をつく間も無く目に釘付けになったのは床に転がっている口紅だった。
ぬめぬめと赤く彩られた母の唇。それが貧欲な生き物のように微笑し、艶めいたセリフで男を誘い掛ける光景が頭をよぎり、芙美子は目を伏せると後ろ手に扉を閉めていた。いつものことだと、そう思いながら煤けた絨毯を敷き詰めた居間を通り抜けて玄関の西側にあるキッチンに入った。
黒く古びた冷蔵庫が流しの横に置かれ、唐草模様の彫物の重厚な食器棚が並んでいる。棚の中に大きさも形も様々な器が重ねられ、手吹きの紅いガラス瓶が片隅で鈍く光っている。鍋やフライパンが油光りする調理台を占拠し調味料や何かの空瓶が転がり、錆びて赤茶けたガス台には緑がくすんだ苔色に変わってしまったヤカンがぽつんと置かれていた。
キッチンの小窓から微かな雨音が漏れている。
芙美子は椅子から立ち上がり、物憂げに小雨が降っている窓の外を見た。遠くの空一面が黒い気味の悪い雲でおおわれている。
いきなり雨の音をかき消すように居間にある電話が鳴った。受話器を取り「神崎です。」と応える。
間髪なく聞き覚えのある荒々しい男の声。
「何だ、いたのか。」
芙美子と同じ大学の、中川孝雄だ。
「明日から七月だぜ、大学に来ないのか?前期試験始まるぞ。」
受話器を片手に、芙美子は皮が所々破れたソファに座り込んだ。
「忙しかったのよ。」
「いつも同じ事言って来ないじゃないか。だらしないぞ。」
気持ちを逆撫でするような孝雄の言葉。芙美子はどうにかこらえて、ごめんなさいと一方的に電話を切った。出会った頃は好印象の孝雄だったが今では知ったかぶりの阿保に見えてならない。他人を見下した態度も我慢できなかった。
雨音は先刻より勢いを増している。今夜はどしゃ降りになるかもしれないと思った。
午前中、微かにではあるが部屋を充たしていた陽射しは、いつのまにか消え失せ、淡灰色の空が窓の外に広がっていた。
今日の気分にふさわしい天気だと芙美子は思った。壊れかけた門からはじまり、雑草がぼうぼうとしている庭に囲まれた古い家の扉から二階の芙美子の部屋に至る日中でも薄暗い玄関、木目が黒光りしている廊下、歩くと軋んだ音のする階段は、朝から物音ひとつしない。
昨夜遅く階下で鳴った電話、直後に出掛けた母の行き先の見当は付いていた。一度だけ電話で耳にした、少しはにかんだ様な若い男の声。
彼女はその声の主と一緒なのだ。
ベッドに浅く腰をおろし芙美子は自分の部屋を見渡した。古めかしい家具に囲まれた子供の頃から何も変わっていない部屋は、こだわりやら一種の流儀による結果ではなく最新のインテリアに無頓着なせいだった。
階段を上がりきった所の柱時計が、ボンボンボンと三回鳴った。年代物の古い時計でたまに訪れる客人には、ひどく不気味な音に聞こえるらしい。喉が渇き、芙美子はけだるげに立ち上がりベッドの脇のスリッパを履いた。黒地にオリーブ色の小花模様の洒落た柄だ。家具や調度には無頓着だが、手軽に選べる小物や身の回りの雑貨にはこだわりがあった。横たわると異国の匂いがしそうな白地に薄茶の細い縞が不規則に交わったエジプト綿のベッドカバー。天井の竹細工の電球は透かしの笠から橙色の光を放っている。
芙美子は真っ暗な静まり返った階下に下りていった。ドアが開けっぱなしになっている母の部屋から甘い香りが漂っている。ベッドの上に無造作に投げ出された見覚えのある衣類、ため息をつく間も無く目に釘付けになったのは床に転がっている口紅だった。
ぬめぬめと赤く彩られた母の唇。それが貧欲な生き物のように微笑し、艶めいたセリフで男を誘い掛ける光景が頭をよぎり、芙美子は目を伏せると後ろ手に扉を閉めていた。いつものことだと、そう思いながら煤けた絨毯を敷き詰めた居間を通り抜けて玄関の西側にあるキッチンに入った。
黒く古びた冷蔵庫が流しの横に置かれ、唐草模様の彫物の重厚な食器棚が並んでいる。棚の中に大きさも形も様々な器が重ねられ、手吹きの紅いガラス瓶が片隅で鈍く光っている。鍋やフライパンが油光りする調理台を占拠し調味料や何かの空瓶が転がり、錆びて赤茶けたガス台には緑がくすんだ苔色に変わってしまったヤカンがぽつんと置かれていた。
キッチンの小窓から微かな雨音が漏れている。
芙美子は椅子から立ち上がり、物憂げに小雨が降っている窓の外を見た。遠くの空一面が黒い気味の悪い雲でおおわれている。
いきなり雨の音をかき消すように居間にある電話が鳴った。受話器を取り「神崎です。」と応える。
間髪なく聞き覚えのある荒々しい男の声。
「何だ、いたのか。」
芙美子と同じ大学の、中川孝雄だ。
「明日から七月だぜ、大学に来ないのか?前期試験始まるぞ。」
受話器を片手に、芙美子は皮が所々破れたソファに座り込んだ。
「忙しかったのよ。」
「いつも同じ事言って来ないじゃないか。だらしないぞ。」
気持ちを逆撫でするような孝雄の言葉。芙美子はどうにかこらえて、ごめんなさいと一方的に電話を切った。出会った頃は好印象の孝雄だったが今では知ったかぶりの阿保に見えてならない。他人を見下した態度も我慢できなかった。
雨音は先刻より勢いを増している。今夜はどしゃ降りになるかもしれないと思った。
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