2 / 10
第2話
しおりを挟む
大判の焦げ茶色の傘を持って奈美恵が帰宅したのは、七時を回り外がすかり暗くなってからだった。見覚えのない傘だった。雨は暮色を夜に塗り替え、玄関の向こうは漆黒の闇が広がっている。傘をつたう水滴をはらいながら、奈美恵はぎこちない笑みを作って、
「お腹すいたでしょう、すぐご飯にあうるわね。」と、返事も待たずにキッチンに入っていった。
包丁で何かを刻むリズミカルな音と鼻歌が聞こえてくる。彼女の恋は今のところ順調らしい。
娘の前で臆面もなく男の匂いをまき散らす姿に、芙美子は生理的嫌悪を感じながらも心のどこかで苦笑していた。かつて別れの修羅場で傷ついた母は夜叉のようだった。あの顔はもう見たくない。
「私、先にシャワー浴びるね。」
ご機嫌で料理中の奈美恵の背中に声をかけて、芙美子は浴室にはいった。そしてていねいに身体を洗った。
風呂から上がりキッチンに入ると、食卓はすっかり夕食の準備がされていた。焼き魚の香ばしい臭いが漂っている。髪にタオルを巻きつけた芙美子を見るやいなや、奈美恵は立ったままの彼女の全身を見据えた。
「あんた最近きれいになったわねえ。」
自分を値踏みするかの視線をわざと反らし、芙美子は食卓の椅子に腰をおろした。母の自分に向ける眼差しはいつになく露骨だった。
つがれた味噌汁を受け取り、今度は芙美子の方が奈美恵の顔をまじまじと見た。ふっくらとした丸顔で、白く弾力がある肌をしている。長いまつ毛に縁どられた色の濃い瞳は、悪戯っぽい光を放ち、奈美恵を四十五歳という実際の年よりもずっと若く見せている。少女がそのまま年輪を重ねた容貌からは、男との遍歴を経た今も狡猾さはどこにも無かった。裏切られようが玩具のように捨てられようが、新しい恋にはまっさらに立ち向かえる女である。
一生大切にすると誓った芙美子の実のた父親は十年前に事故であっけなく急死した。彼も奈美恵を裏切った男の一人である。当時、彼女は泣いてばかりいた。からくも立ち直ることができたのは芙美子の存在があったからだ。また労災が認められ多額の保険金もおり、別の保険にも幾つか入っていた。自分の寿命を見越したかの大口の保険のおかげで金銭的にはぬかりのない形で父はあの世に旅立った。
母と娘の二人暮らしになってからも、生活はとりたてて派手になることはなかった。
働きに出たことのない母が新聞の求人欄に目を通すようになったのは、芙美子が中学校に入った頃からである。急に大人びてきた自分の娘にまたもや置き去りにされそうな思いにとらわれた彼女は外の世界に目を向けた。精神的自立をしたかったのだろう、気に入った職を見つけては働き、辞めたくなったら辞めるという勝手気ままな自立だったが、親子が必要以上の馴れ合いで干渉することなく、その生活様式が今に続いている。断続的に起きる男との確執は計算外のことだったに違いない。とはいえ現在の奈美恵は、男という縦軸と若さや美への執着とでもいう横軸で交差した座標上に自分の足場を見定めているところがある。芙美子が踏み込む余地は殆ど無かった。
互いに顔色を伺うような、それでも親子水入らずの食事のあと奈美恵は後片付けに取り掛かった。そしてエプロン姿の背中を向けたまま、小さな声で言った。
「話があるのよ、ここが終わったら話するから。」
芙美子は奈美恵の声色や背中に、尋常ではない意志を感じた。体の奥から嫌な予感が湧き上がってくる。カチャカチャと皿を洗う音が、いつもより長く感じられた。
「お腹すいたでしょう、すぐご飯にあうるわね。」と、返事も待たずにキッチンに入っていった。
包丁で何かを刻むリズミカルな音と鼻歌が聞こえてくる。彼女の恋は今のところ順調らしい。
娘の前で臆面もなく男の匂いをまき散らす姿に、芙美子は生理的嫌悪を感じながらも心のどこかで苦笑していた。かつて別れの修羅場で傷ついた母は夜叉のようだった。あの顔はもう見たくない。
「私、先にシャワー浴びるね。」
ご機嫌で料理中の奈美恵の背中に声をかけて、芙美子は浴室にはいった。そしてていねいに身体を洗った。
風呂から上がりキッチンに入ると、食卓はすっかり夕食の準備がされていた。焼き魚の香ばしい臭いが漂っている。髪にタオルを巻きつけた芙美子を見るやいなや、奈美恵は立ったままの彼女の全身を見据えた。
「あんた最近きれいになったわねえ。」
自分を値踏みするかの視線をわざと反らし、芙美子は食卓の椅子に腰をおろした。母の自分に向ける眼差しはいつになく露骨だった。
つがれた味噌汁を受け取り、今度は芙美子の方が奈美恵の顔をまじまじと見た。ふっくらとした丸顔で、白く弾力がある肌をしている。長いまつ毛に縁どられた色の濃い瞳は、悪戯っぽい光を放ち、奈美恵を四十五歳という実際の年よりもずっと若く見せている。少女がそのまま年輪を重ねた容貌からは、男との遍歴を経た今も狡猾さはどこにも無かった。裏切られようが玩具のように捨てられようが、新しい恋にはまっさらに立ち向かえる女である。
一生大切にすると誓った芙美子の実のた父親は十年前に事故であっけなく急死した。彼も奈美恵を裏切った男の一人である。当時、彼女は泣いてばかりいた。からくも立ち直ることができたのは芙美子の存在があったからだ。また労災が認められ多額の保険金もおり、別の保険にも幾つか入っていた。自分の寿命を見越したかの大口の保険のおかげで金銭的にはぬかりのない形で父はあの世に旅立った。
母と娘の二人暮らしになってからも、生活はとりたてて派手になることはなかった。
働きに出たことのない母が新聞の求人欄に目を通すようになったのは、芙美子が中学校に入った頃からである。急に大人びてきた自分の娘にまたもや置き去りにされそうな思いにとらわれた彼女は外の世界に目を向けた。精神的自立をしたかったのだろう、気に入った職を見つけては働き、辞めたくなったら辞めるという勝手気ままな自立だったが、親子が必要以上の馴れ合いで干渉することなく、その生活様式が今に続いている。断続的に起きる男との確執は計算外のことだったに違いない。とはいえ現在の奈美恵は、男という縦軸と若さや美への執着とでもいう横軸で交差した座標上に自分の足場を見定めているところがある。芙美子が踏み込む余地は殆ど無かった。
互いに顔色を伺うような、それでも親子水入らずの食事のあと奈美恵は後片付けに取り掛かった。そしてエプロン姿の背中を向けたまま、小さな声で言った。
「話があるのよ、ここが終わったら話するから。」
芙美子は奈美恵の声色や背中に、尋常ではない意志を感じた。体の奥から嫌な予感が湧き上がってくる。カチャカチャと皿を洗う音が、いつもより長く感じられた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる