藤の樹 幻想譚

はらひろ

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藤の樹 幻想譚 (一章)

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 ぽん、、、ぽん、ぽん、ぽんぽんぽんぽん、、極限まで潜められたハァプの音色が、テンポと伴に徐々に力を帯びながら膨らみ、其れを受けて憂いを滲ませたビオロンの調べが、ゆゑづくように溜息を吐いた。
 マーラーだよ。
 幼馴染の尾美治弥に教えられたとき、是ほど美しい音楽があるのだろうかと、桐原芳は陶然として聴き入った。
 抑えようとしても堪えきれない弦の激情は、堰き止めようにもなす術をもたない。其れは束の間、ほんの僅かばかりの間は鎮められるのだけれど、すぐさま後から打ち寄せる波にさらわれてしまう。こらえても堪えても抗いようのない渦にのまれ、ほとばしる音は懊悩するかのように震えていた。
 其の、焦がれるような逆巻く風にも似た旋律が止むと、今度は静寂があたりを包み込むのだった。乳白色の靄が立ち込めては消えゆき、いつしか芳はどこか静謐なところへといざなわれていた。
 そして今再び、高らかに弦楽が鳴り響いていた。神々しく誇らしげに。重厚な音の束はあたかも光の束となって燦然と輝き、たぎる熱情は芳を蠱惑してやまなかった。
 力強く、それでいて繊細な弦の調べ。やがて、それらは互いに依りあいながら一本の糸を紡ぎだし、微かに震える一筋の光となって薄くたなびいていくのだった。
 ……夜明けの、海のイメェジだ。
 芳は酩酊し、言葉にならない呻きが、喉の奥から迫り上がった。
 気に入った?
 穏やかで低い声が、ゆっくりと芳を現実の世界へと引き戻した。
 バイエルンフィル、マリス・ヤンソンスの指揮だよ。一番好きな演奏なんだ。
 治弥は棚からディスクを一枚とりだすと、此処に入っているから好きに聴くといいと微笑んだ。芳は差し出されたディスクを受け取りながら、ビロゥドみたいな声だなと、そんなことを思った。今しがたの弦楽のごとき、なめらかで艷やかな声質なのだと、痺れた脳髄の奥でぼんやりと得心していた。
 ああ、もう時間だ。
 時計を見て治弥が残念そうに立ち上がった。
 此れからバスケの練習があるんだ。
 そう言って運動着に着替え始めた治弥をの言葉に、ようやく芳は夢から立ちかえると、目をしばたたかせた。
 だったら俺も一緒にでるよ。
 こんな豪華な屋敷に独り取り残されたのでは堪ったものではないと、芳は慌ててソファから身を起こした。
 午後の眩い日差しが、風に揺れるレェスカーテンの模様越しに、不規則な影を創り出していた。其れは、さながら尾の長い魚のように、優雅に部屋を浮遊していた。深い海に棲む魚にも似た影は、蝦茶色で統一された品の良い調度品の上を滑らかに流れゆき、ついては引き締まった治弥の上半身にも、さざ波のような文様を揺らめかせていた。
 芳は一瞬、見惚れてからそっと目を逸らした。
 帰るの?聴きながら待っていればいいのに。
 屈託のない治弥の言葉に芳が渋面をつくった。
 此処に一人で?間抜けじゃないか。
 芳がぶっきらぼうに応えると、
 せっかく来たんだし、夕飯くらい食べていけばいいのに。と渋る芳に治弥が微笑んだ。
 芳は誘われた事に嬉しさを感じつつも、苛立ちを抑えきれない自分がいた。
 そうそう甘えてもいられないからね。と肩を竦めてみせた。
 遠慮するなよ。1人2人増えたところで、この家じゃあ差し障りなんてないんだから。
 治弥が朗らかに笑った。笑うと大人びた容貌が、ほんの少しだが歳相応なものに変わる。
 一体にして治弥は至極大人びていた。旧家で複雑な家の事情を抱える子供は、さっさと大人になってしまうものだか、彼もまた、ご多分に漏れずその例だった。同年代の者より頭ひとつ分ほど上背があり、均整のとれた肢体はのびやかで瑞々しく、無駄な肉の一片もなかった。
 対して芳の体躯はごく平均的で、寧ろ華奢な部類に属するかもしれなかった。二人とも容姿の整った少年で、特に芳の幾分釣り上がった黒眼がちの瞳は印象的だった。色素の薄い肌は、皮肉めいた瞳を濡れ濡れと際立たせ、対してその瞳の強さが陶磁器めいた肌を引き立てるとした按配で、何処か投げやりな振る舞いは、気儘な猫科の動物を彷彿とさせた。

 二人は勝手口から表にでると、銘々に別れた。自転車にまたがった治弥は学校へとペダルをこぎ、芳は先ほどのビオロンの余韻に浸りながら、遠のく友人の姿を見送っていた。
 ふと、挨拶もせずに辞してきたことに気付いたが、わざわざ戻るのも間の抜けた話だし、何より尾美家の人と顔を合わせるのは、煩わしく億劫だった。其処には、多分に自分が厄介者であるという負い目が、そうさせてしまうのだろう。
 芳はひとつ頭を振ると、手渡された抗いがたい音色に耽るべく家路を急いだ。

 尾美邸から徒歩で二十分ほどの処に芳の家がある。
 ふと、道すがら誰かの視線を感じて、芳はおもむろに振り返った。だか其処には誰もおらず、気のせいかと、又、歩きだすのだが、粘り気を帯びた瞳が再び芳を捉えてくる。幾度となく振り返って見るのだけど、人はおろか鳥すらも飛んではいなかった。肩口から胸にかけて、ちりちりと鈍い痛みが走った。
 まただ。
 右手で左肩をさすりながら芳は訝しんだ。冬がすぎ春を迎えてから、このような事がしばしば起こるようになった。痛みといっても針先でちくちく突かれる程度のもので、すぐにおさまってしまう。医者に診て貰うほどでもなかった。
 母の一周忌を終え、独りきりになってしまった実感が、不安として現れているのかもしれないと、芳は沈毅に考えこんだ。これから先の事について、考えねばならないことは、山程にあるのだから。

 大橋を渡り切ると茫漠とした空地が開ける。途端に人家はなくなり、林とも藪ともつかぬ雑木林が空地の終わりから始まりだし、濃い緑はそのまま山の裾野へと続いていた。
 其の繁みのなかに芳の家はひっそりと在った。昔の家屋造りで土間だけは広かった。後は台所と手洗いに浴室、八畳の和室と三畳の板間があるきりの、簡素な平屋だった。それでも独りきりとなった彼には、充分すぎる空間だった。
 一年前の調度今の時分に芳は母を失った。納屋を兼ねた土間の片隅で、立て掛けてあった鍬やスコップの隙間に、隠れるように崩れ落ちていた。明かりとりの小窓から差し込んでいた八つ手の緑葉が、蝋のように青ざめた母とは対象的に、鮮やかな緑色をなしていた。
 身寄りのない芳は当然の如く進学を諦めたのだが、治弥の父が強く進学を勧めてきた。学費なら母の財形貯蓄もあるし、死亡保険金も降りるから何の心配も要らないと。そして何より母が進学を望んでいたとして、強引に押し切られた。芳の母は尾美氏の経営する造園会社に勤めていた。尤もこの地域で尾美グルゥプと関係のない会社は珍しく、飲食店やホテル、銀行に不動産と多岐に渡り、尾美一族は地域一帯を掌握していた。
 母子家庭の生活で、貯蓄の余裕があるとは考えにくく、保険といっても掛け捨て程度であったろう。しかし卒業したら不足分は返済して貰うからと説得され、芳は根負けした。学費以外なら辛うじて三年間暮らしていけそうな貯蓄だったし、バイトをすればいいだけだと自分を納得させた。
 そして尾美氏は芳の身元引け受け人となった。其処には名士であるという世間体と、息子の友人への配慮があるのだろう。もしかしたら治弥が頼み込んだのかもしれないが。
 有り難いと感謝する一方で、正直、疎ましくもあった。何事に於いても借りは作りたくなかった。それでなくとも母、祖父は勿論、代々芳の家は尾美家の庭師として優遇されてきたのだから。
 祖父や母がそれぞれ造園業に従事しておりながら、彼らは自宅の庭については無頓着であった。こじんまりとした家に対して、広すぎる庭は野趣に富み、木々は勿論、草花の一本すらも気儘に生茂っていた。庭は森と呼べる程に人の手が入っておらず、其処には四季折々の樹々が脈絡もなく乱立していた。
 万作やサンシュユが山吹色の花を綻ばせ、あちこちで春の訪れを告げると、それを合図にたちまち庭は華やぎ始めるのだった。まだ柔らかい黄緑の幼葉がこぞって顔をだし、梅や桜が白に薄桃色にと其の身を装った。牡丹が惜しむことなく艷やかに大輪を開けば、沈丁花が清々しい芳香をあまねく放った。この庭の花々は季節の秩序を、あまり知らないようだった。
 其の鬱蒼と枝葉が折り重なる中に、一際、眼を惹く大木があった。樹齢が見当もつかない程の藤の巨木で、圧倒的な存在感をもって周囲を威圧していた。四方八方、自由に蔓は遊びまわり、奔放に伸びきった枝を支えているのは小さな離れ家なのだが、ちょっと見には分かり辛い。縦横無尽に覆い尽くす太い蔓枝や葉、其処から枝垂れおちる藤華の濃密さに、離れ家はすっぽりと隠れてしまうからだ。其の存在を知る者はほとんど居ないであろう。
 今、此時が盛りとばかりに藤の華は豪奢にせめぎ合い、甘く濃厚な香りが噎せ返るほどに溢れていた。
 芳は母家からプレイヤーを持ってくると、藤の枝を掻き分け、離れ家の中へと足を進めた。
 其処は風呂場だった。古い薪の風呂なのだが、芳は未だ嘗て、この風呂が使われる所を見たことがなかった。母はおろか祖父母も終ぞ使うことはなかったという。修理しても使用できるかどうかも分からない年代物だ。
 いつの頃に建てられたものなのか。母家とは不釣り合いなほど贅沢な創りで、人が横たわってもまだ余裕のある浴槽は勿論、洗い場や壁、天井まで全てが上等な檜で出来ていた。長い歳月を経ても檜の芳醇な香りは褪せることなく、その馥郁とした心地良い香りは、いつも芳を優しく迎えいれて呉れる。
 芳はほうっと安堵の息をつくと借りたディスクを再生し、乾いた浴槽に身を横たえた。
 マーラーだよ。
 今しがたの治弥の声が甘く蘇る。朽ちた屋根を覆う藤枝から幾筋かの分枝が垂れ下がり、ふうわりと華房が揺れている。風があるのだろうか。ゆらりと揺れた華房からは、はらはらと藤色の花弁がたゆたっていた。ひらりひらりと翻りながら、花びらが芳の頬を撫でていく。
 淡い藤の花びら、濃い紫の、竜胆色の藤紫の、、、。視界の奥が藤色に染まった。芳はゆっくりと目を瞑った。後から後から藤の花が振り注いでいた。
 其れは芳の閉じた瞼の上に頬に、ほんの少し開いた唇にへと忍びこんでくる。ほろほろ舞う花びら。可憐な花のひとひら。
 だが、それは華の屍だ。たった今、命を離れた花の残骸だ。命を失った美しい屍に、艷やかな骸に埋もれてしまう錯覚に、芳は歪んだ喜悦と奇妙な安寧を覚えていた。
 朽ちていく。この一時を芳は至極好んだ。此のまま藤の骸と同化してゆくような、彼岸に分け踏み入ってしまいそうな、そんな危うさを。
 もしかしたら狂い始めているのかもしれない。彼らのように。
 芳は花びらの死に床に沈みゆく夢想に耽りながら、抑制された弦楽の調べに身を委ねていた。降りしきる淡い紫の寝床に、マーラーはとても似合っているような気がした。

     …………………

 四時間目の授業を終了するチャイムが鳴り響いていた。生徒達は一斉にざわめき出し、バスケ部の仲間や級友達が忽ち治弥を取り囲んだ。其の輪に混ざろうと、女生徒達の甲高く、どこか媚びるような声音が芳の耳に障った。治弥はいつも場の中心にいた。楽しそうに弾む会話、おどけた仕草の級友、誰かのからかいを受けた女子が、甘えるような声をあげて治弥に助けを求めていた。いつもの見慣れた光景なのだが、最近、芳は其れが苦痛になっていた。とりとめのない遣り取り、賑やかで他愛もない会話、たしなめるような治弥の声と抑制された低い笑い。
 努めて見ないように背を向けているが、気遣うような治弥の気配が察せられ、芳は捺さくれる様な苛立ちを覚えてしまうのだった。
 芳は一気にパンを呑み込むと、足早に教習を飛び出し、図書室へと向かった。
 地方の高校であったが、学校図書には恵まれており、二つの図書室があった。一つは旧館と呼ばれ校舎から幾分離れた処にあった。この旧館の老朽化と利便の悪さ故に、新しく校舎続きの図書室が設けられたのだが、旧館を取り壊す段になって、建物が県の文化財候補に抜擢された。ために其のままの形で維持管理することとなったのである。生徒達は使い勝手がよく蔵書も多い新館を好んで利用し、短い休み時間にわさわざ離れにまで足を運ぶ者は少なかった。
 芳は誰もいない旧館で過ごすことを好んだ。埃やかび臭さは身に親しんだもので、寧ろ心が休まるくらいだった。
 耳の奥で弦楽器の美しい旋律が鳴っていた。彼は窓枠に凭れながら、頭の中で奏でられる、流麗な弦の響きに合わせて口ずさんでいた。
 「マーラーだね」穏やかな声が新鮮な空気とともに飛び込んできた。驚いて振り返った芳は、治弥の柔和な笑顔を前にたじろいだ。
 「尾美、、、」何のよう?
 聴かれてしまった気恥ずかしさと、後を追ってきてくれた嬉しさが綯い交ぜとなっていたが、口からでた言葉は、随分とつっけんどんになってしまった。
 「気に入ってくれたんだ」
 「借りっぱなしで悪い。明日返すから」
 謝りながら治弥の背後をちらと伺う。治弥は芳の様子を敏感に察知し「先生に呼ばれているって抜けてきたから」一人だよ、と言い、芳は我知らずほっと緊張を解いた。
 「・・友達、放っていいの?」
 「芳だって友達だろうに。CDはいいよ。元からあげるつもりだったから。其れより、来月の湖畔一泊はどうするつもり?」
 研修と称してあるものの、新入生の親睦を深めるための、遊戯めいた学校行事だった。
 「出るわけないだろ」そんなもん。とぞんざいな芳の即答に、治弥は小さく肩を落とした。
 「費用なら心配要らないんだ」
 「そうじゃない。そんなんじゃないんだ。気持ちは有り難いけど。それに、、親睦もなにも、今更、、だろう?」
 「まあ、確かに。そうだけど」
 戦災にもあわず、人の出入りの極端に少ない街であるから、高校に上がっても顔ぶれはそう変わる筈もない。現に級の全ては見知った者ばかりだった。
 そしてそうした古くからの街は、昔ながらの因習に囚われている。極端に閉鎖的なこの街は、いにしえからの習わしやしきたりが根強い。加えて此の値は伝奇や怪奇の類が多く、また人は迷信深かった。
 芳の家は曰つきの家系だった。
 経緯は詳らかではないが、いわゆる憑き物に属するもので、とかく人から揶揄や忌避をされ、とても恐れられていた。母は最小限の仕事の他は外出をせず、息子の他人との接触を殊のほか嫌った。唯一の例外は尾美家の坊っちゃん、治弥だけだった。憑き物の真偽は別にしても、桐原の血筋には奇妙な横死や、怪異な人の生まれが垣間見え、迷信と簡単には済まされない 闇が、見え隠れしていた。 更には父親の知れない子である芳は、幼い頃から好奇の目に晒され、人々との隔意は埋まるどころか、歳を経るに連け深まってさえいた。
 祟りを怖れ、虐められる事がないのが、唯一の救いかもしれなかった。
 「芳が参加しないなら、俺もパスしようかなあ」治弥がつまらなそうにぼやいた。
 「尾美は委員長だろ」
 「嫌な指摘はするなよ。、、一泊だけなら、、入浴を避ければ、、それでも無理?」
 「まぁね」と芳は唇を噛んだ。治
 弥が労るように芳の頭に、手の平をぽんとのせた。それを「止せよ」と無造作に払いのけると、軽く頭を振った。    
 「何イラついてるんだ?」
 「何でもないったら」尚も追いかけてくる治弥の手を邪険に退けるが、彼は一向に気にする風でもなく「埃がすごいな。ここは古いから」と、パタパタと芳の肩を叩き、埃を払う真似事をしてくれる。埃などなく口実であることは分かりきっているが、芳はそうした慰めの言い訳を作ってくれる彼に感謝していた。でなければ素直に彼の温かい手を受け入れる事は難しかった。
 「まだ駄目か、、」治弥は呟きながら、俯く芳の髪を長い指でつまんだ。
 芳の身体には生まれつき奇妙な痣があった。奇妙というより綺麗なと称した方が相応しい不思議なもので、左肩から右の腰へと、袈裟がけに痣が連なっていた。まるで着物を半身纏っているかのように。芳の前半身には大小様々な痣が散りばめられていた。まるで小川のせせらぎに藤の華が放たれたような。或いは水面で戯れる花弁を描いたような、其れは美しい痣だった。精緻に色彩を織り込んだ上等の薄絹のようでもあり、丹念に図案を練り、巧みな技法で施された入れ墨のようでもあった。
 この痣の存在を知る者は、ごく一部だけに限られていた。只でさえ曰くつきの系譜である。見咎められでもしたら、其れこそ何を噂されるか、堪ったものではない。そうした危惧しての配慮だった。
 およそ体育は見学で、修学旅行等の行事も悉く控えていた。
 ただの痣の筈なのだが、成長と伴に疼くような鈍痛を感じるようになり、最近ではその頻度が増えていた。芳もさすがに何かしらの身体の異変を、認めざるを得なくなっていた。だからといって医者に診て貰うつもりは一切なかったのだが。
 昼休み終了を告げるチャイムが鳴っていた。
 「今日、寄ってもいい?」治弥が惜しむように芳の髪を指で梳きながら尋ね、それから踏ん切りをつけるように大きく伸びをした。
 「委員会があるから少し遅くなりそうだけど」
 「大変だな。尾美ならいつでも大歓迎だよ」
 「・・学校では【尾美】なんだな。いつも通りに呼べばいいのに」
 それは無理、芳は心の中で応えた。治弥を取り囲んで談笑している級の人達に、どうしても気後れがしてしまうのだった。勝手に疎外感や劣等感を抱いてしまう自分自身に、芳はつくづく嫌気がさしていた。

     ………………


 帰宅の途中、芳の歩調に合わせて並走する車が、軽くクラクションを鳴らし、行く手を塞ぐように止まった。不審に思いながら中を覗きこむと、はたして黒光りする高級車の運転席では、尾美圭介がひらひらと片手を振っていた。
 「頼みたい事があってさ。ちょっといいかな?」
 芳の強張った会釈を鷹揚に受け流すと、圭介は助手席のドアを開けて同乗を促した。有無を言わさぬ迫力に気圧されて車に乗り込むと、芳は身を固くした。圭介は治弥の七つ歳上の異母兄で、この春、都会の大学を卒業し地元に戻ったばかりだった。グルゥプ会社に勤めているという事だったが、今日は休みであるのだろうか。鮮やかな緋色のタンクトップにキリキリに細いジィパンという、およそ黒塗高級車に相応しくない服装である。だが妙にしっくりとくるのだ。芳は素直に感嘆した。単なる普段着でも、どんな悪趣味な服でも、圭介が纏うと、まるで彼の為に設えたような特別なものへと変貌する。尾美家の人らしく姿がよく、どことなく崩れた感じが得もいえぬ色香を醸し出している、そんな雰囲気の若者だった。其の飄々とした佇まいに騙されがちだが、その内側には常に鋭い爪が隠れている事を、芳は敏感に察知していた。猛禽を彷彿とさせる迫力に、芳はあからさまに警戒する姿勢をとった。
 圭介はブンッと荒々しくハンドルを切ると、勢いよくアクセルを踏み込んだ。思わず芳の身体が前のめりにガクンと揺れた。
 「悪い悪い」と詫ながらも、圭介はちっとも悪びれない様子で可笑しそうに笑った。
 「学校はどう?」
 「・・変わりないです。」
 「なんだ。相変わらず素っ気ないね」
 いつも身構えている芳は、なかなか懐かない猫のようで、圭介はちょっかいを出さずにはいられなかった。愛する弟にこんな初々しい反応は望めないとして。
 「折角だから食事でもどう?」
 「辞退します。治弥が来るので」
 慇懃に頭を下げる芳を、圭介は面白そうに眺めると「なんだ、残念だな」と、さして惜しくもなさそうに答えた。それからハザァドランプを点滅させると、路肩に車を寄せた。
 「じゃあ手っ取り早く用件を済ませちまおう。急で申し訳ないけど、明後日の土曜の夕方に届けてほしい物がある」
 そう言うなり、圭介は後部座席に手を伸ばすと、蝦茶色の風呂敷包みを掴んだ。其れを芳の膝に無造作におくと、ダッシュボォドから封筒を取り出し、「場所はここに書いてある」と、風呂敷の結び目に差し込んだ。包まれているのは二十センチ四方の箱らしく、持ち上げるとカタカタと音が鳴った。
 「茶器だ」
 尾美家の扱うものなら高級品に違いないと、芳に軽い怯えが走る。その狼狽を悟ったかのように「値の張るものじゃない。割れたら割れたで構わない。そういう契約事らしいからな。」と圭介が事もなげに言った。突然、ずきりと芳の肩先から胸のあたりまで痛みが走った。右手でさすりながら痛みをやり過ごしていると、圭介がその手を強く握りこんできた。ぎょっとして芳が身を竦めると、その反応を楽しむかのように、圭介は一本また一本と五本の指を、ゆっくり絡ませだした。突き飛ばそうにも膝に載せられた風呂敷包みと、シィトベルトで身体の自由は奪われ固定されていた。圭介は押しかかるように芳の動きを封じると、空いている片方の手で芳の顎を捉え、其の淡麗な顔を寄せてくる。ずきりとした痛みが、徐々にちくちくと突き刺さるような軽いものへと鎮まっていった。
 「・・ふうん。なる程ね」圭介の微かな呟きが芳の肌をなぶり、形のよい唇が嗜虐的に歪められた。
 ――捉えられる。
 芳は唇を引き結び、かたく瞼を瞑った。
 次の瞬間、圭介が弾けるように笑いだした。
 「ごめん、ごめん。君があんまり素直なもんだから、つい」面白くってさぁ、と圭介は楽しそうに笑った。憮然として睨みつける芳を、「あの弟じゃ、遊べないだろう?」などと悪びれた様子もなく、尚も可笑しそうに笑い続けている。確かに治弥なら、冷静かつ沈着に軽くあしらうだろう。
 「・・からかう為に俺を乗せたんですか?」
 ふるふると怒りに頬を上気させた芳を、さも愉快そうに眺めてから「違うよ。依頼があったからさ。ついでに楽しませて貰ったけど。」と圭介はうそぶき、其れから、ついっと笑顔をひっこめた。
 「さっきも言ったけど、これを届けて欲しい。日時は厳守で頼むな。手筈はオレが怠りなく整えておくからさ。初回だから特典つきの大サァビスだ。」
 いつもの強引さで一気に話を纏めると、圭介は終わったとばかりにウィンカァを上げ、車を発進させた。
 「・・でも、どうして俺が・・」
 芳は訝しみながら、手元の風呂敷包みを眺めやった。
 「桐原の家業を始める年齢に達したからさ。花守の」
 「家業?」
 「おいおい、お袋さんから何も聞いてないのか?」圭介が呆れたような声をあげた。それから
 「まあ、花守への依頼は何代も前にあったきり、というから無理もないか」と独りで納得していた。
 「とにかく其れを指定された場所と日時に届けて呉れればいいだけだから。簡単だろ?礼金は口座に振り込んでおくから」
 「礼金?」
 芳は風呂敷包みの中身を愈々危ぶんだ。単なる茶器であれば誰が届けても良い筈だ。わざわざ芳を指定し、代金まで支払われるとなれば、モノは其れなりに危険なものに違いない。
 圭介は芳の懸念を見透かしたように、「大丈夫、法的にヤバイものじゃない」と軽く笑った。
 「ただ此れは花守の仕事でね。つまりは君の仕事というわけだ。」
 芳は訳が分からなかった。
 「花守が花守の仕事を遂行する。だから当然代価は支払われる。君、バイト探してただろ?調度いいじゃないか」
 芳の顔がさっと赤らんだ。バイトの面接にことごとく落ちまくっている事も、全て知っているのだろう。
 「・・・花守って何ですか?」
 「説明が難しいんだなぁ。何せ一番最後に現れたのは、何世代も前になるからね。まあ行けば分かるさ。気になるなら治弥に聞けばいい。もっとも文献に載ってる以外は知らないだろうが」
 「治弥に?」
 どうして彼の名前がでるのだろうと芳が首を傾げると、「気にくわないが」と圭介が前置きしてから続けた。
 「気にくわないが、君のためにあれこれ奔走して調べまくってるよ」
 その言葉に芳の胸が甘酸っぱくざわめいた。其れから、気に食わないとは、どちらに向けられた言葉なのだろうかと、慎重に黙りこんだ。花守の件に首を突っ込んでいることなのか、俺の為に行動していることになのか。
 「こっそり探っているみたいだけど、バレバレでね。可愛いったらない。全くもって気に入らんけど。ま、治弥の考えも尊重したいし、アイツは遥かに器の大きい奴だから、何とかするだろうさ」
 囲われ女の子供である俺が、本家に移された時、歓待してくれたのは治弥だけだった。アイツが居なけりゃ、とっくに飛び出していたさ、と弟を語る時だけ皮肉な色が和らいだ。
 まぁとにかく、土曜日は宜しく頼むよと、芳を家まで送ると、圭介は再度念を押して去っていった。

     ………………


 ここはほっとするなぁ。
 つくづく感心して治弥が目を閉じた。
 変わってるな。治弥は。
 芳は傍らに座る彼を、ちらりと見やると、手元に意識を集中させた。
 勝手気儘に生い茂る樹木は、子供達からはお化けの森と敬遠されている。殊に陽が落ちると、鬱蒼とした木々は夜の闇と溶け合い、その陰影は更に濃く深くなる。街頭などない暗闇のなかで、それらの影はひと塊となってうごめき、暗黒の怪物となって子供達を怯えさせるのだった。大人であっても、不気味に思う者は少なくないだろう。そう芳は踏んでいた。
 二人は土から張りでた、藤の樹の太い根に腰を降ろしていた。月明かりをうけて藤の華がおぼろに白く霞んでいた。プレイヤーから空間を奏でてゆく弦楽器の調べが、藤の房と二人の耳朶を優しくくすぐった。
 いいな。すごくいい、、。此処の良さが分かる人なんて、、いないよ。誰も、、。
 自分以外にはと、治弥は存外に優越感を匂わせながら、うっそりと呟いた。
 それより、さっきから何してるの?と、芳の手元を覗きこんだ。
 板間が少し傷んでただろ。其れの修理だよ。
 半分に割った竹を小刀で削りながら芳が応えた。三畳の板の間は割竹を寄せて造ってあり、修理には手間がかかった。大きさや太さが一本一本異なる上に、優美に湾曲した竹には硬い節がある。其れを繋ぎ併せていくには、一つ一つ手作業で行うしかないのだ。
 此の家って随分と風流だよね。どれ一つとっても。
 頻りに感心する治弥に芳が呆れた声をだした。
 この荒れ放題の庭に?今にも壊れそうなあばら家が?
 芳は本質が見えてないんだ。此処は本当に伸び伸びしていて、とても寛げる。憩いの場だよ。
 そう言いながら治弥は、甘く噎せかえる藤の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
 あの屋敷の子供でいることは、かなりキツイんだ。だから此処にくるとほっとする。そうは見えないかもしれないけど。本当なんだ。
 治弥が自嘲気味に低く嗤った。
 そんな彼の様子に芳は小さく溜息をついた。尾美家の人間として、いつも気を張りつめて過ごしているのだろう。誰にも気取られないように。
 圭介さんも似たような事を言ってたな。
 兄さんが?何?
 問われて芳が先程のあらましを話すと、見る見る治弥の眉が潜められた。
 兄さん単独の依頼とは考えにくいな。大方、父さんが背後にいるんだろう。
 と難しい声をだした。
 花守って何?俺の家業だと言われたけど。
 ・・うん。まだ不明な事ばかりなんだけど、、、。
 躊躇いながら治弥は言葉を探すように続けた。
 山火事を防ぐために此の地では地鎮祭が頻繁に行われるだろう?其れに関係するものらしいんだ。地鎮祭の由来の、、逸話に係わってくるんだけど、、。
 声が気遣うような音を帯び、芳は黙念と頷いた。街の人々に疎まれる所以ともなった逸話。
 チェロの慈愛を含んだ低音が、慰撫するように肌を撫でていった。
 旧い逸話。忌み嫌われるようになった昔の出来事。
 其の昔、此の地に腕の良い庭番がおり、領主の覚えも目出度かったという。しかし或る時、山火事の火付けの咎を受け、身に覚えのない罪で投獄されてしまう。領主が庇えば庇うほど庭番への拷問は苛烈を極め、遂には非業の死を遂げてしまう。其の庭番の無念や呪詛が残された妻の腹に宿り、妻は鬼の子を産み落としてしまうのだ。怖れ慄き悲嘆にくれた妻は、赤子を藤の根元に埋めると、自らも自害するという憐れな話で、不憫に思った藤の樹が(嘗て庭番に大層慈しまれた樹だという)、呪いの念を封じて、鬼の子を人型に戻したとされる昔語りだった。大昔の伝承の逸話。
 その話には続きがあってね。人型に戻った子は、鎮魂のために花守になったとされるんだ。ただ花守の仕事内容が分からなくて、、届けものっていうのは意外だな。
 はっ、嘘くさい。
 芳は鼻でせせら笑い、其れから黙り込んだ。
 其の鬼の子が如何した訳か、芳の祖先とされていた。文献や傍証の一切も何もないのだが、何時の頃からか桐原の縁とされるようになっていた。不気味な桐原の血筋が、其のような憶測を招いたのかもしれない。加えて、尾美家の庭師など、凡そ庭番を連想させる業種に従事してきたことも、噂に拍車をかけたのかもしれなかった。
 だが、単なる昔語りの筈の逸話が、今現在、花守の役目として、芳を追いかけてきていた。まことしやかに。しらず、芳の唇から陰鬱な吐息が漏れ出た。
 ただの迷信さ。因習に囚われすぎているんだ此の街は。
 治弥は励ますように言って立ち上がると、頬に絡みついてくる藤の房に顔をうずめ、物憂げに眼を閉じた。
 ひんやりして気持ちがいい。絹みたいだ。猫の毛にも似ているかな。
 月の青白い光を受けて、華がけぶるように発光していた。
 猫の毛は筍だろ?それに耳だよ、猫の耳。
 そうだった。そういう小説があったね。でも猫というなら芳じゃないか?
 そう言うと治弥は人差し指で芳の輪郭をなぞった。よせよ、と芳が顔を背けた。
 ほら、そういうとこさ。猫そっくりだよ。
 どういうとこだよ。
 だから、ひねくれ加減とかさ。
 治弥がうっそりと笑った。
 土曜日は気をつけろよ。何せあの兄さんの依頼だから。
 顰め面をしながら、尚も警告めいた言葉を口にする。芳は圭介に絡められた指の感触が、忌々しくも生々しく蘇った。忠告を受けるまでもなく、圭介という人物は油断のならない得体のしれなさがあった。係わりを持つのは、極力避けるのが賢明というものだろう。
 大袈裟じゃないの?風呂敷包みを持っていくだけだろ?花守って役目の奴が。
 其れでもだよ。例え形式的なことだとしても、警戒するにこしたことはないから。兄さんは良い人だけど、ああ見えて策士なんだ。しかも手練だ。気がついたら術中に嵌っていたって事が儘ある。
 そう不平を漏らしながら治弥は、纏わりつく藤の房に背をもたせると、其のまま芳醇な藤の華に埋もれていった。噎せ返るような香りと哀切を帯びた音に包まれ、彼の瞼がうっとりと細められていく。其の藤の精とも見紛うような佇まいに芳は恍惚と魅入った。息が詰まりそうだった。慌てて眼を反らし、気づかれないように息を整えると、
 兄君が言うには、弟の方が人物だってさ。と軽口を叩いた。
 鵜呑みにするなよ。
 華にうずもれた治弥がくぐもった声をだした。
 そうやって俺が逃げ出さないよう楔を打ってくるんだ。なにせ、あの父さんの息子だからね。
 そう言って、またも渋面をつくった。
 自分の親なのに随分な言いようだな。
 呆れて見せながらも、芳は内心、治弥の言い分に納得している自分を覚えた。
 そういや圭介さんは、治弥がいるから残ってるとも言ってたな。お前だけが喜んで迎えてくれたって、嬉しそうだった。
 兄さんが俺の立場でも諸手をあげて歓迎した筈だよ。思い荷を分担してくれる者が現れたんだから。それも兄として。全部持ってくれるなら俺は迷わず脱出するよ。
 ――そんなことを考えていたのか?
 冗談とも本気ともつかぬ治弥の言葉に、芳は少なからず驚いた。初めて吐露した彼の心情に。  
 芳だってそうだろう?
 促され、まあね、と曖昧に頷く。
 とにかく兄さんには注意しろよ。あの父さんの子だからね。
 治弥だって同じ父親の子じゃあないか。 
 嫌なことを言うなよ。
 芳がそう指摘すると、またもや端整な顔が顰められた。

          二章へ 続く
 
 
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