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第三話 餌_4
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「わ、あ、あ」
慌てて投げ捨てようとするが、一呼吸遅かった。それが、俺の運命を決めた。
支えを失い、重力に引かれて鈍い音を立てるはずだった郵便受けはいつまでたっても落ちない。
代わりに、郵便受けの影は僅かに俺のそれとの距離を縮めた。
「ひ、ゅぃ、っ」
最初は、痒みにも似た感覚だった。
が、数秒もせずにそれが勘違いだと思い知らされる。
歩いていて小指を箪笥の角にぶつけたときの痛みはよくネタとして揶揄されるが、体にくっついている状態ですらあれだけの痛みを伴う。なら、少しずつ我が身を削り落とされる痛みは如何ばかりだろうか。
その答えを、俺は今身をもって実感していた。
「あ、あぁ? あぁああ…なんだよこれ、なんだよお前ら…いったいなんなんだよぉ!?」
俺の目の前で、青白い月の光が異常な光景を浮き上がらせている。
郵便受けの深い闇の中から毛むくじゃらの小さな手たちがひっきりなしに伸ばされ、僅かな俺の爪を、服を、皮を、肉を、骨を、その鋭い爪で絶え間なくぶちりぶちりと削り、削ぎ、毟りとっていっては、郵便受けの闇に運んでいく。そして併せて聞こえてくる、くちゃ、くちゃ、くちゃ…という水気を含んだ耳障りな咀嚼音。事実を飲み込む間に、俺の右手は感覚を失っていく。血は出ているのだろうか、それとも夜闇に溶け込んでしまったのか、よく見えない。
一分と掛からぬうちに皮、血管、神経、筋肉を喪った俺の指先は白い骨だけとなったが、それすらも奴らはどんよくに削り、喰らい、米粒大に加工していく。それまで支えていた奴は残された食事を引き取り、解体加工に励んでいた奴が新たな支えとなってぶら下がる。
ああ、痛い。痛い。痛い。
痛みに息を呑むとはよく言ったもんだ。
悲鳴に限らず、声というものは息を吐くとき発するものである。
目を見開き、悲鳴を上げようとするが、瞬く間に解体されていく自分の腕を前に、肺は息を留めるばかりで声が出ない。先の悲鳴が口を出る前に痛みの波は次から次へと押し寄せ、解体され続けている俺の腕を駆け上がり延々と脳髄を焼き、体力を急速に奪っていった。
せめて悲鳴を上げられれば。
誰かが助けに来てくれればこの化け物も……そこまで考え、ふと気づく。
本当に――本当に、悲鳴を上げたら誰か来てくれるのか?
小指もぎ取られたときの騒ぎは結構でかかったはずなのに、それでも誰も来なかったのに?
とっくに警察に通報されていてもおかしくないはずだ。が、実際にはとなりの民家の勝手口は暗いままだ。
いや、今になってみれば、今の今まで虫の声ひとつなかった。パチ屋を出たときでさえ、季節はずれの蝉の声くらいはまばらであれど聞こえていたのに。
何より、悲鳴を上げて…本当に誰も来なかったら――
誰も来ないと分かったら、俺は――
悠長なことを考えているうちにも、郵便受けの中に巣食っていた何者かはすでに肘まで食らい終え、奴らの手は二の腕に到達しつつあった。
自分の手先が細く尖らされているのを見ていて、ふと昔実家においてあった旧い鉛筆削りを思い出していた。がりがりと削る感触が心地よくて、でも尖らせ終えたところで空ぶるようになったのが気に入らなくて力いっぱい回して壊したっけ。こいつらがそんな繊細な感傷を持ち合わせているようには思えないが。
残っていた左手?
そんなもん、同じように食われている真っ最中だ。
引き剥がそうとして箱に触れた結果、同じように絡みとられてしまったのだ。蓋周辺は避けたのだが、餌にありついて興奮していた奴らはすでに裏側にまで回りこんでいた。
そうして絡めとられたところでようやく遅ればせながらも可能な限り大声を出し、壁に打ちつけ、隣家の勝手口にたたきつけたが…周囲のモルタルにはひびどころか、削られた跡すらついていない。
――俺の抵抗はすべて徒労に終わった。
蜘蛛の巣と同じだ。いったん絡めとられたあとは獲物がどんなに暴れようと、網が壊れることはない。
とんとん拍子だと思い込んだ俺は普通の奴なら入り込まないところに来て、普通の奴ならやらないことをした結果、今こうやって普通なら起こりえないことに遭遇している。
どういう原理かは謎だが、ここは、この郵便受けの中にいる何かのために設けられた狩場なんだ。
ああ、もう考えるのもだるくなってきた。
酸欠と疲労と失血による脱力、何より脳を断続的に焼く激痛に、もはや立っていることすらできない俺はいつしか腰を抜かしその場にへたり込んでいた。
今は、早いけれど断続的な、小さな呼吸音。そして俺の鼻をすする音だけが耳につく。あいつらの咀嚼音? 実を言うとひっきりなしさ。途切れが無さ過ぎて、もはや環境音みたいになってしまっている。聞きたくないのに聞こえないように出来ないんだったら、あとは意識しないようにしていた方が多少はマシだろ。
発狂しない程度の絶え間ない痛みのせいで脳内麻薬が分泌されているのだろう、もはや痛みで気絶することもできない。今となってはただ他人事のように、自分の体が郵便受けにむさぼり食われる光景を見続けるしかできなかった……いや、一定値を超えたからか、むしろ冷静に見る余裕すらある。サバンナで、まだ生きてるにも関わらず致命傷を負った草食動物がライオンに齧られながらもその様子を他人事のように見つめているのと同じ心境だろうか。
両手が無事ならツイッターに実況投稿していたかもしれない。さぞや大量の反応が得られただろう。それをふいにするのが実に残念でならない。
ちきしょう、ああ、やっぱ嫌だ。
現実逃避をしながら薄汚い郵便受けに両腕を突っ込み、小刻みに震えぼろぼろ泣きながら糞小便を垂れ流す男。それを見た奴らはどう思うのだろう。無様とげらげら笑うか、それとも悪趣味だと思うか。
いや、そもそもこのペースだ、服の切れ端一つ残されないかもしれない。
たぶん、今の俺が傍から見ることができたなら、かつて動画で見た捕食されている最中のネズミと同じ目をしていると思ったろう。友人だと思ってた奴に教えられてはじめてみたときは、悪趣味だと言って目をそらしたんだっけ。
それが、いつから楽しくなってきたんだっけか…
さあ、肩の辺りまで環境音が上ってきた。あともう少しだくそったれめ。
ここまできたら痛覚を感じてない間に俺の脳まで到達してくれ、そう願いながら俺は耳元まで近づいてきている咀嚼音の中硬く目を閉じた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ツギハ19ニチ19ジ
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一度でも我が家にチラシ投函させし 人みな死ねと いのりてしこと
慌てて投げ捨てようとするが、一呼吸遅かった。それが、俺の運命を決めた。
支えを失い、重力に引かれて鈍い音を立てるはずだった郵便受けはいつまでたっても落ちない。
代わりに、郵便受けの影は僅かに俺のそれとの距離を縮めた。
「ひ、ゅぃ、っ」
最初は、痒みにも似た感覚だった。
が、数秒もせずにそれが勘違いだと思い知らされる。
歩いていて小指を箪笥の角にぶつけたときの痛みはよくネタとして揶揄されるが、体にくっついている状態ですらあれだけの痛みを伴う。なら、少しずつ我が身を削り落とされる痛みは如何ばかりだろうか。
その答えを、俺は今身をもって実感していた。
「あ、あぁ? あぁああ…なんだよこれ、なんだよお前ら…いったいなんなんだよぉ!?」
俺の目の前で、青白い月の光が異常な光景を浮き上がらせている。
郵便受けの深い闇の中から毛むくじゃらの小さな手たちがひっきりなしに伸ばされ、僅かな俺の爪を、服を、皮を、肉を、骨を、その鋭い爪で絶え間なくぶちりぶちりと削り、削ぎ、毟りとっていっては、郵便受けの闇に運んでいく。そして併せて聞こえてくる、くちゃ、くちゃ、くちゃ…という水気を含んだ耳障りな咀嚼音。事実を飲み込む間に、俺の右手は感覚を失っていく。血は出ているのだろうか、それとも夜闇に溶け込んでしまったのか、よく見えない。
一分と掛からぬうちに皮、血管、神経、筋肉を喪った俺の指先は白い骨だけとなったが、それすらも奴らはどんよくに削り、喰らい、米粒大に加工していく。それまで支えていた奴は残された食事を引き取り、解体加工に励んでいた奴が新たな支えとなってぶら下がる。
ああ、痛い。痛い。痛い。
痛みに息を呑むとはよく言ったもんだ。
悲鳴に限らず、声というものは息を吐くとき発するものである。
目を見開き、悲鳴を上げようとするが、瞬く間に解体されていく自分の腕を前に、肺は息を留めるばかりで声が出ない。先の悲鳴が口を出る前に痛みの波は次から次へと押し寄せ、解体され続けている俺の腕を駆け上がり延々と脳髄を焼き、体力を急速に奪っていった。
せめて悲鳴を上げられれば。
誰かが助けに来てくれればこの化け物も……そこまで考え、ふと気づく。
本当に――本当に、悲鳴を上げたら誰か来てくれるのか?
小指もぎ取られたときの騒ぎは結構でかかったはずなのに、それでも誰も来なかったのに?
とっくに警察に通報されていてもおかしくないはずだ。が、実際にはとなりの民家の勝手口は暗いままだ。
いや、今になってみれば、今の今まで虫の声ひとつなかった。パチ屋を出たときでさえ、季節はずれの蝉の声くらいはまばらであれど聞こえていたのに。
何より、悲鳴を上げて…本当に誰も来なかったら――
誰も来ないと分かったら、俺は――
悠長なことを考えているうちにも、郵便受けの中に巣食っていた何者かはすでに肘まで食らい終え、奴らの手は二の腕に到達しつつあった。
自分の手先が細く尖らされているのを見ていて、ふと昔実家においてあった旧い鉛筆削りを思い出していた。がりがりと削る感触が心地よくて、でも尖らせ終えたところで空ぶるようになったのが気に入らなくて力いっぱい回して壊したっけ。こいつらがそんな繊細な感傷を持ち合わせているようには思えないが。
残っていた左手?
そんなもん、同じように食われている真っ最中だ。
引き剥がそうとして箱に触れた結果、同じように絡みとられてしまったのだ。蓋周辺は避けたのだが、餌にありついて興奮していた奴らはすでに裏側にまで回りこんでいた。
そうして絡めとられたところでようやく遅ればせながらも可能な限り大声を出し、壁に打ちつけ、隣家の勝手口にたたきつけたが…周囲のモルタルにはひびどころか、削られた跡すらついていない。
――俺の抵抗はすべて徒労に終わった。
蜘蛛の巣と同じだ。いったん絡めとられたあとは獲物がどんなに暴れようと、網が壊れることはない。
とんとん拍子だと思い込んだ俺は普通の奴なら入り込まないところに来て、普通の奴ならやらないことをした結果、今こうやって普通なら起こりえないことに遭遇している。
どういう原理かは謎だが、ここは、この郵便受けの中にいる何かのために設けられた狩場なんだ。
ああ、もう考えるのもだるくなってきた。
酸欠と疲労と失血による脱力、何より脳を断続的に焼く激痛に、もはや立っていることすらできない俺はいつしか腰を抜かしその場にへたり込んでいた。
今は、早いけれど断続的な、小さな呼吸音。そして俺の鼻をすする音だけが耳につく。あいつらの咀嚼音? 実を言うとひっきりなしさ。途切れが無さ過ぎて、もはや環境音みたいになってしまっている。聞きたくないのに聞こえないように出来ないんだったら、あとは意識しないようにしていた方が多少はマシだろ。
発狂しない程度の絶え間ない痛みのせいで脳内麻薬が分泌されているのだろう、もはや痛みで気絶することもできない。今となってはただ他人事のように、自分の体が郵便受けにむさぼり食われる光景を見続けるしかできなかった……いや、一定値を超えたからか、むしろ冷静に見る余裕すらある。サバンナで、まだ生きてるにも関わらず致命傷を負った草食動物がライオンに齧られながらもその様子を他人事のように見つめているのと同じ心境だろうか。
両手が無事ならツイッターに実況投稿していたかもしれない。さぞや大量の反応が得られただろう。それをふいにするのが実に残念でならない。
ちきしょう、ああ、やっぱ嫌だ。
現実逃避をしながら薄汚い郵便受けに両腕を突っ込み、小刻みに震えぼろぼろ泣きながら糞小便を垂れ流す男。それを見た奴らはどう思うのだろう。無様とげらげら笑うか、それとも悪趣味だと思うか。
いや、そもそもこのペースだ、服の切れ端一つ残されないかもしれない。
たぶん、今の俺が傍から見ることができたなら、かつて動画で見た捕食されている最中のネズミと同じ目をしていると思ったろう。友人だと思ってた奴に教えられてはじめてみたときは、悪趣味だと言って目をそらしたんだっけ。
それが、いつから楽しくなってきたんだっけか…
さあ、肩の辺りまで環境音が上ってきた。あともう少しだくそったれめ。
ここまできたら痛覚を感じてない間に俺の脳まで到達してくれ、そう願いながら俺は耳元まで近づいてきている咀嚼音の中硬く目を閉じた。
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ツギハ19ニチ19ジ
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