安瀬乃片敷六丁目六番地六号より

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第三十四話 電信柱

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 最近、うちの息子がおかしい。

 先週くらいから「電信柱が伸びる」とひどく怯えるのだ。

 幼稚園の送り迎えを任せている妻に聞くと、どうやら道中にある電信柱のことらしい。
 妻曰く、どこにでもある変哲もない普通の電信柱で、長さも周りとまったく一緒だとのこと。

 ただの見間違いだと何度も言い聞かせたが、息子は頑として意見を変えない。とにかくなだめすかしてみても、隣のY田さんの旦那に向かって伸びていく、と訳の分からないことを繰り返すのだ。

 どうしたらいいかと尋ねてくる妻に、私はしばらく様子を見るように頼んだ。
 もしかしたら子供の時分によくある、何かのごっこ遊びみたいなものかもしれない。私も同じくらいのころはヒーローなどになりきったりしたものだ。そういうのは、時間が経つにつれて現実を直視することで言わなくなる。

 そう考えたが、息子の反応は収まるどころかより激しくなっていった。

 とにかく、電信柱を見るのが恐ろしいらしくてその道を通るのをひどく怖がるのだ。往来の中、まるで家に帰るのを嫌がる飼い犬のように踏ん張ったり、地面に寝転がって抵抗するそうで妻は苦り顔だ。

「あの道が一番近いのに、わがままばっかり言って…」
 妻が顔をしかめる。
「…まあ、こうなったら一本二本隣の道を通るしかないんじゃないか」
「あなたは他人事と思って…周りの人たちに私たちがどう思われてるか知らないの?」
 そう口をとがらせる妻だが、実際他に手も無いため別の道を行くようになった。

 それでも、息子の反応は収まるどころかさらに激化し、電信柱が見えるという範囲が伸びていく。
 半年も経つ頃には幼稚園まで一時間以上遠回りさせられる羽目になったのだという。

 そんな、何とも言えない不協和音に満ちた生活は、ある日ぱたりと収まった。

「…美也子、これは…」

 久しぶりに一緒に風呂に入ろうとするとぐずる息子の服を脱がせたとき、背中にいくつものみみずばれの後に気づいた。

「…何よ?」

 ふてくされたように顔をそむける妻の反応は、彼女が犯人だと如実に伝えていた。

「どうして?」
「…もう、耐えられないの。しょうもない嘘をついて振り回して、この子は私をバカにして楽しんでるんだわ!」
「そんなはずないじゃないか。君の勘違いだよ」
「あなたが送り迎えするわけじゃないからそう言えるのよ! 私がご近所さんになんて思われてるか知ってる? 障碍者の母親扱いよ! Y田さんからなんか、挨拶もしなくなったのよ!!」

 そういうと、大粒の涙をこぼし始めた。
 美也子の悲痛な反応に、今更ながら彼女もかなり追い詰められていたことを私は今更ながらに知った。

「しかし、だからといって叩くのは…」
「しょうがないじゃない! 口でいくら言っても聞かないんだから! もう頭がおかしくなってるんだから、体に教え込ませてるだけよ!」
「それでも! 叩くのはやりすぎだ!!」

 感情的になった妻は泣きわめく。
 どうやら息子の異常は、私が思っていた以上に妻の負担になっていたようだ。
 そして当の息子本人は…少し離れた、暗い部屋から何も言わずただじっと彼女をねめつけている。影が差し込んで、その表情はよく見えない。

 その夜深夜まで相談した結果、私の仕事に息子の送り迎えが含まれることとなった。

「…ねえ、ホントなんだよ?」

 久しぶりに息子と連れ立って幼稚園に向かう朝、道中で彼はそう言ってきた。その表情は…妻にも負けず劣らず憔悴している。
 その表情にようやくはじめて、息子は頭がおかしくなったわけではないのかもしれないという考えを抱いた。

 が、私はすぐに頭を振った。

 そもそも電信柱が伸び続けるなどということはあり得ない。息子のことを嘘つきや病気持ちとは思いたくないが、かといって彼の主張を全面的に認めるということは私のこれまでの人生観を否定することだ。
 答えに窮した私を見て、息子はやがて顔を落とし、小さくため息を吐く。
 そのまるで大人の諦めたかのような仕草に言いようもない不安を覚えた私は、考えをまとめきれないながらも思いを伝えるべきだと考えた。

「ごめんな、父さんはお前が言っていることが本当かどうかが分からないよ」

 やっぱり、と小さな声が聞こえた。

「だけど、お前がそれだけ気に病むってことは、まるきりの嘘じゃあないんだろ?」

 ぱっと息子が顔をあげる。
 その表情はまるですがりつくようで、とても幼稚園児が見せるものではないように思えた。
 息子も、幼いながらに現実との折り合いがつかないことに苦しんでいたのかもしれない。

 私は幼稚園と会社に送れる旨を伝えてから、少し道を外れて公園に向かった。
 誰もいない朝の公園のベンチに二人並んで腰かける。そういえば、こうやって息子のために時間を取ったのはいつぶりだろうか。

「そもそも、父さんはお前からの話をしっかり聞いていなかったからな。まずは、どうしてそう感じたか、思い出せる限りのことを父さんに教えてくれないか」

 そう伝えると、息子はしばらく考えてから首を横に振った。

「…そうか。言いたくない、それとも言えない理由があるのか?」
 息子は目じりに涙を浮かべながら、一層激しく横に振る。
「覚えてないから?」
 もう一度。

 息子と話しながら、彼の悔し気な表情に私は昔の自分の経験を重ねていた。

 昔、テレビで見たヒーロー物の映画が見たかった私は連れて行ってほしくてその真似をしていたが、親にはただのごっこ遊びだとしか伝わらなかったっけ。当時、自身の気持ちや考えを整理して伝えられるだけの語彙が無かったから伝わらないのもしょうがないと今になってみればわかるが、そのときの話の伝わらないもどかしさ、口惜しさったらなかったものだ。

 どんな子供も、子供の狭い世界なりに現実を受け止め、考えているものだ。ただ、情報をまとめる道具《言葉》は経験の薄さからどうしたって乏しくならざるを得ない。だからこそ、大人からその言葉を引き出すための努力が必要なのだ。

「どう言ったらいいか分からない?」
 今度は大きく縦に揺れた。

「そうか。言いたいことが伝わらないのは、悔しいよな」
 そう言いながら、私は彼の頭をそっと撫でる。昔触れたときに比べて、大分大きくなった。
 息子は答える代わりに、唇を噛みしめ大粒の涙をぽとぽとこぼした。

「とりあえず、何でもいいから思いついた言葉で話してみなさい」

 しばらく泣きじゃくっていたが泣き止むと、息子はぽつぽつと語り始めた。

「あのね。あの柱…よくわかんないけど生きてるの。僕だけは見えたの」

 息子の話す内容をかいつまんで言うと、何か良く分からないものが宿っているらしい。その影?らしきものがY田の旦那さんを狙っている?
 何でそう感じたかと聞くと判らないという答え。息子はなんとなしに相手がどう考えてるかが分かるらしい?

 …うーむ、やはり判らん。

 ただ、ここまで話してるのを聞いた限りでは騙そうとしての突発的な思いつきとかではなさそうだ。少なくとも、この年頃の子供が半年以上も作り話の設定を覚えてるとは思えないし。
 それなら、子供のたわごととしてではなく、まじめな話として受け止めるべきだろう。

「ごめんな、やっぱり父さんには分からない」
「そう…」
「でも、お前がその電信柱に感じた不気味さは事実なんだろ? なら、その気持ちは大事にしよう。これからは、ふとしたことに気づいたことや、気になったことがあれば父さんにきちんと言いなさい。父さんは、お前がおかしくなったとも、嘘をついているとも思わないから。まずは、あの電信柱には近づきたくない。これは確かなんだな?」
「…うん」
 ほんの僅か、息子は頭を揺らした。

 その後はそのまま、お互い黙ってしまった。
 幼稚園に預けた帰り、問題の電信柱を確認してみたが、やはり私にはただの電信柱にしか見えなかった。

 そんな、息子の心情をつかみかねたままひと月が経過したころか。

「あ」
 幼稚園から帰る最中、息子がぴたりと足を止め小さく言った。
「つかまっちゃった」
 そのときには私は、すでに電信柱のことを忘れていた。

 息子は私が送り迎えするようになってからは、電信柱のことを口にしなくなっていたからだ。



 私がこのことを思い出したのは、後日迎えにいったときに幼稚園の先生からY田の旦那の死因を聞かされてのことだ。

「ねえ、そういえばご存じ? Y田さん、死因が…電信柱のてっぺんから落ちた石材が頭を直撃したからなんですって」
「え?」
「でも、不思議なのが職場で倒れてたそうなの。だから警察はY田さんのことを恨んでいる人の犯行だろうって、奥さんが言ってたわ」
「そう…なんですか」

 先生は言いながら、こちらを興味深げに伺っている。私同様、あの電信柱のことを思い出しているのだろう。

「確かご近所でしたわよね? 何か、ご存じでなかったりしません?」

 Y田さんとうちとの仲が悪いのは、この町内会ではもはや公然の事実となっている。それでもあえてそう聞いたのは、何かしら自分たちの知らない情報を得られるかもしれないというカマかけのつもりだろう。

「さぁ、ご存じ無いですね」

 ぶっきらぼうに答えた私の顔はこわばっていなかったろうか。



 気まずい空気の中、そそくさと息子を連れて、私たちは園を後にする。
 そのままいつものように遠回りして帰ろうとしたら、息子は珍しく手を引き、電信柱をみたいと言った。

 何か、気持ちに整理でもつけたいのだろうか。
 とにかく、ショートカットできるならその方がいい。そうして私たちは、実に久しぶりに近道をして、先端が掛けた電信柱を見上げることになった。



「…そっか」

 そうして十分ほど見上げていた息子が、それだけを口にする。

「どうした?」

 息子は悲しげに目を伏せ、はっきり言った。

「今度はママだってさ」

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ツギハ4ニチ19ジ
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