太陽を愛した狼

カナメ

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本編 第一章 【伏縁編】

愛しさは毒のように

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 不愉快極まる朝だ。

 ぱちりと目を開けて、ただ思った。
 喉の奥に残る鉄の味が、身体に倦怠感を告げている。
 昨夜の『一匹狼ローンウルフ』から受けた屈辱と憤りを一晩抱え込み、目を覚まし未だ胸中に残る不快感に眉根を寄せた。

 僕が呼び止めたにも関わらず、奴は言い逃げて行った。
 本当に腹立たしい。
 あれで勝った気でいるならば、幼稚なのは奴の方だ。
 間違いなく、僕に対しての宣戦布告。同時に先手を打って来た。その証拠に奴は彼女との親密さをひけらかしてきたのだ。
 昨夜の言葉を思い出す。


『どう触れればどんな声で囀り、どんな面持ちを見られるのか…』


 僕はそんな彼女の声を、顔を知らない。
 だから記憶の端々にある悪戯に肌を重ねた女との記憶を引っ張り出して夢想する。
 一時とはいえど、何の情もない相手にですら満たされる支配欲に体が震えるのだ。
 この腕に彼女を抱いた時はいったいどれほどの高揚が待ち受けているのだろう。
 しかし触れた指先に歪める顔を想起しても、いつだってそこに浮かぶのは名前も忘れた女。

 頭の中ですら、彼女を乱すことが出来ない自分に憤る。

 小賢しい。煩わしい。
 言い難い焦燥感。未だに癒えぬ渇望。

 この渇きは、きっとアビゲイル嬢さえ手に入れば満たされる。
 その時にようやく僕は、途方もない幸福で満たされる。


 どうしたら彼女を手に入れられる。
 アラスターを殺すか?
 いやそれはだめだ。そんなことをすればアビゲイル嬢は、二度とこちらを振り向くことはなくなる。
 それにあれでもS級冒険者なのだ。国にとっても損失は大きい。

 彼女を籠絡するしかない。
 けれど靡かない。
 富も地位も名声も容姿も、彼女の前では塵にも等しい。

 やはり、アラスターという男の危険性を理解してもらうしかない。
 奴のたかが外れて、暴走さえさせてしまえば、その闇の深さに彼女は恐怖するだろう。
 そうして精神的に弱ったところへ救いの手を伸ばす。


 …それで、彼女はこの手を取るだろうか?
 僕のせいだと責められるのでは…


 頭の中をぐるぐると駆け巡る思考を取り払うように立ち上がる。
 らしくない。本当にらしくない。
 何を弱気になっている。
 あんな得体の知れない狂気に先手を打たれただけで、これほど怯むなんてらしくない。
 そんなに難しい話ではない。そんなに大きな労力をかけることでもない。

 僕はただいつも通り、ほんの少し、綻びを引っ張ればいい。


 そうと決まればまずは行動か。
 思考を巡らせながら、軽く支度を整えて部屋を出る。

 この冒険者ギルドの作りは、受付から僕が今いる三階まで吹き抜けになっている。
 木製の柵状の手すりが部屋の前には施されており、少し下を覗けば階下が見える。

 少し身を乗り出して見下ろすと同時にちょうど自室から出て来たアビゲイル嬢が目に入る。
 まだ朝も早い。
 昨日のように綺麗に結われた三つ編みはなく、赤く長い髪が無邪気に揺れている。

 胸の高鳴りを感じる。
 燃えるような赤だ。この心を癒す赤だ。

 ここから声をかけたらきっと君は驚いて、また不機嫌そうな顔を見せてくれるのかな。
 ああ、困らせたい。笑わせたい。
 自分の中に渦巻く矛盾した感情に落ち着いていられず、声をかけようと身を乗り出した。

 ——その時だった。

 彼女の背後に現れる漆黒。
 アラスターだと理解するまで数秒要した。
 アビゲイル嬢と同じ部屋から出て来た。

 口に出しかけた言葉を噤み、ただ見開いた目を奪われる。

 彼女の手に指をかけて、緩く繋いでいる。
 会話までは明確に聞き取ることは出来ない。
 彼女は笑っている。
 夢にまで見た、彼女の心からの笑顔。
 溶けてしまうくらいの熱さと儚さを兼ね備えた、美しい笑顔。
 目に出来た事への感動よりも、その笑顔が向けられている対象が自分ではないことへのじっとりとした怒り。
 粘ついて離れたくても離れない、どす黒い感情が全員を少しずつまとっていく。

 ふと、僕の強い視線に気がついたアラスターが彼女に気付かれないように顔を上げた。
 そうだなお前は冒険者だから、僕の殺意にも似た視線を気配を感じ取ると分かっていた。

 アラスターはこちらを見て、嗤う。
 負け犬はそこで大人しくしていろ、と。
 まるで勝利を確信する獣のように。

 (こいつ…!!)

 僕が返した睨みなどどこ吹く風といった様子で、アビゲイル嬢へ向き直る。
 包帯を巻いた奴の右手が、彼女の頬を触れる。
 そのまま顎下を掴む。

 (やめろ)

 それは合図だ。
 それ以上、僕に見せつけるな。

 上背のあるアラスターがアビゲイル嬢を引き寄せる。
 少しの抵抗も見せない彼女は、されるがままに奴の胸に抱かれる。

 (…やめろ)

 彼女が抵抗を見せない理由は分かっている。
 奴を受け入れてるからだ。
 見たくない。知りたくない。理解したくない。
 それでも僕はその光景から目が離せない。


「覗き見は感心しませんわ、レオニス様」


 ふと隣から小さく声をかけられて、勢いよく振り返る。
 そこにはルミアが立っていた。
 …いつの間に。
 同時に自分の呼吸が浅くなっていたことに気が付いて、息を整える。
 彼女は戦う術を持たない。僕が彼女の接近に気付かないなどあるはずもなかった。


「わたくしに背後を取られるなんて、レオニス様もお可愛いところがおありなのですわね」
「…皮肉を」


 にっこりと満面の笑みを向ける彼女に顔を顰めて向き直る。
 彼女はやけに聡く、鋭い。
 僕がこの街に視察に来た本当の目的もすでに気が付いているだろう。
 分かっていて僕を止めた。


「君もすっかり『宵の明星イブニングスター』の味方気取りか?」
「いやですわ。わたくしは、レオニス様の味方のつもりでしてよ」
「ならどうして僕の邪魔をする」
「……とうに、お気付きかと」


 ただ目を伏せて粛々とした態度で告げるルミアに苛立つ。
 入り込む余地はない。もしくは不粋だと言いたいんだろう。
 実に品行方正な聖女様らしい。

 ルミアとは幼い頃からの付き合いではある。
 昔からひたむきなまでに正しくあろうとする彼女の光が、僕には眩しくて鬱陶しい。
 普段なら僕の遊びにすら口を出さないのに、こういう時だけしっかりと釘を刺してくるのがまた癪に障る。


「僕は本気でアビゲイル嬢がほしいんだ。邪魔をしないでくれ」
「そうですか…承知しましたわ」


 何か物言いたげな雰囲気だけを醸しつつ、ルミアは身を翻して去っていった。
 眉根を顰めたまま視線を戻すと、そこにはもう二人はいなかった。

 やってくれたな、アラスター。
 この礼は必ず返す。




 ーーーーーー




 訓練場に向かう道中。
 未だに眩しい朝日を忌々しく一瞥し、案内の為に隣を歩くアビゲイル嬢を見る。
 先ほど見かけた柔らかさのない、ぴしゃりと引き締まった三つ編みと同じように背筋をしゃんと伸ばして歩いている。
 その面持ちは真っ直ぐだ。
 きっと僕の視線に気が付いているだろうに、気に留めないよう心がけている。

 空にある太陽よりも太陽らしい彼女の真摯な眼差しと赤い髪は僕の心をくすぐるには十分だった。

 ふと首にある黒いチョーカーに視線が向く。
 何気なく彼女を眺めていても、自らの存在を誇示するようにただそこにある黒と金が光に当たるたびに揺らめく。
 アラスターの分身のようだ。ひっそりとそこに居て、それでもギラギラとその瞳を巡らせ、牙を向く瞬間を今か今かと待ちわびている。


「アビゲイル嬢、昨日はよく眠れたかな?」


 彼女には昨日一線を引かれてしまったので、何気ない会話から崩していこう。
 そう、“事情を知らない僕”にとっては何気ない会話だ。
 彼女は今朝のアラスターとのやりとりを見られていたことを知らない。だから本当に何気なくこうして話題を振ってしまう。
 その問いに君は困る。なぜなら答えは否だからだ。

 アラスターと夜を過ごした。

 この事実が僕の顔に貼り付けた笑みの裏側で毒々しく脈打っている。
 なぜ、僕ではないのかと。
 その疑問が体内を這って巡る。

 アビゲイル嬢は僕のなんてことない和題に思っても見なかったと言わんばかりの反応をしている。
 昨日はあれだけ急に距離を詰められたから少し警戒していたのだろう。
 あからさまに気を緩める彼女が可愛らしくて、僕も頬を緩める。


「えっ、あ、えと…その、まあまあです」


 嘘はつけないようだ。
 目線を逸らしながら仄かに頬を色づかせて答える彼女がどうしようもないくらい正直者で、つい悪戯してしまいたくなる。
 どうとでも取れる。なにせ勇者の案内役だから、緊張して眠れなかった…ともとれる。
 そう。君が誤魔化すなら、乗ってあげてもいい。


「緊張しているのかい?そうだと少し、嬉しいよ…」
「……そうかもしれませんね」


 アビゲイル嬢を窺うように、強くし過ぎず…でも決して弱くもない主張をする。
 こちらを訝しむ顔。あまり感情がこもっていない、棒読みに近い返答。まただ、また僕の心がくすぐられる。
 君は「違う」とは言えない。否定すればその理由をさらに言及されることを予想しているからだ。だからこうして濁した返事しかできないよね。

 是とも否ともとれる返事に、奴が黙っているはずがないんだ。
 じわりと滲み出るような嫌な気配を感じる。これはアラスターの嫉妬だ。一度肌で感じたから、奴の嫉妬の気配は覚えた。
 気を許せば脂汗をかいてしまうくらい嫌な気配。これがまた器用なことに、なるべく僕だけが気付くようにしている。

『関わるな』と警告のようにも取れる殺気。
 背後へ視線を向ける。
 刹那の合間かちあった視線。
 アラスターは案の定なんの表情も浮かべていない。
 外面を気にした笑顔も苛立ちもない。
 “無表情”という表情をしている。

 そうやって威嚇することしか出来ないだろ?
 今は僕の時間で僕のフィールド。
 アビゲイル嬢は僕の案内役で、君はルミアの護衛。

 (せいぜい、分を弁えろよアラスター?)

 軽く鼻を鳴らして笑うと隣にいたアビゲイル嬢が不思議そうに見ている。


「ああ、ごめんね…『虫』がいたものだから」
「虫ですか…?」


 眉がぴくりと動いたアラスターを尻目に、彼女に微笑んで返す。
 僕から見れば彼が。彼から見れば僕が。
 アビゲイル嬢の周りをしつこく飛ぶ『虫』だ。

 だが今はどうでもいい。
 小首を傾げてきょとんとして見せる彼女の無邪気な愛らしさと言ったら。
 僕の話を間に受けている。気温の下がってきたこの季節に虫なんて飛んでいる方がおかしいものね。
 警戒している人間にもこうして隙を見せる彼女の無防備さは、僕の張り詰めた心を甘く溶かすようだ。


「まあいいですけど、それよりもそろそろ着きますよ」
「訓練場…だったねこの街の冒険者たちは皆、ここを使用しているのかな?」
「はい、毎朝高ランクの冒険者の方々の指導を受けて日々頑張っていますよ」
「それはすごいね。僕たちが良く知っている冒険者とは大違いだよ」
「皆さん気の良い人たちばかりですよ。この間はユリシーズのアドバイスでうまく立ち回れたって、同じスカウトのC級冒険者の方が嬉しそうにしていました」
「へぇ?それは本当に良いことだね」
「はい!私もとても嬉しいです!」


 自分のことのように微笑んで喜ぶ彼女の暖かさが、近くにいるだけでも伝わってくる。
 からかいさえしなければ、彼女はこうしてきちんと会話をしてくれる。
 自己肯定感が低く、自分が褒められるよりも自分の知人が褒められることを何より喜ぶ。
 自分ではない誰かを尊び、自分ではない誰かに慈愛を注ぐ。

 なら君は一体誰に尊ばれ、慈愛を注がれるのか。

 人の優しさは無限ではない。元々体の中に定められた上限しか持ち得ない。
 君が誰かに優しさを分けるたびに、君の中にある優しさを誰が補充してくれる?

 (僕でありたいと、切に願ってしまう)

 君が誰かを思いやるたびに、僕が思いやる。
 君が誰かに優しく手を伸ばすたびに、僕も君に手を差し伸べる。
 君が誰かに優しさを分けただけ、僕が再び満たしてあげたい。
 だから君にも、僕の心の空虚を埋めて欲しい。

 己の中に欲求が駆け巡り、身体が熱く感じる。

 先ほどまで忌々しく感じていたはずの朝日も、彼女の笑顔を照らすための飾りだと思えば許せた。
 すっかりご機嫌のアビゲイル嬢に、愛おしい気持ちが隠せなくなる。
 これは、本当に、辛い。

 少しでも胸がときめけば、すぐさま傅いて愛を囁きたくなる衝動を抑えるのは本当に大変だ。
 身体が僅かに震える。衝動と理性が戦っている証明のように。
 だめだ堪えろ。彼女が欲しいんだろ。


「アビゲイル嬢は本当に心根が美しいね」


 どれだけ堪えようとしても、彼女への賛辞を止めることが出来なくて困ったように笑いながら告げてしまった。
 だが飾りのない真っ直ぐな本音だった。
 本当にそう思ったから、つい、口に出てしまったくらいだ。
 我ながら堪え性のない男だなと少し呆れていたが、目の前に映る光景に目を奪われた。


「はぇ……や、その…ありがとうございます」


 彼女は自分の赤毛のように頬を染め、小さくお礼を言いながらそっぽを向いた。

 その反応に僕はようやく気がついた。

 心根が美しいから、飾った言葉は通用しない。
 だからこそ、彼女は真っ直ぐな言葉だけは無下には出来ない。
 きっと無意識に見分けていて、真摯な思いにはどんなに警戒をしていても受け止めてしまうんだろう。

 (本当にけなげで可憐で……愛おしい)

 彼女の照れた様が、美酒のように僕の体内に沁みていく。
 くらくらとして、酔っているような感覚にさえ陥ってしまう。
 今すぐ湧き上がる衝動に任せて君を抱きしめられたら、どれほど良いだろうか。


 慌てた様子で先を促す彼女の反応が可愛くて、思わず笑って従った。
 先ほどの最悪な気分が払拭されたように軽い足取りで歩みを進める。
 僕の背後から増幅して迫る殺気に乾いた笑いで応えながら。





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