氷の沸点

藤岡 志眞子

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16 似た者、寄せた物

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縁談に着る着物を仕立てるため、千菜の生家(紺屋)を訪れた千陽と千菜、そして珍しく蒼助もやって来た。

「あら蒼助さん、珍しいじゃない。相変わらず色男で…千菜も気が抜けないわね。」

歳を取って腰がやや曲がり始めた義母だが、口は変わらず達者である。反物問屋の女将らしくびしっと帯を絞め、現在でも店に出て客の相手をしている。基本、小口(個人)の反物の販売はしていないが、安森や常連、懇意の取り引き先などには特別にする時もある。

「千陽、本当におめでとう。おじぃは嬉しいやら、寂しいやら…。」

でれでれの顔がやや歪む。可愛くて可愛くて仕方がない孫娘の結婚は、嬉しさより若干哀しさの方が勝っているようであった。

「おじぃ、まだ祝言が決まったわけじゃないのよ?もしかしたら駄目になるかもしれないし、」

「それならそれでも、おじぃは構わないよ?」

「やめてくださいな。めでたい席でそんな事冗談でも言わないで下さいよ。」

本気で怒られた義父はしょぼくれて、大人しく千陽の横にちょこんと座った。昔は俺ほどではないにしろ、皺が目立つ顔には良い男だったと思われる面影が残っている。

「千陽は菜々と違って、やっぱり…青っぽい色が良いと思うのだけれど、良い反物はあるかしら。」

千菜と菜々の顔はよく似ているため、似合う着物の色柄が一緒で、選ぶ時は大抵千菜の好みで決まっていた。しかし、千陽の場合は俺に似ているのでそうはいかない。俺は紺や藍、紫、青、緑や黒などが似合う。千陽もそうで、七歳の祝いの時にも目が覚めるような珍しい色の青の地に、白の小花を散らした着物を着せた。評判が良く、その着物姿を見た街の者が同じ物はないかと反物屋に買い求めたという。しかし、実際娘にあてがうと思ったように似合わず、ありきたりの赤や桃色、朱色などを着せていた。と、義母が取り引き先の反物屋から仕入れた話をしてくれた。

「青と紫、藍色も用意しといたんだけど、結婚したら着づらい色を敢えて着てみるっていうのも良いんじゃないかと思ってね。ほら、どうだろう?」

気の早い義母が広げて見せたのは、薄桃色に所々水色の染めが入り、銀糸で大小様々な華の刺繍がされた物であった。

「わぁ、綺麗。」

「本当ねぇ。」

女ふたりは感嘆したが、俺は一切わからない。

「どれ、肩を貸しなさい。」

義父が反物を千陽の左肩に掛ける。向かいに座っていた義母が立ち上がり、すかさず後ろにあった姿見を引き寄せる。そして反対横に座る千菜が、千陽に手を貸し立ち上がらせた。…まるでお姫様と召使いだ。

「素敵…。他のも見たいけど、迷っちゃいそうだし…この色、初めて着る色だわ。私、これにする。」

「やっぱりね。」「よく似合うよ。」「綺麗よ。」

一斉に千陽を褒める。そして、一斉に俺を見る。

「き、綺麗だよ。それが良いんじゃないか?」

「お父さんもそう思う?おばぁ、帯はどんな物があるのかしら。」

(…時間が掛かりそうだ。)
時間があったのでついて来たものの、やはり楽しいものではない。店を出て通りを歩く。昔から変わらない景色。ゆっくりとぶらぶら歩きながら、千陽の婚約者となる男の事を考えた。
(あの目。)
何処かで見た事がある、という、いつか感じた事のある感覚。
(遠原。)
…知らないな。身分証を見ても血の繋がりを感じない。しかし、拭いきれない違和感。いや、親近感。
(十五歳。)
俺が二十歳の時。あかりが子供を産んだのはその頃だが、翌年兄さんの子供も産んでいる。…どっちにしても似ていておかしくはない。
(やはり、安森か?)
不安をそのままにしてはおけない。蒼助はその足で祥庵の寺へ向かった。







(時は戻り一年前 柿谷)
「ただいま戻りました。」

「おかえり。人、凄かった?」

女将さんが俺の額の汗を手拭いで拭う。ごしごし拭くので身体がよろける。

「はい。あ、朝霧屋さんがあの幻のお酒を呑んでおりましたよ。」

「え、白露を?何処で手に入れたのかしら。」

「え…柿谷の女将さんから紹介された酒屋の者からいただいたと、おっしゃっておられましたが…。」

「誰の事かしら?紹介した覚えはないんだけど…」

「加賀美屋の奉公と言っておりました。」

「加賀美屋?…あぁ、西の国の加賀美屋さんね。一度地酒の売り込みに来てね。顔の良い青年だったわぁ。」

両頬に手をあてにこっと笑った。

「でも、それっきりうちには来てないわよ?……来てたのかしら?仕出し弁当に忙しくて忘れてたのかも。」

そう言って近くに置いてあった来客帳を捲った。葵一は(加賀美屋)の訪問を探す女将さんをよそに話し掛ける。

「白露は何故幻の地酒と言われているのですか。」

「一時期は数はなくても、何処の酒屋でも手には入ったのよ。だけど、ある時から出回らなくなってね。酒蔵が製造をやめたんじゃないかって言ってたんだけど、」

「何処の酒蔵のお酒なのですか。」

「ん?西の国の酒蔵よ。そういえば似た味の…いや、白露はそのお酒を真似てるって言われたお酒があったのよ。美味しいお酒だったわよぉ。」

「何というお酒ですか。」

葵一は質問し始めるととまらない性格(たち)で、大抵の人間はうんざりして話をやめてしまう。しかし女将さんは、葵一のその性格は成長に繋がる、と、料理に関する質問に関しては答え続けるように努めてくれている。

「えっとぉ…、さ、さ…ささき…佐々織(ささしき)よ!そう、佐々織って難しい名前のお酒でね。私もいつかの寄り合いの時に一回飲んだ事があったけど、本当に美味しくってね。酒蔵は確か北の国の…ちょっと待ってね。」

そう言って母屋に行って、しばらくすると旦那様を連れて戻って来た。

「佐々織の事か?懐かしいな。すっかり忘れていたよ。白露に確かに似た味だったなぁ。今では白露も手に入らんがなぁ…。」

「あなた、佐々織って何処の酒蔵だったかしら。」

「言われて思い出そうとしてるんだが…北の国の、えっとなぁ…。おっ」

「思い出した?」

「こんにちは…あ、葵一。」

夏以が風呂敷を片手に店先に現れた。

「あ、夏以。どうした。」

「千陽のおじさんに頼まれて…。あの、梅流石(うめさすが)っていうお酒、ある?酒屋さんに無いって言われて帰ったら、柿谷に聞いてみてくれって言われて。」

「久尾屋のお遣い?そのまま雇って貰っちゃえば?千陽ちゃんも喜ぶわよ。」

「い、いいからっ。お酒、ある?」

照れながら夏以は女将さんに催促する。

「はいはい、あるわよ。冷えてるやつがいいかしら?…酒屋と同じ値段では売れないけれど、いい?」

「冷を買って来いって言われたから。値段はお店の値段でいいって言ってたし。…すみません。」

そう言って、持っていた風呂敷を女将さんに渡す。冷えた瓶をそのまま持っていると、結露でびしょびしょになるため包んでもらう。

「うちは酒屋じゃないぞ。」

「だから、すみませんっつってるだろ。」

葵一は、女将さんに対して敬語が使えない夏以にイラッとする。そんな事はよそに、冷酒の置いてある店蔵から女将さんが話を続ける。

「今日は久尾屋さんと花火見てるの?」

「はい。千陽が…誘ってくれて。」

「あら、なのにお遣いで走らされて。旦那様も意地悪ね。」

「そうなんだよ…っもう。」

不貞腐れる夏以を見ていた旦那様が、「あ。」と、声を出した。

「…?」

「あ…、あっ…杏心!杏心酒造だ!そうだ、思い出した。おい、お前、杏心酒造だよな?!」

「え?あぁ、佐々織の?思い出したのね。葵一、良かったわね。夏以くんお待たせ、久尾屋さんによろしくね。」

風呂敷で包んだ梅流石を渡し、お金を受け取る。にこにこしながら女将さんと旦那様は店の中に引っ込んだ。

「あんしん酒造?安心な酒でも造ってるのか?」

「あ、あぁ。」

夏以の問い掛けには空返事をした。怪訝に思いながら、夏以は何かに考えを巡らせている葵一に「じゃあ、な。」と言って店玄関を後にした。

(杏心酒造特製大吟醸)という半切を、喜船の指南へ行った際に街の酒屋で見た事がある。有名な酒蔵の酒だ、白露のように真似をする酒蔵や捏造品もたくさん出回っただろう。しかし、その白露も品薄となると相当美味い酒なのだろう。
でも何故、佐々織がなくなったのか。城に献上できるほどの酒蔵だ、潰れるわけがない。
(飲んでみたい。)
何処か探せば一本くらい出てくるだろう。白露も飲んでみたかったが(悔しい。)、佐々織が魅力的過ぎる。
葵一はひとつの事にのめり込むと後に引けなくなる性格でもある。一時期、火焔菜(ビーツ)という野菜の存在を知り、どうしても食べてみたくなった葵一は、街中、東の国中の八百屋を手当たり次第周り手に入れられず、最終的には海外の人に頼んで手に入れた。
火焔菜を手に入れ早速調理、となったが厨房中を真っ赤にして店の全員に怒られた。
結局火焔菜は上手く調理できずに美味しく食べられず終わったが、本人は満足そうにしていたという。
今回もそうなるだろうと踏んでいた柿谷の女将は、白露の取り扱いがあると返事をくれた加賀美屋に、来年の夏頃見学、勉強できるようにといろいろ手配してくれた。ついでに喜船にも寄って来なさいと、日頃の努力を買って数日お休みの日まで組んでくれた。

あやめの祝言と被り、「一緒にすませてきなさい。」と言われた、一年後の今。
遠原 和葉の存在を知り、楽しみばかりだと思っていた旅行が親友の疑い晴らしの旅と名目を変えてしまった。
出発の一週間前(菱屋)に行き、遠原 和穂を訪ねて和葉の事を聞くと、「夏以さんにも同じ事を聞かれたのですが…何かあるのですか?」と言われた。聞くと久尾屋の千陽と密かに婚約をした、という。
(大問題だ。)
ここだけの話、とケイキの手紙の内容を話した。すると案の定、和穂は驚愕し顔色を悪くしたが、「それは従兄弟の和葉ではない、偽物の和葉がいるんだ。」と、冷静に考えるよう促し、協力を仰いだ。
加賀美屋の訪問は叶わないかもしれない。落胆しつつも親友のためだと、葵一は珍しく人のために頑張る決意をした。



(話は戻り、一年前 夏 柿谷)
「ねぇあなた、最近加賀美屋さんがいらっしゃったって、知ってる?」

「加賀美屋?来てないんじゃないか?」

「朝霧屋さんのとこにね、うちの紹介です。って、白露を持参して来た人がいたんですって。それが加賀美屋さんと仰ったらしいんだけど。」

「それで白露の話をして、佐々織の話になったのか。で、加賀美屋の、誰が来たんだって?」

「…さぁ。」

「ちゃんと聞ぃとけよ、ここまで話しといて何つぅオチだよ。」

「うちの紹介です、って言うんだから、前に来た男の子じゃない?ほら、あの顔の良い、」

「あぁ。縁談の話持ってこられた奴な。名前なぁ…。」

「何だったかしらねぇ。」

夫婦は、「ま、いっか。」と、蚊取り線香を付け直し、蚊帳を整え布団に入った。




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