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回想2

たった一つの。言えない願い

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-もし神様がいるなら一言、全部悪い夢だと言って下さい。

今にも崩れ落ちてしまいそうな膝に力を込めた。

泣いてはいけない。

心配をかけちゃいけない。

心の中で何度も繰り返す。


「千景」

痛いほど握りしめた掌を柔らかな手が優しく包みこむ。千景と同様に少しだけ冷たくて微かに震えているその手。

涙を堪えながら視線を向けるとショートカットのややボーイッシュな印象の少女の顔が視界にぼんやりと滲む。幼馴染みの親友、あおいだ。

「千景……」

もう一度そう呼ぶと葵は言葉に迷うように唇を噛み締めた。彼女だってまだ千景と同じ中学生だ。失意の最中の親友を勇気付けようと思ってはいても具体的にどうすれば良いのかまでは分からないのだ。

「葵……」

それでも重なった手から伝わる葵の体温は千景の気持ちを少しだけ落ち着かせてくれた。

「お父さん……」

目の前の細長い桐の箱にはつい昨日の朝、行ってきますといつも通りの挨拶を交わした父、梗一郎が何も言わずに横たわっている。

まだ働き盛りだった。オフィスで事務員に書類を渡そうと何気なく立ち上がって……誰しも予想しなかったであろうそんな一瞬で、梗一郎の玉の緒はふっつりと切れてしまったのだ。

思い返せば顔色が少し悪かったかもしれない。最近残業が続いていて帰りも遅かった。後からそう思っても喪った人が蘇るわけでもなく、後悔だけが苛んでいく。




「あの子が娘さん?可哀相に……まだ中学生だって」
「早くに奥さんを亡くされて父娘二人暮らしだったそうよ」


父の同僚だと紹介された喪服のグループがひそひそと言葉を交わしている。同情と好奇が混ざる視線のいたたまれなさに千景は俯いてしまった。

「千景、あまり聞かなくていいよ」
「うん……」

葵が気遣わしげに背中を擦ってくれる。壁際の椅子に座って壁に体を預けているとセレモニーホールの控室から女性の声が聞こえてきた。

「もしもし、せめてお話を……」

誰かと話している様子だが、おそらく電話のようだ。訴えかけるような調子の声には若干の怒りがこもっていた。

「千景、座ってなって」

葵の静止を振り切ってのろのろと控え室に入る。

「いえ、でもたしかにね、何かあったらそちらに連絡して下さいとそちらの息子さんから言付かっているんですよ。奥様にお繋ぎいただ……」

ツー……ツー……

どうやら通話を切られてしまったらしい。冷たい話中音が携帯越しに聞こえてきた。携帯を握りしめたまま嘆息する長身の女性に向けて千景は声を振り絞る。

「日菜子おばさん、大丈夫です」
「千景ちゃん……」

千景の憔悴しきった声に女性が振り向いた。葵をそのまま大人にしたような面差しで、長い髪はポニーテールに結い上げている。喪服ではなく黒いスカートとカットソーにエプロンを着けた手伝い姿の彼女は葵の母、日菜子かなこ。近所に住む千景父娘の事を何かと気にかけてくれる朗らかで気の優しい女性だ。事故で夫を失っており、看護師の仕事をしながら女手一つで葵を育てている。

「……電話、切られちゃったんですよね。わたしの事なんか知らないって」
「千景ちゃん……」
「大丈夫……なんとなく分かってますから」

物心ついた時から父と母と三人で暮らしていた。他の子供は夏休みや冬休みに祖父母の家に遊びに行ったり一緒に暮らしていたのに、千景にはそんな思い出はただの一度もない。その事に違和感を覚えた事すらなかった。しかしそれなり成長すれば、人の噂などいくらでも耳に入ってくる。



「ねぇ、知ってる?高辻さんの奥さん」
「ああ、駆け落ちだったんですって?素性が良くないからってご両親に結婚を反対されたとか」
「外国人って聞いたわよ?ほら、あの人ったらびっくりするほど色が白くて金色の髪で……娘さんもそんな感じだし」
「今時そんな理由で?しかも高辻さんって元々東京の人でしょう?」
「それが高辻ってあの……」



他愛もない近所の噂話。話している方はまさかその駆け落ち夫婦の子供が話を聞いているなんて想像もしていなかっただろう。そんな四方山話から千景が知ったのは自分が東京でも……いや、国内でも有数の名家の血筋を引く事と、父がそこを出奔した事実だった。

高辻桔一たかつじきいち。実業家の家系から政界に入り、長く衆議院議員を務めた人物である。現在は第一線を退き、息子の蓮二郎れんじろうが三十代後半の若さにして国会での影響力を強めているとの話だ。都内に構えた邸宅は御殿とも呼ばれるくらい立派なものだとか。いずれも聞きかじっただけだが、貧乏という程ではないにしろ小さなボロアパートで暮らしている千景の境遇からは想像も出来ない。

「ごめんなさい、おばさんにまで迷惑かけちゃって……わたし、もう大丈夫です」
「そんな、迷惑だなんて。千景ちゃんは小さい頃からうちの葵とずっと仲良くしてくれているじゃない」

精一杯の笑顔を作って微笑もうとする千景を日菜子は抱きしめた。

「千景ちゃん、もし千景ちゃんが良かったらうちに来てくれても良いのよ?」
「それは出来ません。おばさんだって大変なんだし」

葵の家だってけして裕福ではない。千景にだってそれくらいは分かる。

「子供がそんな気を遣わないの。ああ、葵。千景ちゃんをもう少し休ませてあげて。お母さんお通夜の準備に戻るから」
「ほら千景。母さんに任せて休んでなよ。あたし飲み物取ってくるから。お茶で良い?」
「うん……」

分かった、そう答えて葵は控え室を出て行く。その背中にかけようとした声が喉元で詰まったように出てこない。

-待って……お願い、一人にしないで……!

「……っ……葵、お父さん……」

嗚咽を堪えながら千景は唇を噛み締める。泣いてはいけない。それは約束だから。



「……お母さん……」



制服の内ポケットからいつも肌身離さず持ち歩いている鏡を取り出した。中学生の持ち物としては古風なデザインの、金塗りに菊と山吹の意匠を凝らした手鏡。その鏡面に金茶の瞳と蜂蜜色の髪が映る。千景が母である千代から受け継いだもの。遠い記憶の向こうと現在が鏡を通して細い糸のように繋がる。

「ねぇ、お母さん。どうしてお母さんだけじゃなくてお父さんまでわたしを置いていっちゃうの?」

千代についての記憶は千景の中ではかなり曖昧だ。7つまでは一緒に暮らしていた事は覚えている。優しくてしっかり者で千景の事を世界一愛してくれていた事も、自分と同じ綺麗な蜂蜜色の髪と色素の薄い目と肌を持っていた事も。しかし突然、母は千景の前から姿を消してしまった。


―ちぃちゃん、あなたは笑っている顔が一番よ。可愛い子、どうかずっと笑っていてちょうだい。


最後にたしかにそう約束して。何があったかは覚えていない。ただ、気が付いた時には暗い神社のような場所にいて梗一郎に抱きしめられていた。手鏡はその時に手に持っていたのだと思う。

その日から千景は泣くのをやめた。千代を失った悲しみを千景には見せないよう振舞う梗一郎を支えたいと幼心に思ったし、それにいつか……約束さえ守っていれば大好きな母が帰ってくるのではないかと思ったから。

「お母さん。辛いよ。あれから泣かないで頑張ってきたけど……お父さんもいなくなってこれからどうして良いか分らないし……」

千景は祈るように手鏡を胸に押し当てる。

「もうわたしを一人にしないで……お願い……」

シャン……。

どこかで鈴が鳴るのに似た奇妙な音がしたような気がした。

「鈴……どこで……?」
「千景?」

いきなり立ち上がって周囲を見渡した千景をペットボトルを持った葵が不思議そうな表情で見つめている。

「千景ったらどうしたの?何かあった?」
「え……あ……」

どうやら葵にはその音は聞こえていなかったらしい。

―気のせいかな……

その割にははっきりと、そして一瞬だけ空気が変わったような気もしたけれどそんな事を言ったら葵を心配させてしまうだろう

「ううん、なんでもないよ」

結局その場で起こった不思議な事はそれだけだった。

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