消炭

さおとめ

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消炭

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 クレイヴ・ダルヴェンは、王国から離れた小国ゲルデで、家族と共に平穏に暮らしていた。
 父は農業を営み、母とクレイヴでそれを支え、妹と遊んで幸せに暮らしていた。

 しかしある日、その幸せな日々を一変させる出来事が起きる。隣国ソルナーンとの紛争だ。

 ソルナーンは周囲の国家と同盟を結び、戦争経済で潤う国だった。技術力も高く、狂気の象徴のような“銃”を用いて周囲の国々を蹂躙していた。
 一方ゲルデは、もともと周囲との政治的摩擦を抱えていた。戦争を避け平和を重んじる小国であるがゆえに、周囲の国家からすれば目の上のこぶのような存在だった。
 平和な昼下がり、とある一軒家に砲弾が突き刺さる。周囲は騒然とした。
 突然の外敵からの攻撃に、国民は恐怖で動けず、空気は一瞬にして凍り付く。
 軍は砲弾の向きや速度から、攻撃の発信地を割り出し、すぐにソルナーンからのものと判断した。警鐘が国中に鳴り響く。

 クレイヴは、その砲弾が突き刺さった一軒家の中に居た。
 目の前で、父が木っ端微塵に吹き飛んだ残骸を呆然と見つめるしかなかった。

「クレイヴ!早く!こっちへ!!」

 泣き叫ぶ幼い妹を抱え、母が髪を振り乱しながら駆け寄ってくる。
 父が無残な姿になっているのを、母も見ていたはずだ。それでも何も言わず、ただ俺たちを守るために走っていた。
 腕を強く引かれ、足がもつれて転びそうになる。それでも、砲弾の降り注ぐ街を、無我夢中で駆け抜けた。

 パン!と乾燥した破裂音が鳴った。
 隣で走っていた人が転ぶ。異様な転び方に、思わず立ち止まった。

「あ”ー!!あぁ”!足が!!!」

 抱えて悶える足から、血が止まらない。恐怖と絶望に染まる顔を、クレイヴはただ、見ている事しか出来なかった。

「クレイヴ!何しているの!!?クレイヴ!!」

 母が涙を流している。外で喧嘩をするたびに怒られて、一度も勝てた覚えのないあの母が、泣いている。
 クレイヴは、他人事のようにそう思った。
 妹はすでに泣き止んでいた。ただ縮こまり、異様な雰囲気を察して、泣くことすらできなかったのだろう。

「母さん、俺――」
「早く逃げなさい!!」

 母がそう叫んだ時、もう一度、パン!と破裂音が鳴った。

「――あ”ッ!」

 母の濁った、短い悲鳴。血が地面に散る。腕から、血が垂れている。
 あまりの激痛に倒れこむ母、それに困惑した顔の妹。
 顔に脂汗を滲ませた母は、それでも叫んだ。

「クレイヴ!!しっかりなさい!何ぼんやりしているの!!戦争!戦争が始まるのよ!!」
「――戦争。」

 血で汚れた手で、クレイヴの肩を掴み、続ける。

「逃げるのよ!逃げて逃げて!!生きなさい!」

 早く!そう叫んだ母は、ふらつく体を持ち上げて、妹を抱えたまま、再び走り出す。
 クレイヴはそれに倣うように、ただ走った。

 悲鳴が聞こえる。崩壊の音が聞こえる。軍靴の音が聞こえる。聞き慣れない破裂音が聞こえる――。

 走って、逃げた先に、何があるのだろうか。
 クレイヴは、母の言葉に、疑問を抱いていた。
 ここで終わっても、良いじゃないか。


 走った。ひたすら。山を越え、谷を渡り、そうして母が力尽きた。
 朦朧としている母は、もう随分と声を聴いていない妹を抱えていた。きっともう妹も生きていないのかもしれない。

「――ちゃん、ねぇ、ご飯にしようねぇ……。」

 焦点が定まらない目で、母は妹に話しかける。

「母さん」

 母が、服をはだける。白い、柔らかい肌が、見える。乳房の先をそっと妹に咥えさせて、微笑んでいる。

「母さん」

「――ちゃん、頑張ったね。もう良いのよ。」

「母さん」

 母の治療は出来ていなかった。血は垂れ流しで、傷口に湧いた虫を、クレイヴが取り除いてあげていた。

「クレイヴ」

 母は動かなくなった。

 国中が焼け、空気は硝煙と火薬、そして焦げた肉の臭いに満ちていた。
 死体には風穴が開き、子に乳をやりながら息絶えている母親を見て、どうしようもない虚無を感じた。

 俺には家族がいた。母、父、妹、そして俺。
 今、みんな死んだ。

 それが、クレイヴ・ダルヴェンの死だった――。

・・・

 騒がしい声で目が覚めた。誰か複数人の声がする。視界には見知らぬ天井。体には柔らかい布がかかっていて、温かい。

 あのあと、宛もなく放浪していた。朝が来て、夜が来て、また朝が来て。母と妹の亡骸を置き去りにしての放浪は、ひたすらな虚無だった。
 母は生きなさいと言った。でも、もう心が死んでいた。故郷と共に燃え落ちたものを、今さら拾い集めることなんて、もう出来なかった。戦争は唐突だった。突然の侵略、突然の暴力。そして――死。
 母は妹と共に逝った。

「……俺も、」

 連れてってくれれば良かったのに。そう言う前に、声を掛けられた。

「あ、気が付いた?今、体を拭く準備していたんだ。」

 声の方へ視線を向ける。金髪碧眼の男。ややタイトな神聖な雰囲気の服を着ており、湯気が立つ桶を持って、近づいてくる。
 金髪の男は、ベッド脇の椅子に桶を置いて、話しかけてきた。

「どう、調子は?」

 布団をはだけさせるためにこちらに屈むように体勢を変えたせいで、男のネックレスが視界の隅でチラリと光った。布団が少しめくられ、ぬくもりが恋しくなる。

「あ、どこ見てんの?……ふふ、えっち。」

 悪戯っぽい笑みには服装とは裏腹に、似つかわしくない妖しい雰囲気があった。
 喉の調子が、良くない。掠れた声で、男に問うた。

「……ぁ、あんた……誰……?」

 掠れた声が聞こえる。自分の声だろうか?分からない。精神が分離したかのようだ。

「……誰かって?………うーん……ライアン・スミス。君は?」
「………アッシュ。」

 口から零れたのは、偽名だった。名前を言いたくなかった。――”クレイヴ・ダルヴェンは、あまりにも戦争と結びついてしまった”。

「それ、偽名?」

 クレイヴの視界がわずかに揺れた。動揺なのか、何なのか、自分でもわからない。
 間を置き、気だるげに答える。

「……偽名じゃない。」

 ライアンは何かを察したような顔をしたけれど、

「あ、そう。」

 そう言うだけで、それ以上の詮索はしなかった。
 ライアンは、アッシュの服をはだけさせながら平坦な声で続ける。

「君さ、戦争孤児?最近この国への亡命者多くてさ。結構同じような人居るんだよね。」

 戦争孤児――アッシュの年齢は現在十五歳。
 もう少しで成人であるが、成人式をしていないため”孤児”と言われればそれにあてはまるのかもしれない。
 孤児と言えば、もう少し幼い印象があったので、アッシュは複雑な気持ちになった。

「今何歳?成人式はした?」

 思考を読んだかのような質問に、言葉が詰まる。ライアンは優しく囁く。

「何?それも言いたくない?」

 アッシュは素っ気なく答えた。

「……十五歳、成人式していない。」
「じゃあ孤児だね。君が最年長だよ。」

 少し気にしている事をズバリと言われてしまったアッシュは、何も言えずに口を閉じた。
 ライアンは、そんなアッシュの反応を気にも留めず、持ってきていたタオルを桶に沈めた。

「ちなみにだけど、何か神様を信仰していたりしない?」

 唐突なライアンの質問に、返答が出来ずにいると、強めの口調で忠告される。

「これさ、結構大切な事なんだけど。これは答えてね。」
「……何も信じちゃいねぇよ。」

 アッシュの言葉に、「あ、そう良かった。」と言いながら、タオルを固く絞った。
 水の流れる音のどこか遠くの方で聞いていると、体に温かいものが触れた。

「体拭くから、じっとしててね。入浴はもうちょっと落ち着いてからにしよう。」

 温かい水を含んだタオルが、体を滑った。その繰り返しで、アッシュは少しだけさっぱりしたと感じた。
 体のべたつきが少なく感じられるのは、きっとライアンが自分が寝ている間にも同じような事をしてくれていたのだろう。

「次、背中ね。体起こすよ。」

 ライアンに支えられ、体を起こす。背中にもゆっくりとタオルが滑っていくのを感じた。

「君、十五歳にしては体大きいね。僕より大きいかも。」

 アッシュの背中を拭きながら、ライアンはそう言った。昔から体格だけは大きかった。今でも同年代と比較すると頭一つ大きい。
 しかもこれから成長期で、よく伸びる背を両親に面白がられていたのを思い出した。

「……生まれつき、デカかったから。」

 体を拭かれながらアッシュはぼそりと呟いた。
 返答があって嬉しかったのか、ライアンはアッシュの手を取って、自身のものと大きさを比べだす。

「凄い……今も僕の手よりも大きいし、指が太い。良いなぁ、羨ましい。」

 比較すると自分の手は細めだが、それでも男性だと分かる指が絡む。

「女の子だったら、好きになっちゃうかもね。」

 冗談めいてそう言われるが、身長と一緒に強面も生まれつきなので、同年代の女にはよく怖がられていたのを思い出した。

「………そんなこと、無かった。」

 思ったまま答えると、「え!そうなの意外!」と顔を覗き込まれた。綺麗なグリーンアイに見つめられ、心臓が勝手に暴れだす。ライアンは顔を見つめたまま頬を撫でる。

「えー、格好いいのに勿体ない事するなぁ。」

 さらりと、自身の首に何かがかかった。――髪。黄金のサラサラした髪が、ライアンの動きで首に触れたのだ。
 顔が近く、男とは思えない良い匂いがする。
 戦争というストレスからの一時的な解放と、家族以外による暴力以外の接触――思春期のアッシュには、刺激が強すぎた。

「……君さ、この後トイレ行ってきなよ。」

 体の変化に気付いたライアンからの提案で、アッシュは居たたまれなくなった。

 ライアンいわく――よくある事らしい。そんなフォローをもらった。
 戦争という緊張状態からの緩和で、体が言う事を利かなくなると聞いて、少しだけ安心した。
 特に家族の死後に呑気に反応したとか、男に反応したとかじゃない事に安心していた。

「僕も男だからね、分かるよ。」

 ふふん、と胸を張るライアンが何だかへなちょこに見えたが、それでも心強さは変わらなかった。

「稀に手伝ってほしいって言われることがあるけど。」

 それは完全に駄目だろう。心強さなど消え失せた。

 ・・・

 この町は国境にほど近く、戦火や迫害から逃れた者たちが身を寄せる場所だった。国が違う分、信仰先が違う異宗教の摩擦は多少なりとも存在した。特に創造の女神ルミナーレ信仰の事で、教会が矛先になったりもした。
 しかし、ゆっくりと時間をかけて生活していく中で、人々は落ち着き、他宗教も受け入れるようになっていく。

 そんな中、ライアンがアッシュを見つけたのは、教会から少し離れた山の片隅だった。
 青年は完全に気を失い、体は脱力して土に沈むように横たわっていた。息もほとんどなく、まぶたは重く閉じられ、指先や髪先にまで戦火の痕跡が残っている。
 ライアンは躊躇せず、すぐに町へ戻り、複数の村人に救助を求めた。
 複数の男に抱えられる青年と思わしき男の体は、冷たく、心臓の鼓動もかすかにしか感じられない。
 すぐに町医者の手配をして、ライアンはアッシュの看護を始めた。
 こうして、アッシュが目覚めるまで、ライアンはそばに居続けた――。

「アッシュ君、もうお風呂に入って大丈夫だって」お医者さんが言うから、お風呂入ろうか。」

 ライアンはあれから自分の事を”アッシュ君”と呼び始めた。相変わらずこちらを探ろうとする気配が見えない。

「久々のお風呂、すっきりしてきなよ。着替えは近所さんから借りてきたんだ。これも持って行ってきなよ。」

 そう言ってアッシュへ着替えとタオルを押し付けるようにして渡す。
 服は無難なパンツとシャツで、よく自分のサイズがあったなと感心した。

「近所の割と若い農家さんから借りたんだ。その人筋肉質でね。きっと君にサイズ合うと思うよ。」

 快く貸してくれて助かった、と安堵するように言う姿を見て、ライアンが町の住人から十分に好かれている事が伺えた。

「今度その人とご飯食べに行くんだ。ご馳走してくれるって。」

 何だか少し、好かれ方が良くない気がするが。
 アッシュは少し前の記憶を探って、筋肉質な農家をやって良そうな男を思い当てた。

「そいつ、この前来ていた男か?あんたに教本受け取りに来ていた。」
「あ!そうそう、その人。あの人移民だから、あんまりこっちの宗教の事は知らないから、勉強がしたいって。」

 宗教の教本を受け取りに来るくらい熱心な信者だこと、と鼻で笑いながら心中で抑え込む。
 きっとライアンは、この男が宗教目当てではなく、自分目当てだということに気付いていない。
 一度見た時のライアンへの触れ方、視線が完全に下心のある接し方だった。
 しかしライアンは、そんな事気付いていないかのような微笑みで、

「勉強して知ってくれるのは嬉しいよ。喧嘩になるよりよっぽどマシさ。」

 そう言ってポン、と肩を叩かれた。

「それが僕の事、下心がある目で見てる人でもね。」

 いや、分かってるのかよ。
 アッシュは普通に疑問に思ったことを投げかける。

「何で嫌がらない。そんな事していたらきっと痛い目に合う。」

 ライアンは、目をぱちくりした後、平然と答える。

「町で問題起こされるより、僕に意識が向いている方が平和でしょう?」
「そんなに町の方が大切か?」

 アッシュの問いに、「当然!」と当たり前のように返すライアン。
 あまりにもお人好しで、迷いがなく自己犠牲をしてみせる精神構造が理解できない。
 ライアンはアッシュの背を叩きながら言う。

「さ、そんなこともう良いから、お風呂入ってきなよ。」
「あんな奴の服なんか着たくねぇんだけど。」
「今は服無いんだから、贅沢言わない!」

 ・・・

 アッシュが風呂から出てきた時には、すでにライアンの姿は無かった。
 外からやたらと騒がしい声が聞こえる。

「神父様!鬼ごっこで遊ぼう!!」
「いいよー!」

 窓から庭先を見ると、幼い子供たちがライアンと一緒に遊んでいるのが見えた。

「うっし、捕まえた!!」

 手加減など全く考慮しないライアンは、早速一人の子供を捕まえ、抱き上げた。

「あー!ずるい私も抱っこして!!」
「僕も!」

 一斉にライアンの元へ子供たちが集まってくる。ライアンは困った顔をして、でもどこか嬉しそうに言う。

「えー、鬼ごっこは?」
「抱っこ終わってから!!」

 子供たちの無慈悲な答えに、ライアンは一人ずつ抱っこをしていく羽目になったようだった。
 子供を抱きかかえては、抱きしめ、愛するように頬に口付けを落とす。
 きゃらきゃらと笑う子供に、ライアンはつられて笑みを返していた。その仕草で、無性に腹に違和感が渦巻く。
 自分の湧き上がる感情が理解できず、アッシュは咄嗟にカーテンを閉めた。

 ・・・

 ライアンはよく、近所の湖畔で息抜きをしていた。
 麦畑の黄金も美しいが、この湖の透き通った青も、彼のお気に入りだった。
 湖畔は町から少し離れた中央部にあり、往復すると一日がかりの遠出になることもある。
 そんなときは決まって「教会の仕事」という名目で出かけ、静かな時間を過ごしていた。

「それ、サボりって言うんだろ、普通に。」

 お話しついでに語っただけのことを、アッシュは即座に斬り捨てた。

「いや、サボりじゃないよ。必要なことさ。神父だって、一人になりたい時があるんだよ。」
「いやサボりじゃん。」
「サボりじゃないって!!」

 ・・・

 部屋で本を読んでいたアッシュは、ふと外の喧騒が消えていることに気づいた。  
 気になって席を立ち、カーテンを開けると、外には誰もいなかった。……もう帰ったのだろうか。

 教会に併設された孤児院には、少数ながら子どもたちがいた。町の人々が手の空いた時に代わる代わる面倒を見ているようだった。  
 以前、シスターや乳母、保母はいないのかと尋ねたことがある。  
 どうやら管理費用が馬鹿にならず、常駐させるのは難しいらしい。
 また、国からの援助もあるが、一定数の子どもがいなければ受けられない。この孤児院には、その基準を満たすだけの人数はいなかった。
 雑務はほぼライアンが担っており、遊び相手をするのも仕事の一環だと言っていた。  
 孤児院の小さな机や椅子を見ると、自然と妹のことを思い出した。  
 そのまま歩いていると、とあるドアの隙間から、鼻歌のような声が聞こえてきた。  
 ゆったりとしたトーンに釣られ、そっと覗き見る。
 小さな布団の上で雑魚寝している子供達、それを愛おしそうに見つめ、子守唄を歌うライアンの姿があった。
 不意に、ライアンの歌声が止まる。

「………アッシュ。」

 子供達を気遣った、小さな掠れ声だった。確かに聞こえた。

「アッシュ君、おいで。」

 思わず扉に手をかけ、音を立てないようにそっと開けた。
 日差しが差し込む部屋に、布団の温もりと子ども特有の甘い匂いが満ちていた。

「アッシュ君も、寝よう。今は寝ようよ。」

 暖かさに包まれ、体がふっと緩む。
 けれど、今はライアンの元へ行ってはいけない気がした。

「――アッシュは一番のお兄ちゃんだもんね、我慢しないで、おいで。」

 その言葉で、不意に昔を思い出した。
 昔、喧嘩をした。母の悪口を言われたから、一発殴ってやった。妹が生まれたら、妹の悪口を言われた。
 ”お前と似ていない””種が違う”と。だから殴った。
 事情を知った母が、俺を叱り飛ばした。でも、俺を抱きしめて言った言葉と一緒だった。

 何も考えずに、眠りたい気分だった。

 ・・・

 ライアンはよく子どもたちと遊ぶ男だった。
 駆けっこに鬼ごっこ、かくれんぼにカードゲーム。なんでも全力だ。
 息を切らしながら笑う姿は子どもたちと変わらず、その無邪気さゆえに、彼らがどれほどライアンを慕っているかがすぐにわかる。

 そんな姿を見ていたある日、アッシュはライアンが狭い路地に腰から先を突っ込んで、身動きが取れなくなっているのを見つけた。
 曰く、「ここ通ろうとしたら、お尻が詰まっちゃったから、引っ張って!」

「……何やってんだよ、あんた。」

 尻だけこちらに向けた間抜けな格好に、アッシュの視線は無意識に吸い寄せられる。
 丸くて、柔らかそうな腰。細い路地の壁に押し付けられた体との対比が妙に目を引いた。笑えるはずなのに、胸の奥がざわつく。
 ライアンは突然黙り込んだアッシュに大声で助けを求めた。

「お願い!引っ張って!割とやばいかも動けない!」

 今出ているのは、尻くらい。引っ張るとなると、触るのはやはり尻になるのだろう。

 ただ助けるだけなのに、手を伸ばすのをためらってしまう。

(……これ、触る必要があるのか。)

 アッシュは一瞬心臓の鼓動が速まるのを感じた。理性で抑えようとするが、どうにも感情が騒ぐ。
 それでも、そっとライアンの腰に手を添え、体を支える。
 その瞬間、柔らかさや温もりが伝わり、心の奥底がざわついた。

「は、はははっ!ちょっと、くすぐったいってば!今それ禁止!」
「……落ち着けって。ちゃんと助けるから。」

 体をくすぐられたライアンは笑いながらも必死で自分を支える。
 アッシュは意を決してライアンを引っ張り、身動きの取れない体を救い出した。

「っはぁ……助かった!来てくれたのがアッシュ君で本当に良かったよ、ありがとう。」

 上半身を埃で白くしたライアンは息を切らしながらも、穏やかに笑っていた。
 心臓が激しく跳ねているのを感じながら、アッシュは顔をしかめ、どうしてこんなことになったのか尋ねた。

「いやぁ、猫がいて。」

 猫。猫如きでこんな騒ぎを起こしたのか。
 思わずアッシュはライアンの頭を軽く叩いてしまった。

・・・

 汗ばむほどの初夏の夕暮れ。  
 教会にいた子供たちは、たくさん遊び終え、それぞれの居場所に戻ったのだろう。今頃は、夕食を楽しみに待っているのかもしれない。

 教会の前には、黄金色に輝く広大な麦畑が広がっている。それは、秋に撒いた種が収穫期を迎えた証だった。 
 アッシュは、沈みゆく太陽の強烈な残光にその輪郭を焼き付けられたかのようなライアンの背を見つめていた。

 風が通るたび、麦畑はサラサラと音を立て、まるで黄金の波が揺れる海のようだった。
  ライアンは、この麦畑を愛していると言っていた。
 西の端には、春と秋、異なる時期に撒く種によって、パッチワークのような美しい模様を描く畑もあるらしい。

「アッシュ君、ここに来てもう二週間だね。どう?馴染めたかな?」

 ライアンの穏やかな声が、背中越しに聞こえる。
 アッシュは、未だ馴染めている、という気持ではなかった。
 いつだって自分一人が浮いていて、ここに居る自分が自分ではないような気がして、そして何より寂しさがあった。
 ――”ずっと幸せだったから”寂しい、なんて、感じたことが無かった。

「君は、考えると言葉が出なくなる。」
「………。」

 ねぇ、とライアンが振り向いた。日没の、強い光で逆光になり、表情が見えない。影が侵すその輪郭をアッシュはただ見つめる。

「君は何処から来たの?」

 初めてライアンが踏み込んだ質問をした。
 ねぇ、ともう一度。

「君はこれからどこでいきたい?」

 父も母も妹も戦争で逝った。俺もいきたかった。

「君の家族や故郷とか、失ったものは戻らないよ。」

 残酷な言葉が、アッシュへ突き刺さる。
 ライアンが顔を伏せるのが分かった。何かを考えて、そして、穏やかに言ったのだ。

「――戻らないのなら、忘れないように、忘れて、前を向くしかないんじゃないかな。」

 意味が分からない。忘れないように忘れるとは、どういう意味なのだろうか。
 言葉を繰り返しながら、アッシュは顔を歪めた。
 それは、理解の外側にある言葉だった。

「……あんた、言葉が抽象的すぎんだよ。」

 意味が分からない、と顔を覆った。
 アッシュは、何故だか泣きたい気持ちになった。久しくこの感情は感じていなかったのに。
 ライアンが、情けない俺を見て、笑うのが分かった。

「つまりはね、過去は過去、今を生きろって事だよ。――苦しかったら忘れていいんだ。でもね、苦しくても、忘れちゃいけないこともあるんだよ。」

 ライアンは目を伏せた。そして、日の光が、最後の輝きを放たんばかりに輝いて、ライアンの姿を陰で押しつぶす。

「でもね、これは[[rb:禍 > わざわい]]の外からの言葉なんだよ。君の苦しみを知らない、乗り越えた事の無い、綺麗な言葉だ。いつか……いつか僕が君と同じように失う日が、唐突に来るかも知れない。」

 日が沈み、グリーンアイは最後の日光を受けて煌めいた。

「その時が来たら、――」

・・・

 アッシュはここに流れ着いてから、騒がしい日々を送っていた。
 ライアンの周りにはいつも人がいて、話をしに来る年寄り、遊ぼうと誘いに来る子供達、食材をお裾分けしに来る女たち――そしてライアンに気のある男共。だれもが騒がしく、この教会にやってきて、去っていく。

 ライアン曰く、教会は国中に点在しているが、この町にあるのはここだけらしい。

 宗教に明るくないアッシュは、ライアンの話を話半分に聞いていた。
 崇めているのは豊穣の神だとか。移民や亡命者が多いこの町では、宗教の違いによる摩擦も少なからずあるらしい。
 それでも最終的には、人々は互いを受け入れて暮らしているのだという。

 ライアンの髪は、男性にしては長かった。
 金髪の神父は、儀式以外で散髪を禁じられており、髪を伸ばす傾向にあるのだとか。
 特に、グリーンアイのライアンは典礼書に記された豊穣の神の特徴と一致しており、信徒たちにとって特別な存在だった。
 金髪碧眼自体は珍しくはないが、神職での希少価値はあったとのこと。

 ライアンが生まれてからというもの、この町は凶作とは無縁の日々を送っている。
 その噂は国中に広まり、ライアンは“加護を持つ者”として崇められるようになった。

 近々、三年に一度の豊作祭があるという。これは国全体の行事で、その際、ライアンの黄金の髪は、実りを象徴する麦に見立てられ、神への奉納として祭壇に捧げられるのだそうだ。

「……髪、どのくらい切るんだ。」

 途中から話を聞いていたアッシュは、気づけばそう問いかけていた。
 襟足を緩く結んだ、肩甲骨を越えるほどの金糸が散る光景を想像すると、どこか胸がざわついた。
 ライアンは少し考えるようにしてから、手で長さを示す。

「うーん、五センチくらい残して切っちゃうかなぁ」

 何となく、アッシュはショックを受けていた。
 ライアンといえば、あの金の髪だ。風に乗ってさらさらと揺れるその光景に、無自覚のうちに見惚れていたことに気づく。
 金髪は成長とともに色がくすみ、やがて淡いブラウンを帯びていくことが多い。
 ライアンの髪は特別だった。
 陽の光を受けるたび、淡く透き通り、まるで溶けて消えてしまいそうに見えた。
 思わず口から出た。

「あんたの髪、好きだ。」
「え!?」

 思わず真っすぐ出た言葉が、ライアンの頬を染める。

「君、そんな素直な言葉、言えたの?」

 アッシュは思いがけない己の発言に羞恥し、それ以上口を開かなかった。

 だから切るなんて言うな、なんて、言う資格は無かった。

「そんな儀式、いつからやっているんだ。」

 アッシュがやっと口を開いたと思えば、儀式についての質問だった。
 ライアンは、困ったように微笑み、答えた。

「この儀式は古いからね、ざっと五十年以上から続いて――」
「あんたが初めてやったのは何歳だ、って聞いてんだ。」

 その声に、ライアンは一瞬だけ言葉を止めた。  
 あぁ、僕のかと納得したように微笑み直し、続けた。

「うーん、初めてやったのは、五歳の頃かな。」

 アッシュは小さく息を呑んだ。

「……あんた、その頃には神事には関わっていたのか。」
「そう、金髪碧眼の子供は従事する時期が比較的早いらしくてね。神様への報告は十歳かな。正式に神父になったのは二十歳からだけど。」
「何で十歳からなんだ。」
「……昔は、九歳までは神の領域で、連れて帰られちゃうって恐れられていたんだって。だから、十歳を超えたら、『無事十歳を迎えられました』って報告するんだってさ。」
「何で金髪碧眼限定なんだ?」
「……それは金髪碧眼の子の死亡率が高かったからだよ。幼いころから神様からの加護を付けるために儀式をするんだけど、すぐ死んじゃうんだ。」

 疑問ばかりが浮かぶ。何故だ、どうしてだ。きっと聞けば答えてくれるのだろう。
 アッシュはもう一度口を開いた。

「……加護を付けるための儀式は、あんたもやったのか。」
「…………うん。」
「何をやった?」
「――言葉にすると穢れる気がするから、言わない。」

 これ以上聞くことは出来なさそうだった。
 何をして、何を得たのか。
 ライアンが自ら言葉にするまで、きっと闇の中なのだろう。

 ・・・

 ついに豊作祭の前日がやって来た。

 国全体を挙げての祭りだけあって、町は朝から賑わいに包まれていた。
 通りには花と果実の飾りが吊るされ、焼き菓子や果実酒の甘い香りが風に乗って流れる。
 豊穣の神――この地の実りを司る存在への感謝を込めて、人々は歌い、踊り、笑い合っていた。

 出された作物はどれも瑞々しく、陽光を弾いて宝石のように輝く。
 凶作とは無縁のこの土地で採れた作物は、今や国中、国外にも出荷され、人々の誇りと富の源となっている。

 アッシュにはどれも色褪せた物体にしか見えなかったが。

 明日の早朝、日の出の前にライアンの髪は切り落とされる。
 それが、豊穣を祈る"証"となるのだ。

『あんたの髪、好きだ。』

 出た言葉は、嘘ではなかった。今もなお、心の中で悔しがっている。
 言わなきゃよかった。
 儀式なんかしないで、ずっとその姿を、見せてくれれば良いのに。

「アッシュ君、何してんの?」

 唐突に後ろから肩を叩かれ、アッシュは振り向いた。
 ライアンがイタズラっぽい顔でアッシュに笑いかけていた。

「……別に、何も。」

 アッシュは、想っていた人が突如現れたせいで、そっけなくなってしまった。
 いつもこうだった。もっと素直になれたら、言葉を伝えられたら、……自己嫌悪が止まらない。

「僕さ、しばらく自由時間だから、出店回ろうよ。僕が居るからみんなオマケしてくれるんだ。」

 そんな気持ちを抱えているのを知らないまま、ライアンが笑いかけてくる。

「ねぇ、行こうよ、アッシュ。」

 何も言わないアッシュの顔を覗き込んで、微笑みながら続ける。

「……また、考え込んでる。髪はいずれ伸びるし、そんなに気にしなくって良いのに。」

 でも、とライアンは少し言葉を止め、静かに息を吸ってから、穏やかに続けた。

「君が好きって言ってくれて、嬉しかったよ。」

 溶けそうなほど柔らかい笑みだった。
 それが、自分のためだけに向けられているのが、堪らなかった。
 見続ける事が出来なかった。
 アッシュは目を逸らし、息を詰めて、やっとのことで言葉を絞り出した。

「……出店、回るか。」

 ・・・

 神父様!神父様!歩を進めるたびにライアンへ声がかかる。それは親しみがありつつも、礼儀としての一線を引いたものだった。

「ねぇねぇ、さっきのお店でとうもろこし貰っちゃった。一緒に食べようよ、アッシュ君。」

 無邪気に笑うライアンに、アッシュは小さく息を吐いて応えた。
 差し出されたそれは、茹で上がったばかりで熱を持ち、黄金の粒がぎっしりと並んでいる。
 ひと粒ひと粒が光を吸い、まるで宝石のように瑞々しい。
 故郷では見たこともないほどの、豊穣の象徴だった。

 通りを見渡せば、露店に並ぶ野菜はどれも形が整い、色鮮やかで、歪みひとつない。
 生き物なら当然あるはずのばらつきが、どこにもなかった。

(……なんだこれ。気持ち悪ぃ。)

 見事すぎる実り。生命の均一。
 彼らはこれを祝福して、豊穣と呼んだ。
 だがアッシュの目には、整いすぎたそれが、どこか歪で気味の悪いものに映った。

「アッシュ君、あそこ空いてるから、座って食べよう。」

 ライアンに手を引かれ、噴水の縁へと導かれる。
 石畳は朝の空気を吸い込み、少しひんやりとしていた。

「いただきます。」

 ライアンの声が、わずかに低く落ち着いた。
 祈るようにその言葉を口にすると、果実へとかぶりつく。
 弾ける実、滴る果汁、そして――

「あ!おいしい!」

 頬を綻ばせ、ライアンはもう一度とうもろこしに齧りついた。咀嚼して、飲み込む。

「あんまい!これ美味しいよ。」

 ライアンは、アッシュへ食べるよう催促した。
 でも、アッシュはどうしても食べる気が起きなかった。
 それを察したのか、ライアンはアッシュへ問う。

「アッシュ君、もしかしてとうもろこし嫌い?」
「………。」

 ライアンの言葉に上手く返答が出来ない。
 何だか気味が悪くて口に出来ない等、言えるはずも無かった。
 ライアンは、この豊作を享受している。
 しかしそれは“加護”とやらが働いた結果だった。“加護”など信じているわけではない。
 しかし、ライアンが生まれてからなんてあり得るのだろうか。

「………ごめんね、無理させたかな。」

 アッシュの手から、とうもろこしをそっと取って申し訳なさそうにライアンが言う。
 あんたがそんな顔する必要はないのに。

「いや、今、食欲無くて。あんま食えない。」

 苦し紛れの言い訳が口から出る。

「……そっか。気が向いたら、食べてね。美味しいよ。」

 折角誘って、これからという時にライアンを悲しませてしまった。
 でも、どうしてもアッシュはこの作物を口にすることが出来なかった。

 きっとこれから、アッシュがこの地の“実り”を口にすることは、もうないのだろう。

・・・

 空は闇に沈み、未だ日が昇らない――丑三つ時。
 木造の湿った森の奥、ひとつの小屋で豊穣の神事が始まろうとしていた。
 白布で髪を束ね、一筋に垂らした金糸は、白い装束に溶けそうな淡い光を放つ。
 揺れるろうそくが闇をぼかし、その中にライアン・スミスはいた。
 麻の布団の上に静かに座し、その時を待つ。
 シルクの聖装束が光を受け、艶と輪郭をわずかに浮かび上がらせていた。

「手順は知っておるな?」

 薄い仕切りの外から、しゃがれた声がした。
 手順は昔から知っている。何をして、何が必要なのかも。

「はい。知っております、おじい様。」

 おじい様――といっても、血の繋がりはない。
 神事には古くから多くの“家”が関わってきた。
 豊穣を祈る祭りでありながら、その裏では金が動く。
 供物、布、香、そして人。
 この森の部屋を支えるのに、資金だって馬鹿にはならない。

「君には毎回苦労を掛けるね。」

 紙のような薄い仕切りの先に、ぼんやりと写ったシルエットが深々と頭を下げているのが見えた。

「今回も、どうぞ、よろしくお願い致す。」
「はい。もう大丈夫です。慣れましたから。」

 ライアンの平坦な声が、落ちていく。
 ”おじい様”は深々と下げた頭を上げると、静かに何処かに去っていった。
 外のろうそくの火が、消える――。

 ・・・

 ……。
 あの後、気まずくなってしまって、ライアンに時間が来て、別れることになった。
 自身が招いた事なのに、無性に腹が立つのは何が原因なのだろうか。
 ライアンは、アッシュがここに来てからいろんなことを教えてくれた。
 教会のこと、町のこと、子どもたちのこと、時々サボる場所、気に入っている風景――そして、儀式のこと。
 俺に、忘れても良いと言った。でもきっと、故郷の事は忘れる事は出来ないのだろう。
 どれだけ年をとってもしわくちゃの爺になっても、火薬の匂いと一緒に焼き付いた家族の記憶だけは、消えそうにない。
 でも、あれは確かな選択肢ではあった。知らないなりに、分からないなりに、悩んで導き出した必死の”ライアンなりの答え”なのだろう。
 アッシュは眠れそうになかった。
 教会に戻ると、何も口にせず、そのままベッドに潜り込んだ。
 それから何時間も、ただ横になったまま、天井の暗がりを見つめていた。
 そろそろ、儀式の時間だった。
 今眠れば、きっと悪夢を見る。そんな予感がして、瞼を閉じることすらできなかった。
 ……外に出よう。
 不意にそう思った。
 もしかしたら、儀式を終えたライアンに会えるかもしれない。
 髪を切る“だけ”なら、そう時間はかからないはずだ。

(――儀式は、教会ではなく古い時計塔で行われると聞いた。)

 時計塔は森の奥にひっそりと佇む、古い木造建築だった。
 ライアンが生まれるよりも前から、そこに“在った”という。
 風雨に晒され、軋む板と苔むした梁。倒れそうで倒れない、不気味なほど生きている時計塔。
 儀式をそこで行う理由は二つある。
 儀式の終わりに鐘を鳴らすため、そして“外界から完全に閉ざされた空間”を確保するためだと、ライアンは言っていた。
 鐘は三度鳴る。そして儀式は終わるのだ。

 アッシュはベッドから出た。
 暖かな布のぬくもりを手放し、初夏の夜の風を全身に浴びる。
 もうすぐ麦の収穫期。
 儀式がこの時期に行われるのも、それが理由のひとつだった。
 アッシュは宛てもなく町に出た。
 祭りのあとの残骸が、そこかしこに転がっている。
 明日になれば、きっとすべて片づけられてしまうのだろう。
 けれど今のアッシュには、その光景が苦い記憶を呼び起こすものにしか見えなかった。
 ――あんな顔、させるつもりじゃなかった。

 周囲を見渡すと、まだ祭りの余韻を引きずる人々が、ちらほらと通りに残っていた。
 酔いの醒めきらない笑い声が、夜気の中に溶けている。
 数人の集まりが、焚き火を囲んで談笑していた。
 本当に、四人か五人ほど。
 そのうちの一人が、こちらに気づく。
 手を振り、何かを呼びかけてきた。
 誰だか分からず、戸惑いながら足を止めると、二人組の男が、軽い足取りでこちらへ近づいてきた。

「やぁ、君、神父様と一緒に屋台を回ってたよね?」

 片方の男が、にやにやと笑いながら言った。
 今朝のことを見られていたらしい。

「君さ、神父様と仲いいの?儀式って何をするのか知ってる? 俺たち移民でさ、そういうのよく分からないんだよ。」

 どうやら、興味本位で話しかけてきただけのようだった。
 アッシュの口から出た言葉は、ただ一つ。

「――知るか。」
「まぁそう言わずに。本当に知らないの?あんなに一緒に居るのに?ちょっとくらいは知っているでしょ!」

 馴れ馴れしく肩を組んでくる男から、酒の匂いがした。相当酔っているようだった。

「おい、やめろよ……ごめんな、こいつ酒飲むと気が大きくなるんだよ。」

 もう一人の男が、申し訳なさそうに頭を下げる。まだ正気のある大人のようだった。
 酔った男はアッシュに凭れかかりながら、騒がしい声で続ける。

「だってあいつ、代表に選ばれて鼻の下伸ばしてたんだぜ!絶対ナニかやってるって!」
「おい!神父様の友人に向かって何言ってんだ!!」

 アッシュは思わず、「代表……?」と声が漏れた。酔っぱらいはその表情を見て、イタズラっぽくも同情的な顔で、

「――あんた、何にも聞かされていないのな。代表ってのは、”神父様の儀式のお相手”だよ。何をするかは秘匿されているが、代表さんのあの様子じゃあな!」

 下卑た笑いが、夜気に滲んだ。
 酔った男の手が、軽くアッシュの肩を叩く。
 固まったアッシュに更に続けた。

「ここいらじゃ、俺らみたいに国を失ったやつらが、うようよしてんだよ。そいつらを宗教で囲い込んで、どうにか懐柔しようって腹じゃねぇの?まぁ、神父様が体張ってやることかは疑問だけどな。」
「そうそう。……けどよ、そのおかげか知らねぇけど、ここの食いもん、やけに綺麗なんだよな。俺らの国じゃ、野菜ひとつまともに育たなかったってのに。」

 素面の男もそう続けた。
 その瞬間、違和感は自分だけのものではなかったのだと気づく。

 代表。
 相手が必要な儀式。
 作物の、異様なまでの美しさ。
 豊穣とは、一体。

「まぁ、全体非公開じゃ、どうしようもねぇよな、一度見に行ったけど警備のやつらが滅茶苦茶いて、無理だったわ!」
「お前いつの間にそんな事を!?」

「警備」してまでも、その儀式を隠す必要があるのだろうか。

 ――カーン……。

 音の籠った、古い鐘の音。響きが悪く、夜の闇に溶けていく。
 あの時計塔の方から、一度目の鐘が鳴った。
 酔っぱらいが笑う。

「あはは、始まってんぞ!何やってんだろうなぁ!」
「お前いい加減に――って、君何処へ!?まさか行く気か!?」

 アッシュは走り出していた。体が咄嗟に動いた。動かないと、二度と立ち上がれない気がして、走った。

 ・・・

「儀式って、こんな狭くて暗いところでやるのかい?もっと暖かいところが良いよ。」

 目の前に座る男は少し困惑しながらそう言った。
 そう言いながらも、ライアンをチラチラ盗み見て、期待が隠せて無いのがよく分かる。

「ここは歴史ある建物なので、ここでなきゃ意味がないのです。」

 ライアンは平熱のまま、男に向かいそう言った。
 男はよくライアンに、この地の宗教の勉強がしたいからと、教本を借りによく教会を訪れていた、農家の移民の男だった。

「君は、いつもこの儀式をしているのかい?一体いつから……。」

 男が問う。
 ライアンは視線を合わさずに、静かに囁くように言う。

「そんなこと聞いて、どうするのですか。」
「……単純に興味本位さ。気にしないでよ。」
「私にだけ、集中してください。」
「……。」

 男の目に、湿った炎が点るのが分かった。
 彼を煽るつもりなどなかった。だが、結果的にこうなった。
 都合が良い。こうなると、相手はだいたい自分の言う通りに動く。
 そうなれば、スムーズに儀式を終えることが出来る。
 ろうそくの火が揺らぎ、二人の影が陽炎のように揺れて、静寂が訪れる。

「……手順、お聞きしていますよね。」

 儀式の手順は、あらかじめ伝えてあるはず。スムーズに進むように、伝えるよう口酸っぱく伝えてある。

「……手順、は聞いていないよ。君が教えてくれるのだろう?」
「…………承知しました。」

 あれだけ言ったのに、伝わっていなかったようだった。
 一から、教える必要がある。憂鬱だった。

「手順を追って、一つずつ、やりましょう。」
「……よろしく。」

 男から、少しだけ緊張の気配を感じる。空気が変わった。男がむずがる時の布の擦れる音、誤魔化すような咳、隙間風の笛のような音。全てを感じられる。
 ライアンは、乾いた口で言葉を紡ぐ。

「豊穣典礼、と言うものがあります。それを一通りなぞっていきましょう。」

 男の目が泳ぐ。なんだ、分かったのか、何をするのか。
 僕の元から、あれだけの経典を持っていって、目を通していた律儀な人。

「何をするか、本当は分かっているのでしょう。」
「……ごめん、今、繋がったんだ。本当に、やるのかい?」
「はい。やります。」

 ライアンの声は穏やかだった。熱も、冷たさも感じない声に、男は息を呑む。

 では、始めます、そうライアンが呟いて、静寂が訪れた。
 ライアンは、祭壇の上の杯を両手で包むように持ち、目を瞑る。

「主よ、われらは汝の大地を耕す者なり。汝の血をいただき、命の種を返さん。天の下、地の上、いま此処にて交わりを成す。」

 ライアンが目を開ける。
 祭壇に置かれた杯には、深紅の酒が並々と注がれていた。
 それを、神の血に見立てて、代表であるこの男に、ライアンの唾液を混ぜて送り込むことによって、この儀式に関わる権利を得るのだ。
 ライアンは神と人とを繋ぐ媒介者である。
 ライアンは、そっと杯に唇を当て、深紅の酒を少量口に含むと、男の方へ歩み寄る。
 灯火のゆらめきが、長い金の髪を照らし、薄闇の中で光を分けるように揺れた。

「君と触れ合うなら、儀式じゃなくて、俺の部屋が良かったよ。」

 軽口を叩いた男の唇を、ライアンは半ば乱暴に奪った。
 唇と唇が触れ合い、舌が絡む。
 その隙間から、深紅の酒がゆっくりと流れ込む。
 渋みと鉄の味、そしてわずかな甘み。
 それらを混ぜ合わせるように、ライアンは息を吐き、男の喉がそれを飲み下すのを見届けた。

「……っ、はぁ、……」

 男の吐息が熱い。銀の橋を掛けながらゆっくりと離れ、そして、ふつりと途切れた。
 一つ目の鐘がなる。

 あの薄い仕切りの向こうから、監視の目がこちらを覗いているのだろう。

「……ねぇ、次は?」

 分かりきっているくせに。
 ライアンはゆっくりと息を吸い、まぶたを閉じた。

「神の血は大地に降り注ぎ、人の種は天を仰ぐ。
 血は雨となりて命を潤し、種は精となりて天を讃う。
 土は我なり。母の胎にして神の器。
 ――いま、神話はここに再び成らん。」

 男の熱い吐息が、近くにあるのを感じた。
 男は、祈るような声で言う。

「君に、どう触れれば良いのか、分からない。……だから、」

 ――俺を導いてくれ。

「触れれば良いのです。ただ、思うままに。」

 男は応えるように、ライアンを強く抱き寄せた。
 互いの呼吸が重なり、空気が震える。
 土を耕し、節だった指に、指先までもを絡め取られ、完全に脱力した。
 熱は確かに触れ合っているのに、それでも、どこか寒かった。
 祭壇の蝋燭が揺れ、壁に映る影は、まるで一つに溶けていくようだった。

 ・・・

 時計塔は町から少し離れた森の中にあった。苔むし、倒れそうな塔の外には複数の警備が立っている。
 アッシュは、警備など構わぬと言わんばかりに正面へ歩みを速めた。

「おい、お前。止まりなさい。ここは禁足地だ。立ち去れ。」
「………。」

 ここで立ち去るわけにはいかない。儀式など、俺は嫌だった。やめてしまえばいい。内容なんか知るか。事情など知るか。あんたが奪われるだけで、俺はどうしようもなく腹が立つのだ。

「何か言え!!おい!聞いているのか!?」

 アッシュは掴みかからんばかりの警備員を一人、薙ぎ倒した。

「お、おい!侵入者だ!早く応援を!」

 周囲が騒がしくなる。うるさい。黙れ。アッシュの暴虐は止まらず、止めに来る男どもを次々に殴り飛ばし、時計塔の前までバリケードを掻き分ける。怒号、悲鳴、木と鉄の軋み──殴るたびに拳から伝わる衝撃が、アッシュの燃料となっていた。

「早く捕えろ!一人相手に何手間取ってんだ!!」
「応援を!応援はまだか!?」

 命令が飛び交い、血と汗の匂いが夜気に溶け、時計塔一帯を満たす。
 いつの間にか手に蝋燭台を握っていた。暴れ回るうち、咄嗟に掴んだそれを見て思いつく。ろうそくだ。火だ。戦火だ。全部、燃やしてしまえばいい。
 理性が焼ける。頭が熱い。胸が焼ける。邪魔だ、俺の邪魔をするな、アイツを返せ。
 すでに燃え尽きたと思っていた。
 だが腹の奥の違和感が叫ぶ。これは残火だ。

 クレイヴでもない、アッシュでもない、残火が叫んでいる。

「どけよおおおおおああああああ!!!!!!」

 咆哮に警備どもの動きが止まる。顔を引き攣らせ、怯え、異形を見るような目で後退る。アッシュは力の限り、関貫のしてある扉を蹴り破った。
 一蹴。轟音。
 鉛の蝶番が砕け、宙を舞う。分厚い扉は一撃で粉砕され、破片と埃が夜気に舞い散った。
 扉の先、数メートル先に、彼らはいた。

 シルクの艶を帯びた聖衣がはだけ、男の手が這い回る。
 全てを預け、されるがまま。

 ――激情。

「あんた……なにやってんだ……――何やってんだって聞いてんだァ!!!」

 ライアンの首筋を食んでいた男に掴みかかり、右の拳で殴り飛ばす。
 骨が砕ける音。拳がひしゃげる。衝撃で吹き飛んだ男が薄い仕切りを破り、蝋燭台を薙ぎ倒し、床に叩きつけられる。
 胸から、憎悪と痛みが迸る。

「テメェ如きが触るな……誰一人、触らせねぇ!!消え失せろッ!!」

 男は倒れて動かない。外は相変わらず騒がしい。肩で息をする。拳の行方が分からない。何より、苦しかった。
 ライアンを見る。
 髪――まだ、切ってない。さらりと溢れる金糸に、激情の中へ一滴の雨が落ちる。
 アッシュは乱れた聖衣にそっと触れる。正そうとするが、自分の指に血がついていた。触れれば聖衣が汚れる。指先が震える。

 ライアンのグリーンアイが、こちらをゆっくりと捉えた。

「……いいよ、君が望むなら、触れたって構わない。」
「……あんた、俺が何やってるか、理解できてんのかよ。」

 ライアンは微笑んで、穏やかに囁く。

「僕を心配してくれたんだね。」

 ライアンの瞳に光が揺れる。そんなんじゃない。そんな綺麗な感情じゃない。あんたが思うほど、俺は綺麗じゃない。

「違う、そんなんじゃねぇ。これは俺の独りよがりだ。儀式をぶっ壊して、あんたを連れ出したかった。……全部、全部!灰になればいい──!」

 アッシュの嘆き。この国が、町が、この時計塔があんたを縛っているというなら、全て壊してしまえばいい。焦げた匂いが鼻を刺す。木の継ぎ目に舌のように炎が這い上がり、柱が音を立てて黒く崩れていく。きっとこの時計塔を包むだろう。
 戦場となった故郷を思い出す。父は砲弾で吹き飛び、母は妹を抱えたまま膝を折り、妹は恐怖のまま逝った。

 これは秩序の破壊だ。俺の国もそうして燃え尽きた。じゃあここにいる人々はどうなる?
 きっと、俺が壊すのは儀式だけじゃない。秩序も、平和も、安全も、幸福さえも──灰に還し、ライアンを奪う。

「……短い間だった………。」

 煙の混じった声が喉から絞り出される。

「一か月弱だけだったけど、あんたと一緒に居た。それだけだけど、あんたが大切だって感じたんだ。」

 血に濡れた拳を握る。力でしか示せない。力でもきっと守れない。
 熱で涙が揮発するのを感じながら、それでも吐き出す。

「――だから、攫いに来た。」

 全部、俺のせいにしていいから。
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