動く死体

ozuanna

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 河川敷には誰もいなかった。
 昨日きみが僕の前に現れたのと同じ、夏の宵。蒼い夕霞。まだ小さく、蝉の声が蝉の鳴き声が聞こえてきた。僕もきみも、バス停からこの川沿いを無言で歩いてきた。堤防道路を下り、テニスコートを通り越し、公園の端まで。
 目の前で揺れる、あれが葦だろうか。
「ねぇ」
 唐突にきみが話しかけてきた。
「あれ、何ていうのか知ってる?」
 きみの指は、葦を指していた。
 僕はきみを見た。
 風がきみの髪をまきあげて、その表情を僕には見せてくれなかった。
「ヨシ……だよね?」
「アシでもあるよ」
 きみのくちびるが素早く動いた。
 あし、と、よし。葦、と、葦。
「アシは悪しへと繋がるからヨシなんだってさ。葦はアシなのに」
 きみは風にかき乱された髪を右手で押さえつけた。いつの間にか指輪が消えていた。きみはため息をつくと、右手で左手をて、その爪をそっとなでた。指輪は、左手の薬指にあった。
 僕の心臓が大きくうごめいた。

 きみを、見た。

 違う。
 冷たい不安が背骨を走った。
 視線は太陽が沈んだあたりに投げつけられていた。その顔は、確かにきみのようだった。けれど、違うのだ。明らかに。きみにようなものの奥から、何が別のものがのぞいている。
 僕の胸の中に、何かが燃えるような音が、密やかに響き出していた。
「生き死にの決着をつけないと」

 冷たい声だった。液体窒素の中で、一瞬にして凍りついた薔薇のように。
「……忘れないうちに、これを預けておくよ。出すも出さぬも任せるよ」
 そう言ってきみのようなものは、紙袋の中から、一通の手紙を取り出した。
「読んで」
 それは加納沙詠から、母親に向けられたものだった。

    §

 加納沙織様

 これが最後のわがままです。もう私があなたを煩わせることはないでしょう。残念なのはただひとつ。この手紙が、あなたへの初めての手紙になることです。少し寂しい気もします。

 わたし、あなたにだけは、声を上げるのを許してほしかった。わたし、叫びたかった。大声はだせなくてもよかった。ただ、誰かに受け止めてほしかった。あなただけ、手を、握ってくれていればよかったのに。

 言いたいことはたくさんあります。言うべきことも。
 けれど、わたしもあなたも苦しんでいる。それは知っているから。だからこそ、この手紙は書けるときに書いておきたかったの。きっと時間は残されていない。そんな気がしたから。

 いっそのこと、二人で逃げられるくらいの強さがあればよかった。

 あなたのこと、

 お母さん

              だいすきよ

        沙詠

    §

「答えを出して」
 強い口調で死体は言った。
 僕は加納沙詠の手紙を握りしめたまま、死体の喉元を見つめていることしかできなかった。
「どっち?」
 あの笑い顔さえもない。
 真剣な顔で僕を見据える死体。
 加納沙詠ではない。彼女の目ではない。ここに在るのはきみのはずなのに。違う気配が揺れている。僕はそれに怯んでいる。

 風が吹く。波が立つ。荒れ狂う。時化。
 たとえば心が海ならば。
 僕は
 どうしたらいい?
 きみの後ろで揺れるのは、それはヨシ? それともアシ。
 沈んでしまったた異様の残骸。夕焼けでもない蒼の宵から夜が溶け出してくる。小さなコウモリが、僕と死体の間を抜けて飛び去っていく。
 僕はどうしたらいい?
 遠くから豆腐屋のラッパの音。
 ぼくはどうしたらいい?
 僕は
「どうしたいのさ‼︎」
 泣きそうな顔をしたきみが、僕をにらみつけている? きみが? きみは死体。加納沙詠の。そうだ。加納沙詠。
「今ならまだ、加納沙詠を生き返らせることができるよ。今ならまだ……」
 きみは真っ直ぐに僕を見上げた。
「加納沙詠を‼︎」
 真っ直ぐに。
 きみはまだ加納沙詠でもなかった。
 けれど僕の目の前の身体は、間違いいなく加納沙詠。
 いるのはきみ。
 きみならば僕は……
 残ることができるのは加納沙詠。きみでなく。

 もう、どうだっていい。
 加納沙詠なんて。
 加納沙詠はきみじゃない。僕には加納沙詠の傷なんて癒すことはできない。深すぎる。僕は加納沙詠を知らない。

「僕の答えはひとつだよ。でも、それは、答えにはならないのだろうね」

 くちびるが震えている。
 きみの眼の中で静かに揺れる水。とりこぼした僕の答えを待つように。
 きみは加納沙詠の『死体』でしかないんだね。
 葦の波が、僕と死体の間をすり抜けていった。
「ねぇ、何で今笑うのさ。こんなときにさ。言ったろ、ぼくになんか笑いかけちゃいけないって。こんな得体の知れないものに。そんなふうに、そんな無防備に笑いかけちゃダメだよ……」
死体の眼から、静かな水がとめどなく流れ落ちていた。
 できることなら僕ごと、この世界を押し流してくださいその水で。
「ぼくに笑いかけないでよ。ねぇ。ぼくに……加納沙詠じゃなくて、なんでぼくに……
 あんたが加納沙詠を知らないのは知ってた! でも、加納沙詠の記憶の中には、あんたの笑顔しか残ってなかった。綺麗な思い出なんてどこにも見つからなかった‼︎ 
……何でもない、本当に何でもない笑顔なのに。ありきたりな笑顔なにさぁ。ぼくにどうしろって……」
 きみの両手が震えている。
「死体、僕は」
 きみの表情が、蒼い夏の宵に溶けていった。
 ような、気がした。
「僕の答は」
「結局、この姿に加納沙詠を見ることはなかったこと、気づいてた」
きみの後ろで葦が揺れた。
「僕の、答は」
「それでも同じく死体だった。答は二択。加納沙詠の死か、生か。逃げ場のない二択。どうにもならない」
 目の前に、加納沙詠の死体。
 死体の顔は、笑いの顔に歪んでいた。後ろからせまっていたもの。それは、夜だった。
 死体が闇に包まれていく。潮が引くように。昏く澄んでいった。
 僕の頬はこわばった。
「藤谷くん」
 僕は、乾き切った喉のために、必死にツバを飲みこんだ。
 死体の表情には何もなかった。
「死体、今の状態が不自然なんだろ? だったら自然に戻れよ。本当の死体にでもさ。
 人間ひとりの生とか死とか、人生とか未来とか、神様じゃないんだ。
 僕にそんだ選択権を委ねないでくれよ。……僕は加納沙詠を知らない。知っていたら生きろと言ったかもしれない。でも、今の僕には言えない。言えないんだ。生きろ、とも‼︎」
 僕の頬を、冷たいものが流れていった。
 治ることを知らないような風の音が僕の耳を荒らしていった。
 だからただの空耳だったのかもしれない。
「藤谷くん」
 僕は顔を上げて死体を見た。
 彼女は左手の指輪にそっと口をつけていた。それからゆったりと目を開きながら、指輪を指から抜き取った。それをいとおしそうに両手で包みながら、僕に差し出した。彼女の顔を、遥か西に残る、最後の光が照らした。
 穏やかな笑顔。
 僕は呆然と見ていた。
「これはわたしのじゃない。かえしてあげてね。ちゃんと」
 僕が両手を広げると、彼女はそれに触れないように慎重に、僕のてのひらの上で彼女の両手を開いた。小さな指輪た僕に降ってきた。
「さようなら」
 そう言うと、彼女は颯爽と踵をかえして葦の中へ歩いていった。几帳面に伸ばされた背中が、僕を拒絶していた。彼女の姿が完全に葦の中に消えた瞬間、大きな水音がした。まるで何かが倒れたような。
 僕の胸で心臓は、抉るようにうごめいていた。

 僕の手に残るは指輪。
 そして、手紙と紙袋。
 視界の中には、死体はいない。
 葦の向こうにあるのは何だ?

 夜は空を完全に支配してしまっていた。青白い街路灯の灯りが、ぼんやりと葦を照らしていた。風に騒ぐ葦の音は、あの、押し殺したような笑い声にも似ていた。
 僕は逃げた。
 走って逃げた。
 街の全ての音が、耳の手前で意味を持つことを放棄していた。

    §

 僕の頭の中で、消防車のサイレンの音が鳴り響いていた。

 深夜の火事。

 確かに火事は存在するのに、炎は見えない。熱もない。何かが焦げる匂いだけが、微かに鼻を 刺激する。
 消防車は火事を探して闇の中をひた走る。
 深夜の火事。
 炎は全てを飲みこみ、無へ還す。

 無へ、
 還す。

    §

 あれは何だったのだろう?

 翌朝早く、僕は加納沙詠の母 親への手紙を投函した。机の上の国語辞典に宛名が書かれ、切手の貼られた封筒が挟まっていたから。

 僕は空を見上げた。
大きく羽ばたいて、鳩が、空へと消えていく。

 あれは何だったのだろう。

 手紙を投函してから一週間もしないうちに、加納沙詠の死体は発見された。河川敷のあの葦の中で。ボケットに押し込まれていた遺書と、母親に届いていたそれとで、彼女は自殺と断定された。

 あれは何だったのだろう。

 遅れてきた厳しい夏は、超加速度的に暑さを増して、僕の思考を奪い去る。
 ただひとつ。夏から取り残されて冷たい、手のひらの中の指輪。時を経るごとに重く染み入る。僕の胸に。

 指輪の中で葦が揺れていた。
 と、思ったのは頬を伝う熱のせいだろうか。確かに存在した過去。その中で揺れる影は誰だったのだろうか。もう二度とは見ることがない白い指を、僕の喉は覚えている。甘い匂いも。つめたいかんかくも、
 つめたいかんかくも。

 もう何も思いつかない。

 夏の暑い宵に、全ての音を飲みこんで横たわる。
 胸に。

   おわり
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