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第九話 お飾りでは務まらない
第九話 お飾りでは務まらない
フロレッタが王宮へ入って十日が過ぎたころ、屋敷の空気は妙な緊張を帯びていた。
理由は簡単だ。 王宮から届く報せの内容が、日に日に重くなっているからである。
最初の数日は、礼法、席次、贈答帳簿、行事暦。厳しいながらも、王妃教育としては当然の範囲だった。だが十日を越えたあたりから、内容が変わり始めた。
侍女の配置確認。 衣装費と交際費の管理。 王宮内での裁可手順の基礎。 祈祷日程と王族の公的行動の整合。 来客の格に応じた接遇の差。
つまり、ただ美しく座っていれば済む話ではなくなったのだ。
私は朝の紅茶を前に、王宮から届いた報告書の要約を黙って読んでいた。
「お嬢様」
ミレナが恐る恐る口を開く。
「……王妃教育とは、ここまで細かいものでしたか」
「ええ」
「もっとこう、礼をして、微笑んで、お言葉遣いを整えるようなものかと」
「それは入口にすぎないわ」
私は紙を机へ置いた。
「王妃が人前で微笑むのは仕事の一部でしかないもの。その裏で、誰を近づけ、何を通し、どこへ金を流し、どの行事をどう見せるかまで問われるのよ」
ミレナは少し青ざめた。
「それはもう……お妃様というより」
「半分、管理者ね」
私は淡々と答える。
もちろん国そのものを動かすのは王や重臣たちだ。 けれど王妃は、その横で人と金と儀礼の流れを整える。しかも、表向きには優雅さを失わずに。
美しいだけでは務まらない。 けれど、厳しいだけでもだめだ。
だからこそ、甘くない。
そのとき、廊下から少し荒い足音が近づいてきた。ノックも待たずに扉が開く。
入ってきたのは、フロレッタだった。
その姿を見て、私は思わず瞬きを一つする。
十日前より、明らかに痩せていた。 頬の線が少し細くなり、目の下には薄い影が差している。王宮の仕立てのよい薄桃色のドレスを着ているのに、本人がそれに負けて見えた。
「お姉様」
息が少し上ずっている。
「どうしたの」
「少しだけ……少しだけ、お話ししてもよろしい?」
私はミレナへ目配せし、紅茶を一客追加するよう告げた。ミレナが下がると、フロレッタは待ちきれないように椅子へ座る。
座り方ひとつにも、疲労が見えた。
「今日は王宮ではなくこちらに?」
「午前で講義が終わったの。午後は復習と筆写に充てるようにと……」
筆写まで入っているらしい。 王妃殿下は本当に容赦がない。
「それで?」
私が静かに促すと、フロレッタは唇を噛んだ。
「お姉様は、あれを全部覚えていらしたの?」
「何を指しているのかしら」
「全部よ」
思わず、といった様子で声が強くなる。
「席次も、贈答も、祈祷日も、王族方の関係も、どの家がどこと親しくて、どこに気を配るべきかも。あの方々は、そんなことまで当然のようにわたくしへお尋ねになるの」
私は少しだけ首を傾けた。
「当然でしょうね」
「当然って……!」
フロレッタが目を見開く。
「わたくしは、まだ入ったばかりなのよ?」
「でも、王太子妃候補として入ったのでしょう?」
言い返されて、彼女は息を詰めた。
私はわざと厳しくしているわけではない。 ただ、王宮の論理で言えばそうなるだけだ。
「最初から完璧でなくてよいのは分かっているはずよ」
私は少しだけ声を和らげた。
「でも、知らなくていいわけではないわ」
「だって、お姉様は長いあいだ準備してこられたもの。わたくしとは違うじゃない」
「そうね。違うわ」
その言葉に、フロレッタの顔がわずかに固くなる。
責められると思ったのかもしれない。
けれど私は続ける。
「だからあなたは、人より早く覚えるしかないの」
フロレッタが視線を落とす。
「そんなの……無理よ」
「無理でも、やるしかないでしょう」
「お姉様はいつもそう」
ぽつりと落とされた声に、私は目を細める。
「何が?」
「できる人の言い方をなさるわ」
その一言には、疲れと、悔しさと、少しの恨みが混じっていた。
ああ、と私は思う。 ついにそこへ来たのね、と。
可愛がられてきた妹が、ずっと前から自分の前にいた姉の“できてしまうこと”を、ようやく苦く見る段階へ。
「できる人、ね」
私はカップを手に取る。
「そう見えていたのなら仕方ないわ」
「違うの?」
「最初から何でもできたわけではないもの」
「でも、お姉様は平然とこなしておられた」
「平然として見せていただけよ」
フロレッタがゆっくり顔を上げる。
「わたくしだって、最初から全部分かっていたわけではないわ。覚えるまで何度もやり直したし、間違えて恥をかいたこともあるし、講義のあと部屋で泣いたこともある」
「お姉様が……?」
心底意外そうな顔だった。
「そんなに驚くことかしら」
「だって……お姉様は、いつもきちんとしていて」
「きちんとしていなければならなかっただけよ」
それが長女で、王太子の婚約者で、未来の王妃候補として育てられるということだった。
フロレッタは、しばらく言葉を失っていた。
やがて、小さな声で言う。
「でも、わたくしには向いていない気がするの」
とうとう、その本音が出た。
「席次も、数字も、家格も、考えることが多すぎるわ。にこにこしていれば済むと思っていたのではないの。でも、笑うより先に覚えることばかりで……」
「王妃教育ですもの」
「そんなの分かってる!」
珍しく、彼女が声を荒げた。
すぐに自分でも驚いたらしく、肩を震わせる。
「……ごめんなさい」
「いいのよ」
私は淡々と答える。
今の彼女には、怒りを向ける余裕すらないのだろう。
「それで、ルシアン殿下はどう仰っているの?」
その名を出すと、フロレッタの表情が少しだけ揺らいだ。
「殿下は……気にしなくていいと」
「何を?」
「細かいことなんて、あとから覚えればいいって。今は王宮に慣れるほうが先だって」
予想通りだ。
私は心の中で静かに息を吐く。
「それで、楽になった?」
問いかけると、フロレッタはすぐには頷かなかった。
「……そのときは、少しだけ」
「でも今は?」
「今は、余計につらいわ」
彼女は指先をぎゅっと握りしめる。
「殿下がそう仰るたびに、王妃殿下はもっと冷たくなるの。お顔には出されないけれど……分かるの。わたくしを見る目が」
私は黙って聞く。
「女官の方々もそう。何も言わないのに、何かを測っているみたいで……」
「測っているのでしょうね」
「お姉様」
「事実よ」
私は視線を逸らさずに言った。
「あなたがこの立場に足るかどうか、皆が見ているの」
「そんな……」
「だって、あなたは突然そこへ入ったのですもの」
ルシアンが選んだ。 社交界がざわめいた。 王宮は受け入れた。 だからこそ、その選択が正しかったかどうかを、皆が冷静に見ている。
「わたくし、そんなに立派なものじゃないのに」
その言葉に、私は少しだけ眉を寄せた。
「それを今さら言うの?」
「だって、本当だもの」
「本当でも関係ないでしょう」
気づけば、私の声は少し冷えていた。
「立派でないなら、なぜそこへ行ったの」
フロレッタがはっと息を呑む。
「お姉様……」
「愛されたから? 選ばれたから? 仕方なかったから?」
私はゆっくりと言葉を重ねる。
「でも、その場所は、ただ愛されるだけの席ではないわ」
部屋の空気が張りつめる。
私は分かっていた。 少しきつい。 でも、今ここでごまかしても仕方がない。
「あなたが本当にそこにいたいなら、覚えるしかないの。向いていないと泣いても、周りは席を軽くしてはくれない」
フロレッタの瞳に涙が浮かんだ。
「わたくしだって、好きで何も知らなかったわけじゃないわ」
「ええ、知っている」
「お姉様ばかりに必要なことだと思っていたのよ」
「そうでしょうね」
「だって、皆そう扱っていたもの!」
その叫びに、私は一瞬だけ言葉を失う。
確かにそうだった。
必要な教育は私へ。 可憐でいればいい役割はフロレッタへ。
家も、周囲も、ずっとそう分けていた。
「だから急に、今日からあなたがやりなさいって言われても……」
涙がこぼれる。
「できないわよ……」
私はその泣き顔を見つめた。
可哀想だと思う。 それは本当だ。
けれど、だからといって全部を免除されるべきだとも思わない。
少しのあいだ黙ってから、私は立ち上がり、書棚から一冊の薄い帳面を取り出した。
「これを使いなさい」
フロレッタが涙に濡れた目で見上げる。
「何……?」
「私が基礎を覚えるときに使っていたまとめよ。王族の関係、行事暦、主要家門の位置づけ、初歩の贈答規則。全部ではないけれど、入口にはなるわ」
「お姉様が……?」
「ええ」
「どうして」
その問いに、私は少しだけ苦笑する。
「放っておいても、あなたは王宮で泣くでしょう」
「……」
「それに」
私は帳面を彼女の前へ置いた。
「あなたが務まらないと判断されれば、困るのはあなただけではないもの」
公爵家も、王家も、そしてたぶんルシアンも困る。 私はもう婚約者ではないが、だからといって全く無関係になれるわけではない。
フロレッタは帳面に触れようとして、少しためらった。
「でも……これは、お姉様の……」
「もう私には必要ないわ」
口にした瞬間、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
前なら自然に使っていたはずのもの。 何度も書き直し、覚え、積み重ねてきた跡。
それを手放すのだと思えば、痛まないはずがない。
でも、たぶん今はその痛みごと手放す時期なのだろう。
「使うかどうかはあなた次第よ」
私が静かに言うと、フロレッタはようやく帳面を両手で抱えた。
「……ありがとう、お姉様」
その声はまだ揺れていた。
けれど少なくとも、さっきまでの“何もかもひどい”というだけの顔ではなくなっていた。
「ただし」
私はもう一度腰を下ろす。
「それを持っているだけで安心してはだめ。覚えなさい。自分の言葉で答えられるようになりなさい」
「はい……」
「それから、殿下が庇ってくださるたびに甘えすぎないこと」
フロレッタがびくりとする。
「やっぱり、だめなの?」
「その場ではありがたいでしょうね。でも、王妃教育の場でそれを繰り返せば、あなたが軽く見られる」
「でも殿下は、わたくしのために……」
「あなたのためだけではないわ」
私ははっきりと言った。
「殿下は、ご自身が正しいと思う優しさを見せているの。でも王太子がそこで感情を優先すれば、教育そのものが軽んじられる」
フロレッタは唇を噛む。
「そんなつもりじゃないのに」
「つもりではなく、どう見えるかよ」
それが王宮だ。
好意だけでは、評価は守れない。
少しして、フロレッタは帳面を胸に抱えたまま立ち上がった。
「……戻るわ」
「今日の午後は復習でしょう?」
「ええ」
「なら、ちゃんとやりなさい」
「はい」
扉のところで、彼女は一度だけ振り返った。
「お姉様」
「なあに」
「わたくし……本当に、お飾りではだめなのね」
その問いは、ようやく核心に触れたものだった。
私はまっすぐに答える。
「だめよ」
フロレッタは少しだけ目を伏せ、そして小さく頷いて部屋を出ていった。
扉が閉まると、ちょうど入れ違いにミレナが戻ってくる。
「フロレッタ様、お帰りに?」
「ええ」
「お顔は……少し落ち着いていらしたように見えました」
「そうかもしれないわね」
私は机の上から、さっきまであった帳面がなくなっている場所を見る。
「お嬢様、大事なものだったのではありませんか」
「大事だったわ」
「では、なぜ」
「必要そうだったから」
ミレナは少しだけ目を丸くした。
「優しいのですね」
「優しいかしら」
「少なくとも、わたくしにはそう見えます」
私は小さく首を振る。
「半分は、ただの現実的な判断よ」
フロレッタが本当に王太子妃候補として立てなくなれば、王家も公爵家もますます不安定になる。 そして私だって、その混乱から完全に離れられるわけではない。
でも、もう半分は――たぶん情だ。
妹として育った時間は、あの夜ひとつで全部消えるわけではない。
「それにしても」
ミレナが遠慮がちに言う。
「フロレッタ様も、お気づきになったのですね」
「何に?」
「お飾りでは務まらないと」
私は窓の外を見る。
春の庭は穏やかだ。 それでも、王宮の空気はきっと今も張りつめている。
「ええ」
私は静かに答えた。
「ようやくね」
そしてその気づきは、彼女にとってたぶん遅すぎるわけではない。 つらいだろうけれど、まだ取り返しはつく。
問題は、ルシアン殿下のほうだ。
フロレッタが少しずつでも現実を見るようになったとして、あの人はまだ“守るべき可愛い恋人”を見る目のままでいる。
王太子がそうである限り、ずれは残る。
私はカップの冷めかけた紅茶を口に含んだ。
少し苦い。
でも、その苦さが今は妙にしっくりきた。
華やかな王宮。 愛されて選ばれた妹。 誰もが羨むはずの立場。
けれどそこには、笑顔ひとつで埋められない重さがある。
お飾りでは務まらない。
ようやく妹がその言葉を自分のこととして知り始めたのなら、物語はもう、夜会の勝ち負けだけでは終わらないのだろう。
フロレッタが王宮へ入って十日が過ぎたころ、屋敷の空気は妙な緊張を帯びていた。
理由は簡単だ。 王宮から届く報せの内容が、日に日に重くなっているからである。
最初の数日は、礼法、席次、贈答帳簿、行事暦。厳しいながらも、王妃教育としては当然の範囲だった。だが十日を越えたあたりから、内容が変わり始めた。
侍女の配置確認。 衣装費と交際費の管理。 王宮内での裁可手順の基礎。 祈祷日程と王族の公的行動の整合。 来客の格に応じた接遇の差。
つまり、ただ美しく座っていれば済む話ではなくなったのだ。
私は朝の紅茶を前に、王宮から届いた報告書の要約を黙って読んでいた。
「お嬢様」
ミレナが恐る恐る口を開く。
「……王妃教育とは、ここまで細かいものでしたか」
「ええ」
「もっとこう、礼をして、微笑んで、お言葉遣いを整えるようなものかと」
「それは入口にすぎないわ」
私は紙を机へ置いた。
「王妃が人前で微笑むのは仕事の一部でしかないもの。その裏で、誰を近づけ、何を通し、どこへ金を流し、どの行事をどう見せるかまで問われるのよ」
ミレナは少し青ざめた。
「それはもう……お妃様というより」
「半分、管理者ね」
私は淡々と答える。
もちろん国そのものを動かすのは王や重臣たちだ。 けれど王妃は、その横で人と金と儀礼の流れを整える。しかも、表向きには優雅さを失わずに。
美しいだけでは務まらない。 けれど、厳しいだけでもだめだ。
だからこそ、甘くない。
そのとき、廊下から少し荒い足音が近づいてきた。ノックも待たずに扉が開く。
入ってきたのは、フロレッタだった。
その姿を見て、私は思わず瞬きを一つする。
十日前より、明らかに痩せていた。 頬の線が少し細くなり、目の下には薄い影が差している。王宮の仕立てのよい薄桃色のドレスを着ているのに、本人がそれに負けて見えた。
「お姉様」
息が少し上ずっている。
「どうしたの」
「少しだけ……少しだけ、お話ししてもよろしい?」
私はミレナへ目配せし、紅茶を一客追加するよう告げた。ミレナが下がると、フロレッタは待ちきれないように椅子へ座る。
座り方ひとつにも、疲労が見えた。
「今日は王宮ではなくこちらに?」
「午前で講義が終わったの。午後は復習と筆写に充てるようにと……」
筆写まで入っているらしい。 王妃殿下は本当に容赦がない。
「それで?」
私が静かに促すと、フロレッタは唇を噛んだ。
「お姉様は、あれを全部覚えていらしたの?」
「何を指しているのかしら」
「全部よ」
思わず、といった様子で声が強くなる。
「席次も、贈答も、祈祷日も、王族方の関係も、どの家がどこと親しくて、どこに気を配るべきかも。あの方々は、そんなことまで当然のようにわたくしへお尋ねになるの」
私は少しだけ首を傾けた。
「当然でしょうね」
「当然って……!」
フロレッタが目を見開く。
「わたくしは、まだ入ったばかりなのよ?」
「でも、王太子妃候補として入ったのでしょう?」
言い返されて、彼女は息を詰めた。
私はわざと厳しくしているわけではない。 ただ、王宮の論理で言えばそうなるだけだ。
「最初から完璧でなくてよいのは分かっているはずよ」
私は少しだけ声を和らげた。
「でも、知らなくていいわけではないわ」
「だって、お姉様は長いあいだ準備してこられたもの。わたくしとは違うじゃない」
「そうね。違うわ」
その言葉に、フロレッタの顔がわずかに固くなる。
責められると思ったのかもしれない。
けれど私は続ける。
「だからあなたは、人より早く覚えるしかないの」
フロレッタが視線を落とす。
「そんなの……無理よ」
「無理でも、やるしかないでしょう」
「お姉様はいつもそう」
ぽつりと落とされた声に、私は目を細める。
「何が?」
「できる人の言い方をなさるわ」
その一言には、疲れと、悔しさと、少しの恨みが混じっていた。
ああ、と私は思う。 ついにそこへ来たのね、と。
可愛がられてきた妹が、ずっと前から自分の前にいた姉の“できてしまうこと”を、ようやく苦く見る段階へ。
「できる人、ね」
私はカップを手に取る。
「そう見えていたのなら仕方ないわ」
「違うの?」
「最初から何でもできたわけではないもの」
「でも、お姉様は平然とこなしておられた」
「平然として見せていただけよ」
フロレッタがゆっくり顔を上げる。
「わたくしだって、最初から全部分かっていたわけではないわ。覚えるまで何度もやり直したし、間違えて恥をかいたこともあるし、講義のあと部屋で泣いたこともある」
「お姉様が……?」
心底意外そうな顔だった。
「そんなに驚くことかしら」
「だって……お姉様は、いつもきちんとしていて」
「きちんとしていなければならなかっただけよ」
それが長女で、王太子の婚約者で、未来の王妃候補として育てられるということだった。
フロレッタは、しばらく言葉を失っていた。
やがて、小さな声で言う。
「でも、わたくしには向いていない気がするの」
とうとう、その本音が出た。
「席次も、数字も、家格も、考えることが多すぎるわ。にこにこしていれば済むと思っていたのではないの。でも、笑うより先に覚えることばかりで……」
「王妃教育ですもの」
「そんなの分かってる!」
珍しく、彼女が声を荒げた。
すぐに自分でも驚いたらしく、肩を震わせる。
「……ごめんなさい」
「いいのよ」
私は淡々と答える。
今の彼女には、怒りを向ける余裕すらないのだろう。
「それで、ルシアン殿下はどう仰っているの?」
その名を出すと、フロレッタの表情が少しだけ揺らいだ。
「殿下は……気にしなくていいと」
「何を?」
「細かいことなんて、あとから覚えればいいって。今は王宮に慣れるほうが先だって」
予想通りだ。
私は心の中で静かに息を吐く。
「それで、楽になった?」
問いかけると、フロレッタはすぐには頷かなかった。
「……そのときは、少しだけ」
「でも今は?」
「今は、余計につらいわ」
彼女は指先をぎゅっと握りしめる。
「殿下がそう仰るたびに、王妃殿下はもっと冷たくなるの。お顔には出されないけれど……分かるの。わたくしを見る目が」
私は黙って聞く。
「女官の方々もそう。何も言わないのに、何かを測っているみたいで……」
「測っているのでしょうね」
「お姉様」
「事実よ」
私は視線を逸らさずに言った。
「あなたがこの立場に足るかどうか、皆が見ているの」
「そんな……」
「だって、あなたは突然そこへ入ったのですもの」
ルシアンが選んだ。 社交界がざわめいた。 王宮は受け入れた。 だからこそ、その選択が正しかったかどうかを、皆が冷静に見ている。
「わたくし、そんなに立派なものじゃないのに」
その言葉に、私は少しだけ眉を寄せた。
「それを今さら言うの?」
「だって、本当だもの」
「本当でも関係ないでしょう」
気づけば、私の声は少し冷えていた。
「立派でないなら、なぜそこへ行ったの」
フロレッタがはっと息を呑む。
「お姉様……」
「愛されたから? 選ばれたから? 仕方なかったから?」
私はゆっくりと言葉を重ねる。
「でも、その場所は、ただ愛されるだけの席ではないわ」
部屋の空気が張りつめる。
私は分かっていた。 少しきつい。 でも、今ここでごまかしても仕方がない。
「あなたが本当にそこにいたいなら、覚えるしかないの。向いていないと泣いても、周りは席を軽くしてはくれない」
フロレッタの瞳に涙が浮かんだ。
「わたくしだって、好きで何も知らなかったわけじゃないわ」
「ええ、知っている」
「お姉様ばかりに必要なことだと思っていたのよ」
「そうでしょうね」
「だって、皆そう扱っていたもの!」
その叫びに、私は一瞬だけ言葉を失う。
確かにそうだった。
必要な教育は私へ。 可憐でいればいい役割はフロレッタへ。
家も、周囲も、ずっとそう分けていた。
「だから急に、今日からあなたがやりなさいって言われても……」
涙がこぼれる。
「できないわよ……」
私はその泣き顔を見つめた。
可哀想だと思う。 それは本当だ。
けれど、だからといって全部を免除されるべきだとも思わない。
少しのあいだ黙ってから、私は立ち上がり、書棚から一冊の薄い帳面を取り出した。
「これを使いなさい」
フロレッタが涙に濡れた目で見上げる。
「何……?」
「私が基礎を覚えるときに使っていたまとめよ。王族の関係、行事暦、主要家門の位置づけ、初歩の贈答規則。全部ではないけれど、入口にはなるわ」
「お姉様が……?」
「ええ」
「どうして」
その問いに、私は少しだけ苦笑する。
「放っておいても、あなたは王宮で泣くでしょう」
「……」
「それに」
私は帳面を彼女の前へ置いた。
「あなたが務まらないと判断されれば、困るのはあなただけではないもの」
公爵家も、王家も、そしてたぶんルシアンも困る。 私はもう婚約者ではないが、だからといって全く無関係になれるわけではない。
フロレッタは帳面に触れようとして、少しためらった。
「でも……これは、お姉様の……」
「もう私には必要ないわ」
口にした瞬間、ほんの少しだけ胸が痛んだ。
前なら自然に使っていたはずのもの。 何度も書き直し、覚え、積み重ねてきた跡。
それを手放すのだと思えば、痛まないはずがない。
でも、たぶん今はその痛みごと手放す時期なのだろう。
「使うかどうかはあなた次第よ」
私が静かに言うと、フロレッタはようやく帳面を両手で抱えた。
「……ありがとう、お姉様」
その声はまだ揺れていた。
けれど少なくとも、さっきまでの“何もかもひどい”というだけの顔ではなくなっていた。
「ただし」
私はもう一度腰を下ろす。
「それを持っているだけで安心してはだめ。覚えなさい。自分の言葉で答えられるようになりなさい」
「はい……」
「それから、殿下が庇ってくださるたびに甘えすぎないこと」
フロレッタがびくりとする。
「やっぱり、だめなの?」
「その場ではありがたいでしょうね。でも、王妃教育の場でそれを繰り返せば、あなたが軽く見られる」
「でも殿下は、わたくしのために……」
「あなたのためだけではないわ」
私ははっきりと言った。
「殿下は、ご自身が正しいと思う優しさを見せているの。でも王太子がそこで感情を優先すれば、教育そのものが軽んじられる」
フロレッタは唇を噛む。
「そんなつもりじゃないのに」
「つもりではなく、どう見えるかよ」
それが王宮だ。
好意だけでは、評価は守れない。
少しして、フロレッタは帳面を胸に抱えたまま立ち上がった。
「……戻るわ」
「今日の午後は復習でしょう?」
「ええ」
「なら、ちゃんとやりなさい」
「はい」
扉のところで、彼女は一度だけ振り返った。
「お姉様」
「なあに」
「わたくし……本当に、お飾りではだめなのね」
その問いは、ようやく核心に触れたものだった。
私はまっすぐに答える。
「だめよ」
フロレッタは少しだけ目を伏せ、そして小さく頷いて部屋を出ていった。
扉が閉まると、ちょうど入れ違いにミレナが戻ってくる。
「フロレッタ様、お帰りに?」
「ええ」
「お顔は……少し落ち着いていらしたように見えました」
「そうかもしれないわね」
私は机の上から、さっきまであった帳面がなくなっている場所を見る。
「お嬢様、大事なものだったのではありませんか」
「大事だったわ」
「では、なぜ」
「必要そうだったから」
ミレナは少しだけ目を丸くした。
「優しいのですね」
「優しいかしら」
「少なくとも、わたくしにはそう見えます」
私は小さく首を振る。
「半分は、ただの現実的な判断よ」
フロレッタが本当に王太子妃候補として立てなくなれば、王家も公爵家もますます不安定になる。 そして私だって、その混乱から完全に離れられるわけではない。
でも、もう半分は――たぶん情だ。
妹として育った時間は、あの夜ひとつで全部消えるわけではない。
「それにしても」
ミレナが遠慮がちに言う。
「フロレッタ様も、お気づきになったのですね」
「何に?」
「お飾りでは務まらないと」
私は窓の外を見る。
春の庭は穏やかだ。 それでも、王宮の空気はきっと今も張りつめている。
「ええ」
私は静かに答えた。
「ようやくね」
そしてその気づきは、彼女にとってたぶん遅すぎるわけではない。 つらいだろうけれど、まだ取り返しはつく。
問題は、ルシアン殿下のほうだ。
フロレッタが少しずつでも現実を見るようになったとして、あの人はまだ“守るべき可愛い恋人”を見る目のままでいる。
王太子がそうである限り、ずれは残る。
私はカップの冷めかけた紅茶を口に含んだ。
少し苦い。
でも、その苦さが今は妙にしっくりきた。
華やかな王宮。 愛されて選ばれた妹。 誰もが羨むはずの立場。
けれどそこには、笑顔ひとつで埋められない重さがある。
お飾りでは務まらない。
ようやく妹がその言葉を自分のこととして知り始めたのなら、物語はもう、夜会の勝ち負けだけでは終わらないのだろう。
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ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
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