選ばれたのは妹でしたのね――奪われた姉は、静かな逆転で人生を取り戻す

富士山麓

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第九話 お飾りでは務まらない

第九話 お飾りでは務まらない

 フロレッタが王宮へ入って十日が過ぎたころ、屋敷の空気は妙な緊張を帯びていた。

 理由は簡単だ。  王宮から届く報せの内容が、日に日に重くなっているからである。

 最初の数日は、礼法、席次、贈答帳簿、行事暦。厳しいながらも、王妃教育としては当然の範囲だった。だが十日を越えたあたりから、内容が変わり始めた。

 侍女の配置確認。  衣装費と交際費の管理。  王宮内での裁可手順の基礎。  祈祷日程と王族の公的行動の整合。  来客の格に応じた接遇の差。

 つまり、ただ美しく座っていれば済む話ではなくなったのだ。

 私は朝の紅茶を前に、王宮から届いた報告書の要約を黙って読んでいた。

「お嬢様」

 ミレナが恐る恐る口を開く。

「……王妃教育とは、ここまで細かいものでしたか」

「ええ」

「もっとこう、礼をして、微笑んで、お言葉遣いを整えるようなものかと」

「それは入口にすぎないわ」

 私は紙を机へ置いた。

「王妃が人前で微笑むのは仕事の一部でしかないもの。その裏で、誰を近づけ、何を通し、どこへ金を流し、どの行事をどう見せるかまで問われるのよ」

 ミレナは少し青ざめた。

「それはもう……お妃様というより」

「半分、管理者ね」

 私は淡々と答える。

 もちろん国そのものを動かすのは王や重臣たちだ。  けれど王妃は、その横で人と金と儀礼の流れを整える。しかも、表向きには優雅さを失わずに。

 美しいだけでは務まらない。  けれど、厳しいだけでもだめだ。

 だからこそ、甘くない。

 そのとき、廊下から少し荒い足音が近づいてきた。ノックも待たずに扉が開く。

 入ってきたのは、フロレッタだった。

 その姿を見て、私は思わず瞬きを一つする。

 十日前より、明らかに痩せていた。  頬の線が少し細くなり、目の下には薄い影が差している。王宮の仕立てのよい薄桃色のドレスを着ているのに、本人がそれに負けて見えた。

「お姉様」

 息が少し上ずっている。

「どうしたの」

「少しだけ……少しだけ、お話ししてもよろしい?」

 私はミレナへ目配せし、紅茶を一客追加するよう告げた。ミレナが下がると、フロレッタは待ちきれないように椅子へ座る。

 座り方ひとつにも、疲労が見えた。

「今日は王宮ではなくこちらに?」

「午前で講義が終わったの。午後は復習と筆写に充てるようにと……」

 筆写まで入っているらしい。  王妃殿下は本当に容赦がない。

「それで?」

 私が静かに促すと、フロレッタは唇を噛んだ。

「お姉様は、あれを全部覚えていらしたの?」

「何を指しているのかしら」

「全部よ」

 思わず、といった様子で声が強くなる。

「席次も、贈答も、祈祷日も、王族方の関係も、どの家がどこと親しくて、どこに気を配るべきかも。あの方々は、そんなことまで当然のようにわたくしへお尋ねになるの」

 私は少しだけ首を傾けた。

「当然でしょうね」

「当然って……!」

 フロレッタが目を見開く。

「わたくしは、まだ入ったばかりなのよ?」

「でも、王太子妃候補として入ったのでしょう?」

 言い返されて、彼女は息を詰めた。

 私はわざと厳しくしているわけではない。  ただ、王宮の論理で言えばそうなるだけだ。

「最初から完璧でなくてよいのは分かっているはずよ」

 私は少しだけ声を和らげた。

「でも、知らなくていいわけではないわ」

「だって、お姉様は長いあいだ準備してこられたもの。わたくしとは違うじゃない」

「そうね。違うわ」

 その言葉に、フロレッタの顔がわずかに固くなる。

 責められると思ったのかもしれない。

 けれど私は続ける。

「だからあなたは、人より早く覚えるしかないの」

 フロレッタが視線を落とす。

「そんなの……無理よ」

「無理でも、やるしかないでしょう」

「お姉様はいつもそう」

 ぽつりと落とされた声に、私は目を細める。

「何が?」

「できる人の言い方をなさるわ」

 その一言には、疲れと、悔しさと、少しの恨みが混じっていた。

 ああ、と私は思う。  ついにそこへ来たのね、と。

 可愛がられてきた妹が、ずっと前から自分の前にいた姉の“できてしまうこと”を、ようやく苦く見る段階へ。

「できる人、ね」

 私はカップを手に取る。

「そう見えていたのなら仕方ないわ」

「違うの?」

「最初から何でもできたわけではないもの」

「でも、お姉様は平然とこなしておられた」

「平然として見せていただけよ」

 フロレッタがゆっくり顔を上げる。

「わたくしだって、最初から全部分かっていたわけではないわ。覚えるまで何度もやり直したし、間違えて恥をかいたこともあるし、講義のあと部屋で泣いたこともある」

「お姉様が……?」

 心底意外そうな顔だった。

「そんなに驚くことかしら」

「だって……お姉様は、いつもきちんとしていて」

「きちんとしていなければならなかっただけよ」

 それが長女で、王太子の婚約者で、未来の王妃候補として育てられるということだった。

 フロレッタは、しばらく言葉を失っていた。

 やがて、小さな声で言う。

「でも、わたくしには向いていない気がするの」

 とうとう、その本音が出た。

「席次も、数字も、家格も、考えることが多すぎるわ。にこにこしていれば済むと思っていたのではないの。でも、笑うより先に覚えることばかりで……」

「王妃教育ですもの」

「そんなの分かってる!」

 珍しく、彼女が声を荒げた。

 すぐに自分でも驚いたらしく、肩を震わせる。

「……ごめんなさい」

「いいのよ」

 私は淡々と答える。

 今の彼女には、怒りを向ける余裕すらないのだろう。

「それで、ルシアン殿下はどう仰っているの?」

 その名を出すと、フロレッタの表情が少しだけ揺らいだ。

「殿下は……気にしなくていいと」

「何を?」

「細かいことなんて、あとから覚えればいいって。今は王宮に慣れるほうが先だって」

 予想通りだ。

 私は心の中で静かに息を吐く。

「それで、楽になった?」

 問いかけると、フロレッタはすぐには頷かなかった。

「……そのときは、少しだけ」

「でも今は?」

「今は、余計につらいわ」

 彼女は指先をぎゅっと握りしめる。

「殿下がそう仰るたびに、王妃殿下はもっと冷たくなるの。お顔には出されないけれど……分かるの。わたくしを見る目が」

 私は黙って聞く。

「女官の方々もそう。何も言わないのに、何かを測っているみたいで……」

「測っているのでしょうね」

「お姉様」

「事実よ」

 私は視線を逸らさずに言った。

「あなたがこの立場に足るかどうか、皆が見ているの」

「そんな……」

「だって、あなたは突然そこへ入ったのですもの」

 ルシアンが選んだ。  社交界がざわめいた。  王宮は受け入れた。  だからこそ、その選択が正しかったかどうかを、皆が冷静に見ている。

「わたくし、そんなに立派なものじゃないのに」

 その言葉に、私は少しだけ眉を寄せた。

「それを今さら言うの?」

「だって、本当だもの」

「本当でも関係ないでしょう」

 気づけば、私の声は少し冷えていた。

「立派でないなら、なぜそこへ行ったの」

 フロレッタがはっと息を呑む。

「お姉様……」

「愛されたから? 選ばれたから? 仕方なかったから?」

 私はゆっくりと言葉を重ねる。

「でも、その場所は、ただ愛されるだけの席ではないわ」

 部屋の空気が張りつめる。

 私は分かっていた。  少しきつい。  でも、今ここでごまかしても仕方がない。

「あなたが本当にそこにいたいなら、覚えるしかないの。向いていないと泣いても、周りは席を軽くしてはくれない」

 フロレッタの瞳に涙が浮かんだ。

「わたくしだって、好きで何も知らなかったわけじゃないわ」

「ええ、知っている」

「お姉様ばかりに必要なことだと思っていたのよ」

「そうでしょうね」

「だって、皆そう扱っていたもの!」

 その叫びに、私は一瞬だけ言葉を失う。

 確かにそうだった。

 必要な教育は私へ。  可憐でいればいい役割はフロレッタへ。

 家も、周囲も、ずっとそう分けていた。

「だから急に、今日からあなたがやりなさいって言われても……」

 涙がこぼれる。

「できないわよ……」

 私はその泣き顔を見つめた。

 可哀想だと思う。  それは本当だ。

 けれど、だからといって全部を免除されるべきだとも思わない。

 少しのあいだ黙ってから、私は立ち上がり、書棚から一冊の薄い帳面を取り出した。

「これを使いなさい」

 フロレッタが涙に濡れた目で見上げる。

「何……?」

「私が基礎を覚えるときに使っていたまとめよ。王族の関係、行事暦、主要家門の位置づけ、初歩の贈答規則。全部ではないけれど、入口にはなるわ」

「お姉様が……?」

「ええ」

「どうして」

 その問いに、私は少しだけ苦笑する。

「放っておいても、あなたは王宮で泣くでしょう」

「……」

「それに」

 私は帳面を彼女の前へ置いた。

「あなたが務まらないと判断されれば、困るのはあなただけではないもの」

 公爵家も、王家も、そしてたぶんルシアンも困る。  私はもう婚約者ではないが、だからといって全く無関係になれるわけではない。

 フロレッタは帳面に触れようとして、少しためらった。

「でも……これは、お姉様の……」

「もう私には必要ないわ」

 口にした瞬間、ほんの少しだけ胸が痛んだ。

 前なら自然に使っていたはずのもの。  何度も書き直し、覚え、積み重ねてきた跡。

 それを手放すのだと思えば、痛まないはずがない。

 でも、たぶん今はその痛みごと手放す時期なのだろう。

「使うかどうかはあなた次第よ」

 私が静かに言うと、フロレッタはようやく帳面を両手で抱えた。

「……ありがとう、お姉様」

 その声はまだ揺れていた。

 けれど少なくとも、さっきまでの“何もかもひどい”というだけの顔ではなくなっていた。

「ただし」

 私はもう一度腰を下ろす。

「それを持っているだけで安心してはだめ。覚えなさい。自分の言葉で答えられるようになりなさい」

「はい……」

「それから、殿下が庇ってくださるたびに甘えすぎないこと」

 フロレッタがびくりとする。

「やっぱり、だめなの?」

「その場ではありがたいでしょうね。でも、王妃教育の場でそれを繰り返せば、あなたが軽く見られる」

「でも殿下は、わたくしのために……」

「あなたのためだけではないわ」

 私ははっきりと言った。

「殿下は、ご自身が正しいと思う優しさを見せているの。でも王太子がそこで感情を優先すれば、教育そのものが軽んじられる」

 フロレッタは唇を噛む。

「そんなつもりじゃないのに」

「つもりではなく、どう見えるかよ」

 それが王宮だ。

 好意だけでは、評価は守れない。

 少しして、フロレッタは帳面を胸に抱えたまま立ち上がった。

「……戻るわ」

「今日の午後は復習でしょう?」

「ええ」

「なら、ちゃんとやりなさい」

「はい」

 扉のところで、彼女は一度だけ振り返った。

「お姉様」

「なあに」

「わたくし……本当に、お飾りではだめなのね」

 その問いは、ようやく核心に触れたものだった。

 私はまっすぐに答える。

「だめよ」

 フロレッタは少しだけ目を伏せ、そして小さく頷いて部屋を出ていった。

 扉が閉まると、ちょうど入れ違いにミレナが戻ってくる。

「フロレッタ様、お帰りに?」

「ええ」

「お顔は……少し落ち着いていらしたように見えました」

「そうかもしれないわね」

 私は机の上から、さっきまであった帳面がなくなっている場所を見る。

「お嬢様、大事なものだったのではありませんか」

「大事だったわ」

「では、なぜ」

「必要そうだったから」

 ミレナは少しだけ目を丸くした。

「優しいのですね」

「優しいかしら」

「少なくとも、わたくしにはそう見えます」

 私は小さく首を振る。

「半分は、ただの現実的な判断よ」

 フロレッタが本当に王太子妃候補として立てなくなれば、王家も公爵家もますます不安定になる。  そして私だって、その混乱から完全に離れられるわけではない。

 でも、もう半分は――たぶん情だ。

 妹として育った時間は、あの夜ひとつで全部消えるわけではない。

「それにしても」

 ミレナが遠慮がちに言う。

「フロレッタ様も、お気づきになったのですね」

「何に?」

「お飾りでは務まらないと」

 私は窓の外を見る。

 春の庭は穏やかだ。  それでも、王宮の空気はきっと今も張りつめている。

「ええ」

 私は静かに答えた。

「ようやくね」

 そしてその気づきは、彼女にとってたぶん遅すぎるわけではない。  つらいだろうけれど、まだ取り返しはつく。

 問題は、ルシアン殿下のほうだ。

 フロレッタが少しずつでも現実を見るようになったとして、あの人はまだ“守るべき可愛い恋人”を見る目のままでいる。

 王太子がそうである限り、ずれは残る。

 私はカップの冷めかけた紅茶を口に含んだ。

 少し苦い。

 でも、その苦さが今は妙にしっくりきた。

 華やかな王宮。  愛されて選ばれた妹。  誰もが羨むはずの立場。

 けれどそこには、笑顔ひとつで埋められない重さがある。

 お飾りでは務まらない。

 ようやく妹がその言葉を自分のこととして知り始めたのなら、物語はもう、夜会の勝ち負けだけでは終わらないのだろう。
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