上 下
2 / 52
20XX/06/26(日)

p.m.9:12「弟からの電話」

しおりを挟む

 一風が帰宅した時、時刻は夜の九時を過ぎていた。

 アルバイトをしている喫茶店『黒小鷺の巣』から自宅のアパートまで、赤信号に捕まったとしても、徒歩で十分ほどの距離だ。普段であれば遅くとも八時半前には帰宅できている。

 店主の玻璃木夫妻が所有する格安アパート『川の畔』は、その名の通り、海へ流れる手前の河川――御笠川を望める立地にあった。一階ふた部屋が三階分、全部で六家庭が入居している。彼女の部屋は三階だ。バス、トイレ別の1LDKで、リビングから続くテラスに出れば、大きな川を見ることができる。それでいて家賃はわずか三万四千円。破格の値段は勤労学生にはありがたい。

 いつもであれば帰宅してすぐシャワーを浴びるのだが、今日は疲れていて動きたくなかった。物があまりないリビングの床に荷物を置き、そのまま倒れるようにうつ伏せで寝転んだ。行儀が悪いと思いながらも、寝たまま足を使って靴下を脱ぐ。静かな部屋の中では、彼女がもぞもぞと動く音だけがしていた。脱ぎ終わって完全に動きを止めると、大きな窓の向こうから、雨の音が聞こえてくる。降りやんでいた雨は再び降り出したらしい。

 深く、深く、溜め息を吐く。

(なんなんだ、あの男は……)

 頭の中を占めているのは、黒小鷺の巣で彼女の秘密を暴いた男性の、したり顔だ。嫌に整っているせいもあって、余計に憎々しい。苛立ちのまま足をばたつかせようとして、止まる。下の階に住む、自称天才ギタリストが、うるせえ!と怒鳴りこんでくる場面が脳裏をよぎったからだ。

 一風はしばらくジッとしていたが、やがて肌寒さを感じて身体を起こした。冷たいフローリングにペタリと座り込んだまま動かない。一分、二分……そうしていると、ふと彼女のスマホが着信を告げた。

 のろのろと、動き出す。置きっぱなしにしていた荷物――白いトートバッグからスマホを取り出せば、画面に相手の名前が表示されていた。その名前を見て、一風は目を丸くする。

 ――月島八雲(やくも)。

 彼女の二歳下の弟だ。頻繁に連絡を取ったりする姉弟ではなく、実家を出て以来、一年に一度、生存報告をする程度の関わりしかなかった。そんな相手からの唐突な連絡に、彼女は首を傾げながら出る。

「もしもし?」
「……姉ちゃん?」
「うん。どうしたの?」

 スマホの向こうから聞こえる声は小さい。弟の八雲は昔から、ボソボソと自信なさそうに喋る。両親が長身だったこともあり、八雲も子供の頃から身体が大きかった。しかし猫背で、身を縮めてばかりいたせいで、同年代の子たちと比べると存在感が希薄だったように思う。言葉数も決して多くはなく、子供の頃の一風は、弟が喋れないのだと本気で思っていたほどだ。

「……姉ちゃん……近い内に一回、島、帰ってきてくれん?」
「え……なんで?」

 島の話題を一日に二度も出されるとは思わず、一風は警戒する。それが言葉端に棘として出てしまっていたようで、八雲が小さく息を呑むのが分かった。

「なんでって……あんね、母ちゃんが、二か月くらい前に倒れたとやけど……それからあんまり、良くなくて……もう、危ないかもしれん……」
「は……?」

 今度は一風が息を呑む番だ。

「危ないって、何? それに倒れたなんて聞いてないけど?」
「母ちゃんが、姉ちゃんには言うなって……戻って来たくもなかとだろうし、心配かけるだけだけん、黙っとってって……」
「それは……そう……」

 スマホを持たない手で、彼女はひたいを押さえた。どうして黙っていたのかと、弟や母を責めることはできない。徹底して故郷を避け、島を出たきり四年以上も帰省していないのは自分だ。仮に二か月前に話を聞いていたとしても、なんだかんだ理由をつけて帰省を避けたであろうと、その自覚はあった。

 彼女は一度だけ深呼吸をする。それだけで気持ちが完全に凪ぐわけではないが、何もやらないよりはマシだった。

「お母さんはなんの病気なの? お医者さんはなんだって?」
「病気って言うか……その、呪いの類いだって――」
「八雲!!」

 気持ちを落ちつけようとしていたが、努力虚しく、一風は声を荒げた。馬鹿馬鹿しい、ありえない、嫌になる、もうたくさんだ。瞬間湯沸かし器のように一瞬で感情が沸騰する。

「そういうのはいいの! お医者さんにはちゃんと診てもらったの? 島のやぶ医者じゃなくて、本渡のお医者さん!」
「う、ううん、診てもらっとらん……」
「だったらまずは本渡の病院に行って。お医者さんにも診せないで、危ないとか、そういう判断しないで」
「でも、おれがなんか言っても、母ちゃんは島を出らんと思う」
「説得できないの?」
「……姉ちゃんがしてよ。たぶん、おれ、できん……」
「っ……」

 八雲の言いたいことはわかった。自分が何を言ったところで、母は聞き入れないと言いたいのだろう。あの島に住む人間は、みんなそうだ。世界的にもトップクラスのレベルを誇る、日本の医療を信用していない。老いも若きも……特に、歳を重ねた島民は、そうだった。

 九州某所に存在する孤島――環音螺島(かんねらじま)。本渡との接触は必要最低限のもので、島民はほぼ自給自足の生活を送っている。小中学校が一環になった学校はあるが、高校はない。普通の離島であれば、島を出て本渡の高校へ行く子供がほとんどだろう。しかし環音螺島の子供は外へ出ない。中学校を卒業したら、そのまま島で働きはじめるのだ。

 だから、月島一風は異端だった。

 彼女は中学を卒業してすぐ、島を出て本渡の高校へ入学した。島の人間や教師は止めようとして、揉めに揉めたが、最終的には無事に島外に出ることができた。高校では寮生活をし、勉強とアルバイトに励んだ。そして卒業後は福岡県の大学に入学し、今、勤労学生として一人暮らしをしている。

 父親はいない。彼女が十歳の時に漁師だった父は、海の事故で死んだ。そのため、母のことは、弟に丸投げしている現状だった。彼はまだ十八歳だ。頻繁に連絡を取り合うような姉弟関係ではないが、決して、嫌いではない。

 心の片隅で、嫌だ、帰りたくないと、喚く自分がいる。それでも、その声は聞こえないフリをして、月島一風は決断した。

「――少し待ってて。スケジュールとか調整して、島に行くから」
「ほ、本当……?」
「うん。本当」
「姉ちゃん、ありがとう……」

 それから少し話をして、一風はスマホを置いた。

 ゴロンと仰向けで床に寝転ぶ。電気が眩しくて、目を閉じた。雨の音が聞こえる。梅雨はまだ明けない。心なしか普段より川の流れも早く、ごうごうと勢いよく流れているようだ。

(島に、行く……)

 気が重い。

 環音螺島、別名――神の居る島。

 島民は、神を崇めている。怪異を恐れている。呪いを信じている。あやかしと共に在ると謳っている。あの島に住む人間は、目に見えない、フィクションのような世界に、生きているのだ。

 なんて不気味なのだろう。そんな島に生まれ、十五年も生きていたことが、おぞましくて仕方がない。馬鹿げた祭事も、小学校で覚えさせられた祝詞も、環音螺島で身についた全てのものが、気持ち悪かった。

 それでも、母や弟は切り捨てられない。家族に愛されていることを疑ったことはなく、ひとりで島から逃げたことに、罪悪感のような気持ちすらある。母は根っからの島の人間で、オカルト染みたソレらを信じていた。それでも一風が拒否反応を見せてからは、信じなさいと強要してきたことはない。弟は気が弱いこともあって、いつも一風の後ろをくっついて回っていた。かわいい、弟だ。

 ゆっくり目を開けて、動き出す。

 トートバッグを漁り、底のほうへ入りこんでしまっていた名刺を取り出す。書かれている電話番号をスマホに打ち込み、相手が出るのを待った。ワンコール、ツーコール、スリーコール目は、半分で終わる。

「はいはい、どちら様?」
「……月島です」
「一風ちゃん?」
「はい。先ほどのご提案を、お受けしようと思います」

 名刺に書かれている名前は、神々廻慈郎(ししばじろう)。顔は見えないのに、スマホの向こうで、スリーピースのスーツを身に纏った男が笑みを浮かべるのが、一風にはハッキリと分かった。




しおりを挟む

処理中です...